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「ちょっとごめんよ〜。隣、空いてるかい?」


 紗世は管理人の呼びかけに戸惑いの色を隠せなかった。他にも空いている席があるのに何故ここへ座ろうとするのか、何が目的なのか、管理人へ疑いの目を向けても仕方なかった。


「は、はい……。どうぞ」

 

 管理人は紗世から不審な目で見られていることに気づきゆっくりと話し出す。一平と違い管理人は紗世に対して好意なんて抱いていない。偶には女性とも話したいだけだった。


「ハハ……。お嬢さん、オレってそんなに不審者に見えるかい?」

「え?いえ……。ただ他にも席が空いてるのになぁとは思ってます」

「だよなぁ……。この間さ、岸田の坊やとキャッチボールしてた女の子だろ?オレこの球場とあの坊やのいる寮を管理している者さ」


 紗世はそれを聞いてピンッときた。キャッチボールしていた時に『閉める時間だぞー!』と声をかけていた男性の声にそっくりだったからだ。紗世は管理人へ向けていた疑いが少しだけ取れた。


「あ!あの、私たちがキャッチボールしてた時に……」

「そうそう。閉める時間を知らせたのはオレさ……。でも岸田の坊やがオレにわがまま言うなんて初めてでさ、お嬢さんと楽しそうにキャッチボールしてるじゃないか。なんだかそれを邪魔するのもどうかと思ってな……」

「あ、あの時はすみませんでした!その、岸田君は悪くないんです。私が無理やりに……」


 紗世はそう言って座ったまま両手を膝の上に置き姿勢を正して頭を下げた。管理人は紗世の嫌みを感じさせない素直な態度が可愛らしく見えている。管理人はあの時の事なんかなんとも思っていない。


「フ……。お嬢さん律儀だねぇ。別に気にしちゃいねえよ。オレもさ、あの坊やを気にしてたんだ。最近暗かったからなぁ。でもさ、お嬢さんと楽しそうにキャッチボールしてた時の坊や。あんな表情見たの初めてだったんだ。坊やにとってよっぽど嬉しかったんだろうなぁ」


 管理人は紗世の方を見ずに練習に励んでいる一平の方を観ながら話している。管理人が何を言おうとしているのかは予想がついていた。一平の方は管理人と紗世が一緒にグラウンドを観ていることを知らずにノックを受けている。


「ほら。坊やの顔見てごらんよ……。目つきが変わってさ、一生懸命練習してるように見えないかい?お嬢さんの効果が大きいように感じるのはオレだけかなぁ……」

「あ、そんな……。私はただ練習を観に来てただけですから……。でも一軍への意識が高まったのは私にも伝わってきてます」

「そうか……。オレはやっぱりお嬢さんの存在が大きいと思うよ。やっぱ好きな人からの何気ない一言が坊やを変えてくれたのかもなぁ」


 管理人の言った言葉に予想していたとはいえ紗世は顔が火照ってしまった。そして独特の素朴な雰囲気を醸し出す話し方がより紗世の心を響かせる。管理人はそんな紗世を見て『もう少し言い回しを考えた方が良かったかな?』と思いそれ以上は紗世と一平の問題でもあるため管理人は何も言わなかった。


「今日も坊やに会ってあげるのかい?」

「ん〜……。どうでしょうか。岸田君の体調次第かと……」

「フフ。そうか……。だが、今日はちょっとグラウンドを延長させるのは難しいぞ……。悪りいけどな……」

「あ、そうなんですか……」

「ごめんなぁ……。さ〜てと、じゃあオレは仕事があるから。良かったらさ、今日も坊やに会ってやってくれ。オレが言いたいのはそれだけだ……。そんじゃな」


 管理人は紗世へそう言い残し出口の方へと歩いて行った。紗世は管理人の言う一言一言が今まで感じたことのない世界観へと招かれたような気がしてならなかった。オーナー夫婦や香織とはまた違う雰囲気ではあるがとても説得力を感じさせられるように思わされたからだ。

 そして夕方の五時半が回り球場内に女性の声のアナウンスが流れる。この日は特にベテラン投手の復帰初日ということもありスタンドにはまだ多くの観客が座っていた。


『本日はお暑い中、郡山球場へお越しくださりありがとうございました。本日の練習は終了となります。お忘れ物など御座いませんようお願い致します。なお、出口が混みあう恐れもありますので係員の指示に従いご退席下さい。本日は誠にありがとうございました』


 紗世はグラウンドの方を観るとベンチ前でミーティングが開かれている。この間来た時はそのベンチ横にグラウンドへ通じるドアが開いていたがこの日は開く気配がない。そして観客も荷物をカバンに入れてゆっくりとスタンドから出て行っている。紗世はとりあえずスタンドにいる観客がいなくなるまで残ることにした。もしかしたら一平からどこで会うか言ってくるかもしれないと思って。

 スタンドにいる観客が大分減ってきて紗世はグラウンドから何かのアクションを見せるのを待っていた。お盆を過ぎて暦はもう立秋に入っているが、上空からはそんなこと『関係ないね!』と言うような強い西日が差していた。この日も紗世は帰ったら日に焼けた鼻のてっぺんの痛みと格闘しなきゃいけない。『もー!早く出て来てよー!』と思いながら紗世はムスッとして誰もいないベンチをずっと見ていた。しかしスタンドの観客がいなくなって三十分ほど過ぎても一平は出てくる気配が無い。紗世は『仕方ない!』と小さなため息を吐いて球場から出た。郡山球場からバスが出ているが、土の匂いや木の匂いにセミの鳴き声を堪能しながら駅まで歩くことにした。普段紗世は建物ばかりがある地域に住んでいて息苦しさを感じている中で緑の多いこの地域に出来るだけ長くいたかった。

 もう殆どの観客は駅に着いているかそれとも違う手段で帰っているか通りは一人、二人歩いているだけだ。そして歩いている中紗世の横に車が一台止まって運転席から誰かが呼びかけてくる。


「おー。さっきのお嬢さんじゃないかー!」


 紗世は一瞬誰?と思い驚いていたがゆっくりと運転席の方を覗くと一気に警戒心が解けた。


「あれ?管理人さん、ですよね?どうされたんですか?」

「いやー、料理番からさー、『材料が足りねえ』なんて言うもんだから近くの店に買いに行こうとしてたところなんだ」

「そうなんですねー。お疲れ様でーす!」

「ところで岸田の坊やには会ってくれたかい?さっきお嬢さんを必死になって球場の外を探してたよー」


『今日はもう遅えよ……』と思いながら紗世は球場に戻ろうという気は無かった。内心暑さで少し疲れていたこともあって、駅の近くに定食屋さんがあるならそこで涼みながら食べようと考えていた。


「そうでしたかー。んー、やっぱり今日は帰ります。ちょっと体がシンドいので……。岸田君には『また観に行く』とだけお伝えして頂けますかー?」

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