第346話 杏里のお仕事


 寒い冬空の下、杏里と一緒にイルカのショーを見る。

観客もそこそこおり、イルカが飛び跳ねると観客から大きな拍手が沸き起こる。


 近くにいた幼稚園児位の子供が席を立ち、かなり前の方まで歩いていくのが目に入った。

そんなに近くに行ったら危なくないか?


「はーい、それではイル君のボール遊びでーす」


 パンダイルカのイル君。

キュートな瞳で、なかなかかわいい顔をしている。

ま、杏里ほどではないがな。


「か、かわいい! 上手上手!」


 杏里は満面の笑顔で瞳を輝かせながら、真剣にショーを見ている。

俺もショーを見ているけど、視界にはいつも杏里の横顔がちらちらしている。


「司君、ほら見て見て! イル君うまいよ!」


 杏里の手に力が入る。

俺の意識はショーに三割、杏里の手に七割持っていかれている。


「かわいいなー。お、今度はルカちゃんも一緒に! 司君、しっかり見てる?」


 杏里が横を向き、俺の方を見てくる。


「おう? も、もちろん。しっかりと見ているよ?」

「そう? なんだかさっきから視線を感じるよ?」


 杏里さん、勘がいいですね。

イルカも可愛いけど、杏里も可愛いのでついつい目線がいってしまうのですよ。


「気のせいだろ? ほら、二匹で輪っかを飛ぶぞ」


 杏里は俺から視線を外し、すぐにショーへと目線を向ける。


「私の事は、いつでも見ることができるでしょ? ショーは今だけなんだよ?」


 それはわかっているんですけどね。でも、それが男心ってやつなんですよ。


 真冬の空に二匹のイルカが飛び跳ねる。

二匹はお互いの事を理解し、同じタイミングで交差するように飛んでいる。


――ザッパァァン


「おぉぉ、すごいな。イルカってあんなに飛べるんだ」

「すごいね、あんなに高く飛ぶんだね」


 イルカが泳ぐプールから大きな波が立ち、その波は次第に外側に向かってやってくる。

ん? 何気に波が高くないか?


「はーい! イル君とルカちゃんの大ジャンプでした! 波にご注意くださいーい」


 プール外側の水が次第に盛り上がってくる。

あ、これって溢れるやつじゃないか?


 気が付いた俺は杏里をその場に残し、走っていた。

これはきっと波があふれる。確かパンフレットにも書いてあったような気がする。

真夏ならともかく、今は冬。ずぶ濡れになったら風邪ひいちまうぞ!


 急いでさっき視界に入った子供の前に行き、抱っこする。

抱えて戻ろうとした瞬間――


――ドザァァァァァ


 プールから波があふれだした。

間一髪子供は助かったが、俺はそれなりに濡れてしまう。

間に合わなかったか……。


「も、申し訳ありません!」


 この子の親だろう。

キョトンとした目で俺を見てくる子供。

クリっとした目がかわいく、その目はきらきらしている。


「イルカさん、おっきいね! 初めて見たの!」

「おう、良かったな。でも、ここは危ないから席から立つなよ?」

「うん! わかった!」


 俺は抱っこした子供を親に預け、濡れたジャケットを脱ぐ。

あー、ボトムの靴も濡れたな。


「あの、大丈夫ですか? 服が……」

「あ、大丈夫です。すぐに乾きますから」


 子供の親に謝罪され、クリーニング代としてお金を渡してきたが丁重に断る。

別にそんな事は気にしなくてもいいですよ。


「おにーちゃん、ありがとう!」


 帰り際に子供から感謝の言葉をいただく。

それでだけでいいや。


 ぼちぼちと観客が帰り始め、俺のもとに杏里がやってくる。

手には俺のバッグとブランケットを持ち、帰り支度も終わっているようだ。


「濡れちゃったね。大丈夫?」


 杏里が手に持ったハンカチで俺の顔や頭を拭いてくれた。

ずぶ濡れってわけじゃないし、大丈夫。多分……。


「まぁ、それなり濡れたかな? 館内にいれば乾くだろ」

「その濡れかたで?」


 ややぐっしょり目のジャケット。濡れた跡がわかるボトム。

乾くのに少し時間がかかるかな。


 杏里は手に持ったブランケットを俺にかけてくれ、そのまま館内に戻ろうとする。


「あの、大丈夫ですか?」


 スタッフの方が声をかけてくれた。


「大丈夫ですよ、すぐに乾きますから」

「でも、結構濡れていますよ? よかったら乾燥させますか?」


 お、それはありがたい。助かります。


「杏里、少し時間いいかな?」

「もちろん。まだまだ時間はあるし、乾かしてもらおう」


 スタッフの人に案内され、一般の人が普段は入れないところに通された。

ここはスタッフ専用のルームなのかな?

ドライヤーで髪を乾かしながら、あたりを見渡してしまう。


「たまにいるんです。プールの手前に張り付いて、ずぶ濡れになるお客様。その方の為に、乾燥機があるんですよ」


 準備がいいですね。

俺はスタッフの人に濡れた服を渡し、乾燥機に突っ込まれた。

丁寧に一時貸し出し用の服やサンダルまであるらしい。

回り始める乾燥機、しばらくはここで待機になるのかな?


「では、乾燥が終わまで一緒に行きますか?」

「どこにですか?」

「この後、体験プログラムがあるんです。ほかのお客様も一緒ですが、水族館の裏側が見れますよ」

「いいんですか?」

「本当は予約制ですが大丈夫です。行きますか?」


 杏里に視線を移す。

だから、その目の輝きを……。

杏里は無言でうなづいている。


「はい、では二人でお願いします」

「かしこまりました。では、手続きしてきますね。こちらのお部屋でお待ちください」


 スタッフの人は準備のためか、部屋を出ていく。

杏里は俺の隣にやってきて髪を触る。


「髪、乾いた?」

「あぁ、乾いた。大丈夫だ」


 杏里の手が俺の頭をなでてくる。


「んー、やっぱり。ここ、乾いてないよ。ドライヤー貸して」


 杏里が俺の髪を乾かし始めた。

家で乾かしてもらう時とはまた違う感じ。

でも、やっぱり落ち着く。


「ありがとな」

「いえいえ、司君の髪を乾かすのは、私のお仕事ですから」


 笑顔で杏里は答える。


「ほら、乾いた。どう?」


 俺は自分の髪を触る。


「完璧ですね」

「完璧なのです」


 そして、俺の顔のすぐ横に杏里の顔が近づき、頬が重なる。

杏里とまったりムード。

自然と視線が重なり、その距離が近くなっていく。

瞳を閉じる杏里、そして――


――ガチャ


「準備できましたー、そろそろ出発でーす!」


 ダッシュで杏里は俺から離れる。

そして、やや頬を赤くしながら距離を取っていく。


「つ、司君ほら、行こう! 準備できたって!」


 慌てている杏里。

俺も少し心拍数が高い。


「お、おう。行きますか」


 杏里と手をつなぎ部屋から出ていく。

水族館の舞台裏。ちょっとだけ楽しみだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る