紗世の思い込み

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 香織とイタリアン料理を食べに行ってから数日が経ち、紗世はビールの入ったタンクを担いでトランペットが鳴り響くホームチーム側の外野スタンドを歩いていた。紗世にとっては一番安心できる場所だった。応援団の人たちは厳ついような風貌をしているが相手の攻撃になるとまるで別人のように優しい表情をしている。そのギャップに紗世もアルバイトを始めた時なんて驚きを隠せなかった。結構優しい人たちなんだと。


「おーっ!紗世ちゃーん。やっとこっち側に来たねー!」


 ちょうどトランペットを弾き終えてひと段落している応援団の一人が話しかけてきた。平日にも関わらず今日もドーム球場内のスタンドは埋まっていて満員御礼のアナウンスが流れている。そんな中、より気合いが入り疲れた表情を見せながらも優しい口調で紗世に話しかけていた。今はもう顔見知りとなっていて応援団の人たちと気楽に話が出来ている。


「あーっ。お疲れ様でーすっ!どーしたんですかー?こっちのチーム負けてるじゃないですかーっ」

「そーなんだよなー。オレたちも気合い入れて応援してんだけどさ、打線が沈黙しちゃってるねー、相手のピッチャーが調子良すぎるんだよーっ」

「そうなんですねーっ。ちょっと次の回に逆転出来るよーに応援してあげて下さいねーっ!」

「あいよーっ。紗世ちゃんも頑張ってなーっ!」


 紗世は笑顔で手を振ってまたスタンドの通路を歩き始めた。紗世がこのアルバイトを辞めたくない理由はもう一つ。こういうアルバイトの合間に野球好きの人たちと話せるという楽しさもあるからだった。


「お疲れ様っ。今日もドーム内の熱気が凄いねーっ」


 言われた方へ振り返るとハンドタオルで汗を拭いながら笑顔を見せている香織だった。とても凄い汗を掻いていて前髪が濡れている。ドーム球場内はエアコンを入れてはいるが観客の熱気と接客態度の気遣いなどで全く汗が引かない。


「香織さんっ!お疲れ様ですーっ。ホント、スゴイですよねーっ。私も全く汗が止まんないですっ」

「私はさっき樽を交換した時に水分補給したけど、紗世ちゃんも水分補給しといた方が良いよっ」

「ありがとうございますっ!私も後で水分補給しに行きますねっ」


 イタリアン料理のお店から出て二人は親交が深まり自然に下の名前で呼びあうようになっていた。紗世は尊敬している香織が友達になってくれたことはこの上ない喜びだった。知らないうちにお互いを尊敬しあってたこともあったからだ。そしてこの日も疲れを見せない香織の後ろ姿に紗世は感服していた。いつか自分もそんな存在になりたいと思いながら。

 そしてこの日もトラブルが起こる事もなくアルバイトを無事に終えて夜の十時過ぎ、紗世は従業員通用口から出ると涼しい風が出迎えてくれていた。ここ数日良いお天気が続いている。紗世は無事に今日もアルバイトを終えた事に感謝し澄んだ星空を見上げながら大きく深呼吸をしてとても心地良い気分を味わっていた。


「オイッ!」


 腕を上げて大きく体を伸ばしている時だった。紗世はこの声に聴き覚えがある。もしかして……。


「えっ!健二?何であんたがここにいんのよっ。しかもその格好って……」


 健二の着ている服はグッズ販売店の従業員専用Tシャツだった。グッズ販売店はドームから出てあるために紗世は一度も行った事がない。


「何だよ〜、おかしいか?全くいつになったらオレに気付くかと思ってたけどさ」

「はぁ?あんた、いつからここでバイトしてたの?」

「バーカ。紗世と付き合い始める前からだよっ!」


 健二の返事に驚きを隠せず、紗世はポカーンっとしている。この間大学で『人に扱き使われるなんて嫌だ』なんて聞かされていた紗世はアルバイトなんてしていないと思い込んでいた。


「そ、そんな嘘ついちゃダメよ!私はここでバイトして二年目になるんだからっ」

「あのさぁ、そんな嘘をついてどうすんだよっ?」

「じゃあ何で言わなかったのよーっ!」

「付き合い始めてから紗世って勝手にもうオレのキャラを作りきってたじゃん。なんだか釈明するのがバカバカしく思えてきたんだよ。じゃあ、フラれるまでそのキャラで貫いてやろうってね。そのうち紗世がバイト先に来た時にさ、オレを見て驚かしてやろうって思ってたんだ」


 紗世の頭の中はこんがらがっている。結局、大学で見せる健二は紗世の妄想に作り上げたキャラを演じていた訳だった。しかし今それを紗世は受け入れることなんて容易なことではない。もう別れるつもりでいるからだ。


「じゃ、じゃあ私が悪い性格みたいじゃんっ」

「あー、そのとおりだ!紗世ってホントに最低だよ。何が『一度バイトしてみたら?』だぁ?」

「だって、そんな……」

「俺だってなー、お前から好かれたくてどんだけ頭を使って来たか知ってんのかよ!一方的に言いたい放題ぬかしやがって!」


 健二はため息をついて紗世の返事を待つことなくそのまま立ち去って行く。紗世は呼び止めることも出来なかった。そして不思議と胸がしめつけられるような感じがしている。本来なら紗世が健二へ別れ話を持ち出すはずだったのに。


『だったら、呆れないでバイトしてるってせめてその時に言ってよ……。誰だってあんなメールに他人を見下すようなこと言われたら健二をそんな目で見ざるおえないじゃない……。健二のバカ……』


 徐々に紗世は気持ちの整理をつけていった。もうこうなってしまったのなら仕方がない。


『なんだよ……、アイツ追っかけて来ないのかよっ』


 健二は春に吹く冷たい風に当たりながら歩いて帰っていた。内心その場で紗世が呼び止めるものだと思っていた健二は後悔と寂しさを噛みしめながら下を向いて歩いている。


『どうせなら、今までの鬱憤を晴らせるぐらいもっと言えば良かった……。オレもオレで演じ過ぎた部分もあるけど……。メールは自分でもちょっと反省……』

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