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 夕暮れ前、郡山球場の最寄り駅まで一平は紗世を見送りに来ていた。県境にあるこの駅の周りは建物は全く無く辺りは田んぼや畑で静まりかえっている。唯一ひぐらしの鳴き声だけが二人の一日を締めくくろうかとしている。あれから一平は球場の外で紗世を待たせ寮へ急いで戻り汗で汚れた上着だけを着替えてやって来た。紗世も待っている間持っている香水で誤魔化すように汗の臭いを消していた。しかし二人とも掻いた汗の臭いが少しだけ残っている。そして駅に着いて電車が来るのを待っていた。構内には誰もいない。ポツンポツンと可愛らしい電灯が二、三箇所あるだけだ。


「ここって長閑だねー……。良い所じゃない」

「そうかぁ?ここってホント何も無いんだぞ〜?」

「ふふ……、確かに。せめて近くにコンビニぐらいはあってほしいよね」


 一平は少し疲れた顔を見せている紗世とまだ離れたくなかった。まだ電車が来て欲しくない。一平自身高校時代から紗世への想いも心置きなく告白することも出来た。感謝と同時に分刻みに紗世への想いが強くなっていく。手だけでも握りたい。しかしそれは流石に出来なかった。


「……ねえ、岸田君ってさ。今まで誰にも相談せずに二年間ここで練習してたの?」


 これは紗世自身の課題でもあった。


『結局一人では限界があるんじゃない?しかし愚痴を言えば言うほど聞き入られるものなの?私が逆の立場だったらウンザリしてるかもしれない……。香織さんのように自分の心に留めておくなんて私にはどうしても……』


「そうだな……。加美川も知ってると思うけどさ、オレってあまり人との接し方がイマイチ分からないんだ」


 紗世には人を惹きつける人徳があるのかもしれない。それは性格もあるだろうし外見で寄り付いて来る輩もいるだろう。しかし一平の方は残念ながら友人がいない。自分から歩み寄るのも好きじゃない。さらに歩み寄られることもない。チームメイトに話したくてもどう接すれば良いのかさえ分からなかった。


「覚えてるかなぁ。加美川さ、昔オレにこう言ってくれたんだよ。『見てる人は見てる』って……。その言葉は今でも胸に焼き付いてるんだ。その言葉を信じていつかは認められ一軍へ上がってみせるんだって……。でもプロとなると結果が全てでそれは綺麗ごとにしかならないんだよなぁ……。だから色々考えていくうちにどうしても行き詰まっちゃうんだ……」

「そっか……。岸田君も葛藤があったんだね。高校時代のような言葉を言ったとしても結果にならないと意味が無いんだよね……。でもそれって辛くないの……?」


 一平は野球が好きであることに変わりはない。しかし心の中では今の現状は自分のためになるのか、結局は無駄となって終わるのか、不安で仕方なかった。そんな中一平を救ったのは他の誰でもない紗世の一言だった。


「そりゃ辛いに決まってる……。でも加美川こうも言ってくれたんだよ。この間の電話でさ『体つきが良くなったね』って。正直な話さ、あの時言われるまでオレ全く気付かなかった」


 そう。一平の心はそれを言われるまでもう精神的に限界まできていた。しかし電話で受けた紗世からの檄が一平の千切れかけていた糸をなんとか繋ぎ止めてくれた。そして一平はこう考えるようになれた。


「だから今は試練の時を迎えてるんだって……」

「……試練?」

「ああ……。知らないうちにここまで体づくりが出来た。そしてオレの中でやっと本当の土台が出来た。今までの苦難は決して無駄じゃなくてこれからそれを活かせるかどうか試せるところまで来れたんだって。じゃあ次はさらに腕を磨いて行こう。そうやって考えていくとより先を追い求めたくなるようになって来たんだ」


 香織に対してもそう、今回も何気ない一言が一平を奮い立たせた。紗世は自分で言ったとはいえ言葉の重要性を理解するようになってきた。それだけに元カレであった健二への罪は重く感じている。これがもし相手の人生を狂わせるような無責任な発言をしていたら……?今ごろ香織や一平はどうなってたんだろう?と。しかし二人ともそれがプラスになっていることは紛れも無い事実だ。紗世は一平の成長した言葉に胸を打たれていた。


「岸田君……。なんだかカッコよくなったね……」


 一平は驚いたような表情で紗世の方へ顔を向けた。紗世はポツリと思ったことを言ってしまい顏が赤くなっている。そして電車の来るシグナル音が構内に響き渡る。辺りはもう暗くなっていてひぐらしの鳴き声も今は聴こえない。そして警笛を鳴らして電車が駅へとゆっくり入って来る。電車が止まりドアが開いた時だった。


「ちょ……」


 一平は車両に乗ろうとしている紗世を引き止め力強く抱きしめた。一平からは練習した後の汗の臭いがしている。紗世にとってその汗は一平の将来へと繋がるような無駄のないものであり気にも留めなかった。しかし無情にもドアの閉める車掌のアナウンスが流れ紗世はそっと抱きしめている一平の腕を離した。そして一平を見たまま車内へと入って行く。一平はまだ側にいて欲しかった。するとドアが閉まると同時に紗世は言った。


「今日は嬉しかった……。またいつでもメールしてきて」


 ドアが閉まりゆっくりと電車が動き始める。一平は数メートルまで追いかけたが電車の速さには敵わない。しかし紗世もドア越しからずっと一平を見ていた。電車の去った構内にいるのは名残惜しく紗世を見送っていた一平だけだった。

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