森の中で
月餅
森の中で
私はなぜ、この子を助けてしまったのだろう。
人間は大嫌いなのに。
気がついた時にはもう声が出ていた。
後悔すると分かっていたのに。
「その子に触れるな」
腰を抜かしていた少年は、肩をびくりと震わせるとこちらを向いた。
赤や黄に色づき始めた木々がつくった小さな陽だまりの中。黒い地面には、背の低い青々とした草と鮮やかな色味の落ち葉、そして十歳ほどの少年が座り込んでいた。少年の目の前には野生の熊がいた。私には目もくれず、鼻面を少年の方に向けしきりに動かしている。距離は近くないが、刺激すれば少年を襲ってもおかしくない。
「この先に怪我をした鹿がいたぞ」
私の声に、熊の耳が少し動いた。
「それも大きい奴だ。早く行かねば他の奴に取られるかもしれないな」
熊は私が指さす方へひくひくと鼻を動かしてから、再度震える少年に目線を戻す。しばらく少年を見つめ続けた熊は、紅く色づいた茂みへゆっくりと消えて行った。葉や枝の揺れる音が聞こえなくなると、穴が開くほど私を見つめてくる少年に声をかけた。
「出口は熊が行ったのと逆方向にある。これに懲りたらもう森に来ないことだな」
できるだけ感情を殺して、冷たい声で言うように努めた。つい助けてしまったことへの後悔と、怯えている子供にこんな対応をとることへの罪悪感が胸を刺す。しかし、こうすればもう森には来ないだろう。それが一番だ。この子のためにも。私のためにも。そう思って立ち去ろうとした時。
「……あっ、待って!」
思わず立ち止まった私の背中に、少年は言った。
「た、助けてくれてありがとう……おねえさん」
やめろ。頼むから、やめてくれ。そんな風に言われたら。そんな風に感謝されたら。私の決意は揺らいでしまう。
……あの時の二の舞になってはいけない。
気持ちを押さえようと、こぶしを握り締める。そんな私の様子には気が付いていないのか、少年は更に続けた。
「あのね、ぼく、森のすぐ外にあるちっちゃい村に住んでるんだ。でも、さっき足くじいちゃったみたいで。ね、おねえさん、もし森のそと行くなら、ぼくと一緒に行ってくれないかな? ……だめ?」
すがりつくような細い弱々しい声だった。仕方なく振り返ると、少年は肩にさげた鞄を震える手で握り締めていた。シャツもズボンも泥で汚れていて、靴も片方脱げている。熊がいなくなって緊張が解けたのだろう。大きな目から大粒の涙がぼろぼろこぼれ落ちだした。
「分かった分かった、外まで送ってやろう。だから泣くな」
「ほんとに?! よかったぁ」
泥と涙でくしゃくしゃの顔がとろけるように笑った。全く、これだから……。森の外まで送ってから、二度と来ないように言えばいい。途中で動物に襲われて動物が人間の味を覚えても困るしな。そう思いながら、少年の手を取って立たせてやった。簡単に壊れてしまいそうな、柔らかくて小さな手だった。
片足を引きずりながらついてきた少年は、急に口を開いた。
「あ、そういえばおねえさんの名前は?」
見上げてくる少年の横で、私は立ち止まった。
『この化け物!!』
耳の奥にこびりついた声を消すように、頭を横に振る。
「……お前はなんという」
「え、ぼく? ぼくはイノルディ」
苦し紛れに質問を返してみたが、不思議そうな顔をしながらも答えてくれた。それは良かったのだが、質問の答えが思いつかない。何か適当な人名を……
「おねえさん、嫌なら答えなくていいよ」
驚いて横を見ると、イノルディと名乗った少年と目が合った。イノルディは、大きな目をきゅっと細くして優しく笑っていた。だがそれは、今にも泣きそうな顔にも見えた。
「誰だって、言いたくないことぐらいあるよね。ぼくだってあるもん。おねえさんは話したいことだけ話して。ぼくも話したいことだけ、楽しいことだけ話すから、ね」
イノルディは、早く行こうと私の腕を引いた。暖かい手だった。
「お前は……優しいな」
歩き出した彼は分かりやすく顔を赤らめた。
「えへへーありがとう! でもおねえさんも優しいよ。きれいだし。あっ、きれいと言えばさっきむこうに咲いてたお花がね」
体が急に熱くなった気がして、慌てて彼から目をそらした。
言ったとおり、イノルディは自由気ままに話したいことを話し始めた。話すことが好きなのか、一人でずっと話している。この森に咲いている花の話から始まり、家にある図鑑のこと、それをくれた一緒に住む祖父のこと、祖父の影響で絵が好きだということ、それから読書も好きだということ、村には本屋がないこと、でもおいしい食堂があること、その店に猫がいること。彼の話は聞いていて飽きなかったし、他愛ないことを目を輝かせて話す彼は見ていて飽きなかった。若葉のような色の大きな瞳。笑うたびにふわりと揺れる栗色のくせ毛。桃色に染まった頬。せわしなく動く白く細い腕。……自分が彼をまじまじと見つめていることに気がついて、私は頭を横に振った。
しばらく歩いていると、私の真横を小鳥が鳴きながら飛んで行った。木々の隙間から見える空は少し曇り始めていて、風からは湿った匂いがしている。
「もうすぐ雨が降りそうだ」
「えぇ?! 早くあまやどりしなくちゃ!」
イノルディは鞄を握り締めて慌てた。
「いいのか? 急げば間に合うかもしれんが」
こちらとしても早く送り届けてしまいたいし、熊に襲われかけたのだから早く森から出たいだろう。そう思ったのだが、イノルディは首を大きく横に振る。
「かばんの中の絵がぬれたらたいへんだもん! それに……」
下を向いた彼につられて足元を見ると、彼の足首が赤くなっていた。話に夢中になって歩き続けたせいで、悪化してしまったようだ。もっとゆっくり歩いてやればよかった。
「これでは歩けんな。雨宿りしがてら、手当てをしよう」
少し歩いたところにあった、小さな洞窟に入った。ツタが入口を半分ほど塞いでいたが、その方が雨を防げるだろう。
少し奥の岩にイノルディを座らせて、靴を脱がせ足首を確認した。
「やはり少々腫れているな。取り敢えず冷やした方が良いだろう」
立ち上がろうとすると、小さな手が私の腕を掴んだ。
「どこまでいくの……?」
イノルディの声は、さっきとは打って変わって弱々しくなっていた。私は少し躊躇ったが、冷たい彼の手に自分の手を重ねた。
「川が流れる音が聞こえるだろう?」
イノルディはしばらく黙ると、こくりと首を縦に振った。まだ不安そうな彼の手をゆっくり離して、私は「すぐ戻る」と言って洞窟の外に出た。走って川まで行き、上着の端を裂いて濡らした。貰い物の服を裂くのは心が痛んだが、人助けのためだ。……彼女も許してくれるだろう。空が暗くて今にも雨が降りそうだからしょうがない、と思いながらできる限り急いだ。
洞窟に戻ると、イノルディが座って鞄の中を覗き込んでいた。膝の上にはスケッチブックが置いてある。
「絵を濡らしたくないと言っていたな」
私が帰って来たことが分かると、イノルディは花が咲いたような笑顔を向けた。
「ぼく、かいた絵をいつもおじいちゃんに見せてるんだけど、濡れたら絵の具がぐちゃぐちゃになっちゃうからって、冷たぁっっ!!」
足首に濡らした布を当てると、彼は大げさに飛びあがった。その動きに思わず、私の口から「ふふっ」と声が漏れた。
しまった。感情を見せてはいけないと、深く関わってはいけないと、あれほど注意していたのに。唇を噛みしめる私の前で、イノルディは、
「おねえさん、はじめて笑ってくれた! やっぱり笑うともっときれいだね」
と頬を染めて言った。呆然とする私の前で彼はさらに続ける。
「あっ、そうだ。会ったときから思ってたんだけどさ。おねえさん、絵のモデルになってよ!」
だめ? と身を乗り出して聞くイノルディの前で、良いわけないだろうという考えと、雨宿りの間だけなら良いのではという考えが私の中でぶつかった。私は、イノルディの顔――少し首を傾げて上目遣いで返事を待つ顔――を見て、溜息をついた。
「……雨が止むまでの間、私は少し休む。その間何をしようがお前の勝手だ」
そう言うと、私はイノルディから少し離れた岩に腰かけた。
「ありがとう!」
嬉しさがにじみ出た声で返事をしたイノルディは、わざわざ私の近くに座った。しばらく鞄をあさった後、彼は一言も話すことなく私を描き始めた。
紙の上を鉛筆が走る音と、いつの間にか降り始めた静かな雨の音を聞きながら、私は考えていた。
楽しい、と思ったのはいつ以来だろう。否、楽しんでいる場合ではない。この子と仲良くなってはいけないのだから。
ずっと昔、人間の友人がいた。黒髪を二つに結った可愛らしい少女だった。彼女とは一日中遊んでいた。森の中を走り回り、川で釣りもした。人間について教えてくれたのも彼女だった。人間の食べ物や服や本をくれたのも彼女だった。毎日が本当に楽しかった。それが日常だったし、永遠だと思っていた。
しかし、楽しい日々は日常でも永遠でもなかった。それに気が付くのがあまりにも遅かった。幸せな毎日を、私は、この手で終わらせてしまった。「化け物」と言われるのは慣れていたはずなのに。私を見上げて後ずさる彼女を見て、裏切られた気がした。込み上げてくる失望と怒りが抑えられるはずもなく、気が付いたときには、体は血に濡れていた。そして、それを見て私は思い知らされた。私が人間と友達になることは不可能だということを。そして、あんなことをしたにも関わらず、人間のことが……。
視界がにじんできたので、落ち着こうと深呼吸をした。いつの間にか鉛筆の音が止んでいる。イノルディの方を見ると、出会った時と同じように私を凝視していた。
「……何だ」
「いやー、きれいだなって思って。おねえさんの笑った顔、描いてみたいなぁ。すっごいかわいかったし。あっ、絵、完成したよ! 見る?」
こういうことを、恥ずかしげもなく面と向かって言われるのは本当に困る。言葉に詰まる私の横に、イノルディは返事も待たずに座った。彼は広げたスケッチブックを半分に折りたたむと、私の膝に乗せた。
「!……なかなかだな」
私は少し目を見開いた。本当はなかなかなんてものではなく、上出来だった。横でにやけて頭をかいている小さな男の子が描いたとは信じ難いほど緻密で精巧な絵だった。白黒ではあったが、無駄がなく必要な線だけを的確に引いていることが分かる。髪の毛や服、座っている岩など、全てその質感が分かるように描かれていた。
「ね、ほかのも見る?」
ページをめくりたそうに、手を落ち着きなく動かしてイノルディが顔を覗き込んできた。洞窟の入口を見ると、雨は弱まったようだが、完全に止むまでは時間があるだろう。彼の描いた他の絵も気になったので、見せてもらうことにした。
彼はスケッチブックの最初のページから、一枚ずつ絵の説明をしながら見せてくれた。
この絵は近所に生えていたコスモス。これは日陰に生えていた多分毒があるきのこ。こっちは食堂の猫……。色はあったりなかったり、画材も鉛筆だったり絵の具だったり、様々だったがどれも生き生きとした絵だった。半分ほど見たところで、人間を描いたものが一つもないことに気がついた。理由を尋ねてみると、
「ぼくの村ね、ぼくよりちっちゃい子か、大人の人しかいないんだ。ちっちゃい子はじっとしててくれないし、大人はみんないそがしいからって描かせてくれなくてさ……。だから代わりにね、こういうの描いてるんだ」
イノルディは数ページめくって見せた。そのページには三角の帽子を被った魔女や、剣を構える騎士が描かれていた。
「本の挿絵か」
「うん。ぼく本も好きだからさ。写してみたんだ」
昔彼女から貰った大量の本を何度も読んでいたので、いくつか知っている絵があった。古くから伝わる神話や童話の話で盛り上がり、ユニコーンと賢者が描かれたページを、何気なくめくった。
そのページを見た私は、スケッチブックを取り落とした。
「おぅわぁっ! あ、危なかった……」
イノルディは地面に落ちる直前でスケッチブックを掴んだ。急いで手を伸ばしたから妙な格好になっていた。視界が歪み、手の震えが止まらなかった。
まさか、私の姿が描いてあるとは。
当然と言えば当然だった。私も、魔女やユニコーンと同じ括りになるのだから。
私は震える手を見つめていた。雨の音がやけによく聞こえた。イノルディは何も言わずに、横でスケッチブックを持って静かに座っている。彼がどんな顔をしているか、見る勇気はなかった。この期に及んで嫌われることを震えるほど恐れている自分が可笑しかった。
「……これ、この森の伝説がかいてあった本にでてきたんだ。『森の主』だって」
イノルディはゆっくりと静かな声で話し始めた。視界の端で、彼の指が、描かれた化け物のくちばしの線をなぞっているのが見えた。
「伝説ではね、森の平和をまもってくれるんだってかいてあった。森のいきものに尊敬されてて、道にまよった人間もたすけてくれる。でもね、一回だけ、ずっとずうっとむかしに、人間を食べたことがあるんだって」
いつの間にか頬が濡れていた。見られないように、俯きながら乱暴に手の甲で拭った。イノルディは、化け物の翼をなぞりながら話を続ける。
「本には、森の主はむかしから人間をねらってたとか、もとから人間がきらいだとかかいてあった。でも、読んでておかしいなって思ったんだ。昔からねらってたならもっとたくさんの人が食べられちゃってると思うし、きらいならまよった人を助けたりしないよね? だから、食べたくて食べたわけじゃなかったんじゃないかなって。ほんとはさ……」
私はこぶしを握り締め、両目を固く閉じていた。彼が何をしているか見えなかったが、私のことを見ている気がした。
「ほんとはさ、森の主は、すごくやさしいんじゃないかなってぼくは思ったんだ。……まわりの大人には笑われちゃったんだけど、考えすぎかな?」
返事は、出来なかった。
喉に何かが詰まったような感じがする。息が上手くできなかった。イノルディの方を向けなくて、反対側の洞窟の入口に目をやった。ありがたいことに、雨は止んでいた。
「……行くぞ」
私は下を向いたまま立ち上がると、乱暴にツタを払って外に出た。
「あっ、ちょ、ちょっと、待ってよ!」
後ろからイノルディの声が追いかけてきたが、止まらずに歩きつづけた。ここから一番早く外に出られる道を、彼をおいて行かず、且つ追いつかれない速さで歩き続けた。イノルディがずっと何かを言い続けていたが、私は一度も振り返らず一気に出口まで歩いた。
「……ってよ…………はぁ……待ってよぉ……」
息を切らしたイノルディが追いついた。足を引きずりながら必死に走ってくるその痛々しい姿から目をそらす。私はまばらになった木々の隙間から見える細い道を指さした。
「あそこが出口だ。早く行け。そして二度と来るな」
「いやだよ! だって……」
「来るなと言っているんだ!!」
イノルディは少し後ずさった。怒鳴った私を怯えた目で見ていた。昔みた彼女の目とよく似ていた。
「……今日助かったからと言って、次も助かるとは限らない。森の主は、人間を喰う化け物だ。お前の思っているような優しい奴ではな……」
「やさしいじゃん」
はっとして顔を上げた。決して大きくはない、しかし、まっすぐな声だった。イノルディは、声と同じくまっすぐに私の目を見ていた。
「ぼくは、おねえさんがなんだって気にしないよ。やさしくて、ちょっと心配性で、笑顔がかわいいってわかったから。それで十分だよ。ただ、おねえさんの笑顔が描きたいんだ。おねえさんに、こころの底から笑ってほしいんだ」
そう言うと、彼は真面目な顔を綻ばせた。
思いがけない返事に、私は困惑していた。本当に良いのだろうか。自分に彼の横で笑う権利があるとは到底思えなかった。
「……これを見ても、同じことが言えるか?」
「え?」
私は目を閉じると、体の力を抜いて息をゆっくりと吐いた。体全体が大きく膨らみ、首が伸び、腰からめりめりと太い尾が生えていく。肩から背中の方へ伸びてゆく骨は羽根で覆われ、手足には太い爪が、顔にはくちばしが、頭には大きな一対の角が生える。ものの数秒で、ぱきぱきと音を立てて生えてくる小さな鱗が、全身を完全に覆った。
「え……は……」
イノルディが地面にへたり込んだ音がかなり下の方で聞こえた。静かに目を開け、木々より大きな体を隠すために羽を畳み、彼の目の前に頭を下ろした。これだけ大きな化け物を目の当たりにすれば、もう二度と森に近付かなくなるはずだ。「優しいから大丈夫」などと言っている場合ではないことに気がつくだろう。トラウマになってしまうかもしれないが、彼の体を傷つけてしまうよりはずっといい。
彼は口をぱかっと開けた状態のまま、私を見つめて固まっていた。衝撃と恐怖のあまり言葉が出ないのだろうか。不安になり居心地が悪くなってきた頃、彼の口からでてきたのは、
「……………………かっこいい……!」
恍惚としたため息だった。
思わずくちばしが半開きになっていたようで、イノルディは興味深そうに私の頭に近付いてきた。
「すっごいなぁ……口の中はガチョウみたいに歯がびっしり生えてるんだ! でも角はシカみたいだし、うろこはワニとかヘビみたいだし、羽は……」
興奮した口ぶりで目を輝かせる彼は、私のくちばしに手を伸ばしてきた。思わず首をすくめて後ずさると、彼は、
「あっごめんなさい! ついさわってみたくなっちゃって……」
申し訳なさそうに手を引っ込めた。
「…………怖く、ないのか?」
「ぜんぜん? おもったより大きかったし、有名なさし絵とちがうとこもあったからびっくりしたけど。うおー! とか、すげー! っていうかんじかなぁ。あ、おねえさんのこの姿をみてももちろん気持ちはかわらないよ」
さも当然かのようにそう言うと、彼は全身が見たくて仕方がないといった風に背伸びをする。拍子抜けした私は、好奇の目がむずがゆくて、ゆっくりと人間の姿にもどった。イノルディは少し口を尖らせていた。
彼の言葉から、私が人を喰い殺す化け物と呼ばれていることを少しも気にしていないことは明白だった。しかし、心のどこかで納得ができなかった。
「皆が忌み嫌う化け物を、何故そこまで信じられるんだ……?」
「それはみんなの考えじゃん。だれかにとっては化け物だとしても、おねえさんはぼくにやさしくしてくれたでしょ? だからぼくにとっては、やさしいすてきなおねえさんなんだよ」
なんて暴論だろう。おかしな子どもだ。そう思いながらも、私を見つめる彼の目には、嘘も迷いもなかった。
元の姿の私も、人間の姿の私も、彼は同じ目で私を見ていた。
「だから、ぼくはまた明日もくるよ。おねえさんともっとお話ししたいから。つぎの日も、そのつぎの日も、それからずーっと毎日。ぜったい会いにくる。だめ、かな?」
前を向くと、イノルディは真正面で少し首を傾げて微笑んでいた。まるで私の答えが分かっているように。
私は大きな溜息を吐いて、彼に背を向けた。木々の間から、空が葉と同じ茜色に染まっているのが見えた。
「……もう時間も遅い。いいから帰れ」
後ろでイノルディが、小さく「えっ」と呟いたのが聞こえた。
「明日は熊に遭遇するなよ」
この顔を見られたくなくて、背を向けたまま言った。
「うん!!」
元気のいい返事が後ろから飛んできた。と思ったのだが、
「あ、おねえさん、今かお赤かったでしょ?」
いつの間にか私の横に来たイノルディがいたずらっぽく笑っていた。頬がさらに熱くなる。
「夕日が当たっているだけだろう。いいから早く帰れ」
「ここあんまり夕日あたらないけどねぇ。ふふふ。じゃあまた明日ね!」
わざと口を引き結んでいたが、イノルディを見ていると自然と私も頬が緩んだ。
まだ足を少し引きずっているイノルディは、ずっと手を振りながら村へ歩いて行った。
「あ、お姉さーん!」
「遅かったな」
「ごめんごめん。次の仕事の打ち合わせがあってさ。はい、これ一番新しいやつ」
森の入口から少し離れた池のほとり。池には新緑の影と晴れた空、そして倒木に腰かけた私と栗色のくせ毛の背の高い青年が映っている。
ここまで走ってきたのか少し息が上がっている彼の頬は、昔と同じ薄い桃色に染まっている。私は彼が鞄から取り出した一冊の画集を受け取り、その表紙を手のひらで撫でた。彼の瞳と同じ若葉色の表紙に、タイトルが金で箔押しされている。
「人気者だな、『イノルディ先生』」
「やめてよお姉さん。でも、この森で描いた絵は好評なんだよねー。植物の絵も動物の絵も。もちろん……」
彼は言葉を切ると、屈託のない笑顔で私を見つめた。
「お姉さんを描いた絵も、書いてくれた文章も」
私は熱くなった顔を隠すように画集に目を落とす。少し前、彼の絵から私が物語を考えたことがあった。ただの戯れだったのだが、彼がそれを画集に載せたところ、どうやら評判が良かったらしく、それ以来彼の画集には私の書いた文章が載せられるようになった。
「今回も編集の人が褒めてたよ。あの有名な森の主の言い伝えを題材にこんな物語を、しかも森の主視点で語るなんておもしろいってさ」
彼は自分が褒められたかのように頬を緩ませて嬉しそうに、編集者の勘違いをからかうようにくすくすと笑った。
金の文字で『森の中で』と書かれた表紙をめくると、翼を広げた私の絵があった。相変わらずなかなか良い絵を描くな、と褒めると、彼はえへへと笑いながら頭を掻く。
イノルディと出会ってから、一度も人間を襲うことはなかった。だからと言って、まだ安全だとは限らない。不安が拭いきれた訳ではない。でも……
「そういえば今朝、川の向こうでダリアが咲いていたな」
「ほんとに? ダリアは色塗りが楽しいんだよねぇ。存在感あるし華やかだし。お姉さん連れてってくれる?」
少し首を傾げて尋ねる仕草は、昔から変わらない。
「ああ。行くぞ」
私は立ち上がると、彼と一緒に森の奥へと歩きだした。
「次の仕事はね、本の挿絵を頼まれたんだ。作家さんが直々に指名してくれて――」
イノルディは相変わらず目を輝かせて色々なことを話してくれる。
そんな彼の横で、私は心から笑って話を聞いていた。
森の中で 月餅 @mochi-moon
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