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 一平はこの日一軍の練習に帯同していた。今週末にこのドーム球場で試合が出来る楽しみと紗世が観に来ることがハッキリしてワクワクしている。一平は一軍の選手とキャッチボールに付き合っていながらもそれとなくスタンドを見回していた。しかし一平には紗世の姿がまだ見当たらない。


「今日はなんだか、球に力入ってないかー?」

「そ、そうですか?」


 そんな一平に声を掛けるのは年棒三億のベテラン選手。


『こんな選手に追いつくことなんて到底出来ないだろう……』


 一平はこの時点でもう自分を悲観するような思いでいて、これ以上更に二軍に上がりそして一軍のベンチに入る。今の一平の頭の中はそんなことなんて夢のまた夢だった。他の帯同している育成選手はチームの首脳陣に認めてもらいたくて必死に走り込みをしたり率先してコーチへ意見を求めに行く選手もいた。そんな選手たちに比べて一平はため息を吐くしかない。成績が伸び悩んでいるのはメンタル的な部分もあると分かってはいる。昔は一平にとって高校時代成績に苦しんでいた時に檄を飛ばしてくれたのは他の誰でもない紗世だけだった。先日このドーム球場で再会したのは一平にとって大きかった。そして覚悟も出来ている。


『今週末の試合を観てもらって加美川からの言葉で何か復調するきっかけを見つけたい。それでもこれ以上オレの成績が上がらなかったら、もう今シーズンで野球を辞めよう……』


 一平もプロの世界は厳しくて何もかも結果を求められる場所であると認識をしていた。高校時代も百人近くいる数多い部員の中から、僅か九人しか入れない先発メンバーに入るためどれだけ汗を掻いて練習に励んできたことか。それでもドラフトに入れてもらえなかった失望感は今でも一平は鮮明に覚えている。

 しばらく一軍の練習に付き合っていてスタンドに観客が増えてきた中、黄色い制服と帽子を被ってビールカップを掲げながら階段を上っている女性を見つけた。紗世だった。紗世は階段を上がり立ち止まってハンドタオルで汗を拭っている。一平は初めてアルバイトしている紗世の姿を目の当たりにした。


『加美川……。あんな大変そうな仕事を……』


 もちろん数日前に従業員通路ですれ違いビールの売りッ子をしていると本人から聞いていてその時は何とも思っていなかった。しかしきつい表情を見せることなく接客をしている今の紗世の姿に驚きを隠せない。


『あれを、試合前からずっとしてるのか……?しかもあんな細い体で……。そんな、ベンチにいるより大変な仕事じゃないか……』


「おーいっ!どうしたー?手が止まってるぞー。もう疲れたのかー?」

「あ、はーい。すみませんっ」


 普段一平は三軍の試合では打席と守備が終わるとベンチに座り水分補給を出来ている。でも紗世は違う。試合が終わるまで体に背負っているビールサーバーが空になってもひたすら売りつつけなければならない。そんな紗世と比較する一平は痛感させられた。


『オレってなにのらりくらりと練習してるんだろう』


 紗世もグラウンドで選手の練習に付き合っている一平の姿に気付いていた。紗世はそんな一平の姿に憤りを感じている。その姿は高校時代に見たような姿ではない。もう観に行く気すら失いかけていた。


『一流の選手になった訳じゃないのに、何あの顔つき……』


 しかしアルバイト中の紗世は一平のために我を今捨てられない。通路入り口の邪魔にならない所へ行きゆっくり目を閉じて自制心を保つようにしている。その時に座席を案内する男性スタッフが心配そうに声をかけてきた。


「どうしたの?大丈夫?」

「あ、はい。大丈夫です」

「この暑さだもんね、シンドくなったら言った方が良いよ」


 紗世はそう言ってくれた男性スタッフに会釈をして仕事に戻った。スタンドは熱気が出てドーム球場内の暑さも日増しに強くなっている。紗世はこの空間が好きで観客から変な事さえされなければやり甲斐を感じていた。しかし今日の紗世は一平の練習態度に気を持っていかれて良い気分にはなれずにいる。


「すみませーんっ、ビールっ」

「はーいっ。ありがとうございますっ」


 紗世はビールカップに注いでいると別の座席の方から話し声が聞こえる。三十代の男女の会話だった。


「良いよなぁ。あーいうのって雇われのスタッフ?」

「え?何が?」

「ほら、キャッチボールしてる相手って選手じゃないだろ?それなら俺もスタッフになりたいなぁ」

「何言ってるのよ〜。でも、どうなんだろうね。ユニフォームじゃないしスタッフなんじゃない?」


 紗世は笑顔で釣り銭を渡し聞いてないフリをしていたかった。しかし無情にも紗世に男女の会話が耳に入ってくる。それは間違いなく一平の事を言っていたからだった。紗世自身も知り合いじゃなければ鼻で笑っていたかもしれない。それでも一平が高校時代に一生懸命練習に励んでレギュラーも勝ち取った。それを見てきた紗世は一平のことをそう言われてとても辛い。許されるものなら泣きたいほどだった。

 紗世は一旦スタッフルームに戻り汗を拭うフリをして目に溜まっていた涙が溢れ出すように流れていく。その時、紗世にとっては都合が悪かった。タイミングよく香織も戻って来て泣いている姿を見られたくない紗世は無礼を承知で背中を向けてなんとか涙を止めようとしている。しかし一度崩壊した涙腺を止めれるほど紗世は器用ではなかった。

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