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「お疲れ……」

「ああ……。今日のこんな暑い中わざわざ来てくれたんだ」


 一平の太ももは少し痙攣している。紗世はその症状になった一平を嬉しく思った。決して一平の不幸を喜んでいるんじゃない。抜き打ちで観に来て気付かれる前から泥まみれになりユニフォームを汚すまで練習した姿を見て感心していたからだ。そして静かに口を開いた。


「出来るじゃん……。久しぶりに見たなぁ。岸田君のあの目つき」

「加美川が言ってくれたからだよ……。でもそれ以上にやっぱりオレって野球が好きなんだ。辞めたくない。そして大好きだったお前を……」


 紗世はドキッとして一平の方を向いた。そう。一平は高校時代から紗世に対し恋心を抱いていた。告白をしたかった。しかし一平はフラれてお互い気まずくなるのが怖くて今日まで出来ずにいる。ずっと紗世と話せる中でいたいから。一平は痙攣させた太ももの上に握り拳を作り下を向いている。そしてそっと紗世の方へ顔を向けると微笑んで一平を見ていた。鼻のてっぺんが日焼けして赤くなっている。


「大好きなお前を振り向かせたい……。好きな野球で結果を残して活躍する姿を見せて」


 夕方の五時過ぎ、グラウンドには少しだけ気温が下がりぬるい風が汗を掻いている二人へとても心地良くさせていた。その風は一平から紗世へと吹いていて汗臭さとスプレー式サロンパスの匂いが紗世の鼻へと伝っていく。


「ねえ。久しぶりに私キャッチボールしたい。ダメかな?」


 それを聞いた一平は不思議な目で紗世を見ていた。しかし紗世はグラウンドの方をずっと眺めている。紗世は久しぶりに汗を掻いた勇ましい臭いが懐かしく感じたのだろう。高校卒業してからは一度もグラブやボールを触っていない。


「部活が終わった時さ、岸田君って時々キャッチボールに付き合ってくれたよね……。なんだか懐かしくなっちゃってさ」

「別に加美川がそこまで言うなら……。でもあの時の加美川も無邪気な笑顔を見せてくれてキャッチボールしてたんだよなー。源田監督の人相が怖かったからさ、加美川の笑顔がとても天使のように感じてた……」

「はぁ?私が天使〜?それはちょっと大げさじゃない?」


 紗世の反応に笑いながら一平は立ち上がってグラウンドへ行くように促す。紗世はただ黙って一平について行った。そしてスタンドから下りてグラウンドの前で二人とも入る前に一礼をして中に入った。マウンドにはサラサラと乾いた土が撒かれていて時々風が吹くたびに砂ぼこりが舞っている。空を見上げると雲一つない青空だ。そして一平がベンチ裏から紗世のグラブを持って出てきた。


「ほら。少し臭うかもしれないけど……」

「ううん。平気!なんだか懐かしいなぁ……」


 そして一平は綺麗に整備されたマウンドの方へ紗世を連れて行く。ホースを使って水で固めたはずだがもう乾いて歩くたびに土の踏まれる音が聴こえる。二人はマウンドの真ん中に立ち紗世はピッチャー側、一平はキャッチャー側に立っている。そして日陰が無く眩しい西日が二人を当てている。


「良いかー?投げるぞー」


 一平の投げたボールがズシンと紗世のグラブへと入ってきた。紗世は痛みを堪えている。一平の投げるボールはこんなに重かったか?と。ボールは少し凹みがあり茶色い染みが付いている。そして紗世も一平の方へボールを投げ返す。すると受けた一平のグラブに音が鳴る。誰もいない中でキャッチボールをしている中、ボールがグラブへ入った音だけが響き渡っている。今の二人にはセミの鳴き声なんて耳に入ってはいない。


「もー、岸田君さー、もう少し優しく投げてよー!私こう見えてもレディーなんだからさー」

「えー?ゆっくり投げてんじゃんっ。加美川ももう少し速く投げろよー!」

「投げてんじゃーん!もー、ホント痛いんだからー」


 一平はそれだけ高校時代よりも体力をつけている証拠だった。紗世も手の皮は厚い方だ。しかし一平の投げるボールはもう高校時代のあどけなかった部員の頃とははるかに違っていた。しばらくキャッチボールをしていると球場の管理人が大声を出して一平に話しかけてきた。


「おーい!いつまでやってんだー!もうそろそろ閉める時間だぞー!」

「すみませーん!今日だけもう三十分延長させてくれませんかー?」


 管理人とは一平が入団した当初からお世話になっている。腕時計を見て少し渋る表情を見せているが仕方なく了承した。しかしここのルールで本当はこんなことなんてしてはいけない。先があると信じる反面いつ戦力外通告を言い渡されるかも分からない。一平は些細な楽しい思い出も作っておきたかった。


「仕方ねーなー。じゃああと三十分だけだぞー。終わったら呼びに来いよー!」

「アザーっす!」

「よし!じゃあ加美川ラスト思いっきり投げて来い!」

「言ったなー!」


 紗世は一平へ最後の三十分出来る限り思いっきり投げた。汗が吹き出てくるがそんなことはもうどうでも良い。せっかく普段入れないグラウンドでキャッチボールする中で紗世も悔いを残したくはなかった。徐々に紗世の息が上がっていく。投げるたびに一平のグラブからはボールを取った時の音がグラウンドに響き、そして一生懸命投げている紗世の眼差しがより一平の恋心をくすぐらせている。そして投げ終わった紗世はそのままぺちゃんこ座りをしてマウンドに汗がポタポタと落ちていく。


「あー、疲れたー……。でもちょー気持ち良い感じ!」

「ハハッ。加美川もまだまだ腕が落ちてないなぁ」

「当たり前じゃない。私もアルバイトのおかげで体力には自信があるんだから」

「……加美川、オレ、絶対勝ち取って見せるから……。もう好きな人を不快な思いにさせたりなんかしない」

 息が上がっている紗世は顔が赤くなり下を向いていて火照って出てくる顔の汗がひたすらマウンドに落ちていく。一平に返す言葉がなかなか思いつかない。

「……ありがとう。でもそれは間違ってる。私のためじゃなくて、岸田君自身のために頑張んなきゃ。まずはそこからだよ……。活躍してそれで生活していきたいんでしょ?」

「うん。でも、オレは加美川に対する想いは変わらない。フラれたって良い。もう些細な我慢はしたくないんだ……」


 そう言った一平は地べたへそのまま座り足を伸ばしながら空を見上げるその表情は晴れ晴れとしていた。西日が沈み少し弱まってきたがそれでもまだ二人は日差しに照らされている。そして息が上がっていた紗世も落ち着いてきて一緒に空を見上げた。


「ハァーッ……。やっと高校時代から引きずってたものが取れたような気がしてスッキリしたよ。加美川、ホントにありがとな」

「なによ、それ?なんだかもう会えない空気になってんじゃん……」

「え?じゃあ今後も声をかけても良いの?」

「当たり前だよー……。私は岸田君が首位打者になるまでは見届けてたいから。でも岸田君を好きになるかどうかは別ね」

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