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 紗世を見送って一平は寮へと歩いていた。駅から郡山球場とその近くにある選手の寮へは少し山道を登らなければいけない。夜の八時過ぎ、『ジーーー』と地中からケラという虫の鳴き声が聴こえる。選手寮へと着いて玄関の喫煙場所で郡山球場を管理してる六十代の男性が一服していた。この男性はこの選手寮の管理人でもある。一平の足音に気付き管理人が声をかける。


「おー、お帰り。どうだい……、少しは気が晴れたかい?」

「はい……。おじさん、今日はありがとうございました。わがまま言っちゃって」


 本来ならこんな事は禁止されていて一平はそれを重々と理解していた。しかし管理人は落ち着いた雰囲気で煙草を吸っていた。その煙草の火が明かりのないこの場所を赤々と灯している。そしてゆっくりと吸った煙を吐いて静かに話し出した。


「いや、それは構わねえよ。オレもな、今まで色んな選手を見てきたんだ。中には高額な年俸を貰えるまで育った選手もいればさ、後悔だけ残して去って行った選手もな……。最近のお前さん下の方ばっか見てるだろ?それであの女の子といる時さ、生き生きとしてて今回だけは見逃してやろうって思ったのさ……。それで復調の兆しになるならな」

「そんなにオレって……」

「あー、見てらんなかったなぁ。もちろんさ、ここは誰かが上へ行って誰かが去らなきゃいけない世界じゃないか。そりゃ皆んな一軍へ行ってもらって活躍して欲しいけどさ。オレが言うのもなんだけどさ、今のお前さんはもう一息の所まで来てると思うんだ。せっかくここまで来て気持ちで参ったんじゃ勿体ないだろ?」


 管理してるだけかもしれないが今まで多くの選手を見てきた彼の言葉に一平はとても説得力を感じている。口にしないだけで一平のことをしっかりと見てくれていた。管理人も一平だけでなくここにいる選手たち皆んながそれぞれ鬱憤を晴らせる場所さえあればとは思っている。しかしシーズン中はそういうわけにもいかない。それに育成の選手たちの給料も微々たるもので遊びに行く余裕も無い。バットやグラブは先輩選手のお下がりを使っている場合が多い。一平は高校卒業する際に高校時代の恩師である源田監督から貰った新品のグラブを今でも大切にして使っている。そのグラブには『日進月歩』という文字が刻まれている。とにかく先を見て進歩して欲しいという源田監督の願いが込められた言葉だ。


「おじさん……。オレ……、オレって悪い方に考え過ぎてたんですかね……」

「呆れたなぁ……。お前さん今頃それに気付いたのかい?高校時代の写真とか持ってるなら見比べてみな。もう一人前の体つきじゃないか」


 これが一平の大きな課題だった。もう少し他人に耳を傾けるような歩み寄る姿勢を持ち合わせていたらまだ早く上へ行けただろう。そして紗世を泣かせるようなこともさせずに済んだはずだった。


「だからさ、いきなり性格を変えろなんて言わないよ。でもそろそろ監督とかコーチに意見を求めに行っても良いんじゃないか……?少しずつで良いからさ」

「少しずつ……。まだ間に合いますか……?」


 それを聞いた管理人は呆れた顔して笑いながら新しい煙草に火を付け始めた。誰だって成人したてとはいえ管理人から見ればただのハナタレ小僧にすぎない。だから一平が不安がるのも無理はないと理解をしている。入りたての若い子がいきなりスーパースターへ声をかけるなんてなかなか出来るもんじゃない。しかし一平も大人の仲間入りだ。そろそろ皮を向ける頃合いだと管理人は思っている。そしてこれも一平にとって試練の一つでもあった。


「それはお前さんの気持ち次第だな……。もうこれ以上は何も言えねえよ?」

「……あ、ありがとうございます!なんだか今日は色々収穫がありました!」

「フフ……、そうかい。それにしてもあの女の子可愛かったなぁ。付き合ってどれくらいになるんだい?」

「はい?ち、違いますよー!高校時代の同級生です!」


 一平は急に紗世の話題を出されて顏が赤くなっている。そんな表情を見る管理人は微笑んでいた。彼はこの日二人がグラウンドでキャッチボールしているところを見て紗世が一平へ想いを抱いていることに察しはついていた。しかしあえて管理人は一平へそれを伏せることにした。また一平がヘコんだ時にそれを言おうと。管理人から見てあの時の紗世は一人の女性になっていた。そうでなければこの炎天下の中観に来るはずがない。管理人は冷静にその様子を思い返していた。


「さ、明日も朝から練習だろ?今日は見逃してやるけど消灯時間は守れよー」

「え?」


 紗世のことを話してくれるものだと思っていた一平は拍子抜けしてしまった。多くの人を見てきた管理人から今日の紗世が一平に対してどう思っているのかを聞きたかった。そして駅で紗世を抱きしめた話もするつもりだった。いや、聞いて欲しかった。しかし管理人は吸い終えた煙草を少しサビの入った赤い吸いがら入れへ捨てて寮の中へと入って行く。一平はただ黙って寮へ入って行く管理人の後ろ姿を見届けていた。しかし一平には管理人の何気ない一言一言がとてもありがたかった。

 翌日、全体練習前の早朝一平は黙々と寮の上にある山道で走り込みをしていた。寮から先の山道から急勾配になっていて一平はここで走り込みをすることにより下半身を鍛えられると言う思惑があるのだろう。

 そして九時を迎え全体練習が始まり一平はティーバッティングに励んでいた。朝の九時台とはいえ気温はもう三十度を超える暑さの中バットを振るたびにスポーツ刈りにしている一平の頭からは汗が飛び散っていた。打撃コーチも最近一平が真剣な目つきに変わっていることに気付いていた。心の中では目つきの変わった真剣な表情で練習に励む一平を褒めてあげたい気持ちでいっぱいだったが、一人だけに感情を見せることは出来ない。コーチである以上即戦力となる選手を一軍へ上げるという役割がある。そして選手を見極めることも求められるために慎重に見ていかなければならない。それでも大好きな野球に対する意識が変わってくれたことは嬉しく思っていた。一平も些細なことでもコーチへ意見を求めるようになってきている。これは決して上辺だけでしているわけじゃない。紗世や管理人の言葉を胸に今自分が置かれている立場を再認識した上で考え方が変わり先を見据えれるようにもなり一軍での試合に出たいという思いがより強くなったからだ。この試練を乗り越える先にきっと報われる何かがあると信じて日々を送れるようにもなった。その報いは一軍へ上がることだけだとは限らないかもしれない、もしかして紗世が振り向いてくれるかもしれない。先日駅で見送った際に抱きしめた紗世の無防備だった感触が一平には今も強く残っている。だったら今度は結果を出した自分を見て紗世が突発的に抱きしめてもらえるよう一日を大事にして練習に取り組んで行こうと考え始めていた。

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