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「あらー、加美川さんおはよー」

「あ、住田さんおはようございます!」

「今日も朝から頑張ってるね。私も見習わなきゃ」

「そ、そんな住田さんの売り上げに比べると私は少な過ぎるので……」


 この住田香織は有名な女子大に通っている四年生。常に売り上げを伸ばしている。見た目は可愛いというよりは上品なお嬢様というような雰囲気。美貌じゃなくて可愛さだけなら私も負けないと紗世は思っている。しかし香織にはそれだけ実績を作れるだけの魅力を持っているのだろう。でも紗世は香織を嫌いなんて思っていない。いつもスタンドの通路ですれ違う際は必ず笑顔を見せて挨拶をしてくれているからだ。

 ドームの外ではもう長い行列が出来るほど並んでいる。今はスタンド内の通路は閑散としているが、ここの球団は有名な選手が沢山所属しているために誰もが一足先に入って近くで練習している姿を見ようと必死になって入ってくる。入り口が開放されて並んでいた人たちの多くは小走りに、さらに一部の人が猛ダッシュで通路を走っている。


「大変危険ですので、通路内は走らないでくださいっ」


 係員は言っても無駄と分かりながらも観客はその期待に応えるように脇目も振らずスタンドの方へと走って行く。


「凄いね〜。今日も」

「本当ですね〜、住田さんは今日はどれくらい売れそうですか?」

「どうかなぁ、いつもただ笑顔見せるだけしか意識してないから売り上げまでは分からないの」


 香織の返事に紗世は納得する部分があった。おそらくビール売りをしている人の中では彼女が人気ナンバーワンだろう。香織の外見に対しては紗世も認めている。そして体育会系じゃない香織があんなに重たいビールサーバーを担いで四年近くビールを販売していた。紗世と同時期に入ったアルバイト生は一日で数人が辞めるくらいなのに。それでも香織は紗世へ根をあげるようなことを一言も発したことがない。紗世はいつも思っていた。見た目はお嬢様のような雰囲気なのにもっと楽でその美貌を活かせるようなアルバイトとか選べなかったのかなと。

 スタンド内のリニューアルした大型スクリーンにはカップルや子供を抱きかかえた若い両親が映っていて、それに気づくと興奮を隠せないような表情で手を振っている。今日もデーゲーム、ナイターの試合とは違いスタンドが埋まるペースが早い。今日の試合開始が十三時からでもう十一時には紗世は歩くたびに呼び止められビールを売っていった。一日中ドーム内を歩き続けていると言っても過言ではない。紗世も試合が始まって四回に入るとさすがに疲れを隠せなかった。それからは片手に持っているプラスチックのコップを掲げて笑顔を見せて歩くのがやっとな状態だ。


「あ、お姉ちゃんビールちょうだい」

「はいっ。ありがとうございます」

「お姉ちゃん、大丈夫?汗が凄いよ」


 少し酒臭さが出てる中年の男性が紗世を心配して話しかけるが、紗世は笑顔で誤魔化すしかない


「はいっ。大丈夫ですっ。七百五十円になります」

「頑張ってな」


 その言葉が紗世にはとても嬉しかった。どんな世代からでも激励の言葉を貰えるほど救われる思いがすることはない。そこで紗世はなんとかモチベーションを切り替えていた。タンクに入っているビールが無くなってスタンドから出ると通路の隠れたところにあるスタッフルームには交換用のタンクを準備している担当の人へ申し出て、ついでにそこで少し水分補給をしながら十分ほど休んだ。

 その時、香織もタンクを交換しに入ってきた。


「あら。加美川さん。調子どう?」

「今日は日曜日だけあってよく呼びかられますね、住田さんはどんな感じですか?」


 さすがにお互い疲れているのが目に見えていた。でも、香織はこのスペースでも笑顔を崩さない。


「そうね〜、私も同じかな。大丈夫?加美川さん凄い汗だよ」

「ハハッ。私汗かきなんです。少し水分補給取らせてもらえたら元気になれるんで」

「そっか。体だけはお互い崩さないようにしようね。じゃあ私行くね」


 紗世はビールの入った重たい樽に交換してもらいスタンドへ行く香織の後ろ姿がとても勇ましく見えた。


『よしっ。私も頑張らなくちゃっ!』


 今日もホームチームが勝ちその瞬間、スタンド内に白いジェット風船が飛んでいる。


『今日も終わった〜……。ホント疲れた〜』


 今日の売り上げは百七十杯だった。もう疲れきっていた紗世にとって、もうどうでもよかった。香織の売り上げは三百を超えている。それを聞いて紗世は笑うしかなかった。


『やっぱ、あの人って凄い……』


 紗世は愛想笑いが出来る気力もない。更衣室のロッカーで疲れた表情筋を独学でほぐしながら着替えていると、香織が他のスタッフと談笑しながら更衣室へ入って来た。目が合うと一緒に入って来たスタッフから離れて着替えている紗世の所へ寄ってきた。


「加美川さん、お疲れ様」

「あ。住田さんお疲れ様です」

「さっき加美川さんを見たときさ、汗が凄かったから心配してたの。大丈夫?」

「はいっ。大丈夫ですっ」


 いつも香織が紗世にだけ声をかけてくることを不思議に思っている。香織は今シーズンが終われば辞める事になっている。就職活動もしているが、おそらくテレビ局のアナウンサー試験には合格するだろう。それでも今日の紗世は疲れが上回っていて香織に訊く元気もなかった。すると、香織の方から声をかけてくる。


「ねえ、加美川さん。良かったら今度ご飯食べに行かない?時間、作れないかな?」


 突然のことで紗世は驚きを隠せなかった。一体何なのか……。


「もちろん、今日じゃなくても良いんだけど」

「ありがとうございますっ。でも今日はちょっと体力的に……」

「うん。良いの。ごめんね、無理言っちゃって」

「ホントすみませんっ。あの良かったら電話番号の交換だけでもお願いして良いですか?」

「もちろんだよ」


 紗世にとってまさか憧れの先輩から食事のお誘いを貰えるなんて思いもしなかった。

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