鬼畜魔境#2
木の陰から唐突に現れた魍魎を
次いで前方から迫りくる餓狼を待ち構え、渾身の回し蹴りを放つと、鋭く振り抜かれたつま先がひときわ明るい光彩を空間に描き出した。その耳障りな高音を立てる
既に考える余裕は失せていた。ハーミットは四方から迫る異形どもを振り払って、足を止めずに夜明けに向かって走り続ける。
ゆるりと立ち塞がった、ひと回り大きめの餓狼に向かって、肘を突き出しながら
餓狼は特殊な行動は取らない。引っかき、掴み、押し倒して噛みつく。餓狼どもは全員
そこら中で地面から頭を出している硝子の塊に
足を取られないよう、木々の間を慎重に、かつ迅速に駆け抜けるハーミット。ようやく走る速度が乗ってきた矢先、視界の端で何かが動いた。一筋の光を見たハーミットは反射的に膝から地面に滑り込んで死角からの
――確かに、“居なかった”。
左右に流れる視界の中、先ほど確認した時は何も居なかったはずだ。少なくとも、ハーミットの身長を超える巨体を
木の陰に溜まった闇から現れたのは、大きなタコの異形だった。ただし頭部からも長い腕を数本生やして、その腕の先端についている“だんびら”のような刃を、鋭い音を立てて振り回している。表皮がぶつぶつとした突起に覆われており、海のタコとは異なって十本を超える脚が胴体から不規則に生えていた。
――魍魎は死角から脈絡もなく出現する。
何度目かの不意打ちの痛みに
とはいえどれだけ気を配ったとしても、結局は、魍魎どもはハーミットの見えない位置から襲い掛かってくるため、対応は反射神経に任せた紙一重に決まっていた。実際、何度も回避に失敗し、その度に身体には生傷が増えていった。
二時間か、三時間だろうか。ひょっとしたらまだ三十分と経っていないのかも知れない。これだけ
ずるずると触手のような脚をうねらせて、ぱんぱんに膨らんだ身体をこちらに寄せてくる
無意識的に左手小指の指輪を親指で
奇怪な音が枯森にエコーした。タコが“だんびら”を振り回して噛み付いた餓狼を切り飛ばす。それをきっかけに、あれよという間にハーミットを追跡してきた餓狼どもが、次々とタコの魍魎に飛びついていった。
――餓狼と魍魎は明確に敵対していた。そして、連中は手近な相手を優先して襲う。
大地から湧き出す異形を餓狼、断崖の向こうの闇黒から染み出してくる異形を魍魎。初めて両者とまみえた時にそう無意識的に分類したが、それはあながち間違っていなかった。餓狼同士の争いは未だ見たことがなく、魍魎同士もほとんどない。あの異形どもは本能的に勢力を形成しているようだった。
つまり、餓狼と魍魎、そしてハーミットという勢力は
しかるが故に、こうして“なすり付け”が成立する。
ハーミットの実験は成功を収め、少しだけ気が緩んだ。
「――はぁ」
ひとたび両者が争い始めると、餓狼が大地から這い出して追加され、どこからともなく魍魎どもが死角から現れた。そうして始まった、断崖の大乱闘の再現に頬を引きつらせながら、ハーミットが静かに距離を取っていく。
体中が泥だらけだった。幾度となく地面に転がされていればこうもなる。
土はヘドロの匂いがして、黒い水溜まりは有機溶剤の匂いがした。この枯森にはそれらの匂いが混じり合って充満していた。身体はシンナー臭に包まれていて、立ちのぼる異臭に鼻の奥が刺激されてむせ返りそうになる。
ハーミットが両手を見ると、バンダースナッチの蒸気で灼けた肌が肉を露出させていた。皮膚という保護膜を失った肉に得体の知れない汚物が直接付く、という不快感が精神的に
羅刹に引きずられた時に爪が剥げた指先が熱を持ち、脈に応じた膨張感と共に悲鳴を上げている。こうして改めて自分の手の状態を確認してみると、余計に痛みがこみ上げてきて指先が震えた。ここに来るまでに何度も拳を振るってきた。手は血まみれで、触ることも
同様に、蒸気を浴びた自分の顔に灼熱感が残っていた。風を切って走る――それだけのことが強い刺激となって顔面を襲った。今、自分の顔は一体どういう状態になっているのかが気掛かりだったが、きっと
ハーミットが枯森に差す光の方向を見ると、はるか遠くで凸凹とした低い地平が燃えていた。
周囲が明るくなったような、なっていないような――。
「――夜明け、長すぎやしないか……?」
ふと、そんな疑問が浮かんで独りごちる。
あの崖を出発して今に至るまで、時間の感覚が不確かではあった。それでも、もう太陽が頭を見せてもおかしくない程度の時間は過ぎた――はずだ。しかし、未だに遠方の空は夜明けのまま低く赤焼けており、逆に、走ってきた崖側は真っ暗な状態が続いている。
「方向が、分かりやすくていいけど……」
陽が昇ってしまえば、夜明けの方角――東が曖昧になってしまう。今のところ方角を見失う恐れはない。しかし、その一方では胸の奥から漠然とした不安がふつふつと湧き出して来る。
――急いで東に行かなければいけない。
だが、この異形どもの争乱から抜け出せず、気持ちだけが
乱れた呼吸を整えながら、向かうべき森の奥を睨むハーミットの視線の先に一匹の魍魎がぬっと現れた。それは緑の粘液質なベッドシーツを頭から被って見えるお化けだった。少しだけ、人間を形取って見える。そんな魍魎がふらふらと木の陰から現れ、よろめきながらハーミットの視界を横切って移動していった。
時々、ああいった攻撃性を感じない魍魎が現れる。
魍魎たちは、もれなく個性的な見た目をしているが、ハーミットは魍魎どもに類似点を見出しつつあった。それは目、鼻、耳、口といった生物であれば必要そうな器官が見当たらないことだ。あるべき位置に頭部がない、手がない、脚がない。生物としての最低限が備え付けられていない。
口はあるように見えていたが、何度も
では、魍魎は獲物を襲ってどうするのか?
魍魎は餓狼を仕留めると、その動かなくなった身体を木々の裏、ハーミットの死角へと引きずり込んでいくのだ。その後どうなるのかは分からない。きっと食べないだろう。食べる器官がないのだから。何かもっと
魍魎は、とにかく生き物の
一方の餓狼は一度掴んだら二度と離さない手があり、肉に食い込ませて引き裂く爪があり、抱え込んでへし折る両腕があり、追いついて踏み潰す両脚があり、上半身を丸ごとかみ砕ける口があり、深海鮫の目があり、何を聞いているかも分からない耳がある。まだ理解しやすい存在ではあった。
両者の殺意は
殺し方に残忍さがない。呼吸の一部として相手を破壊している。
ところが今、ハーミットが見つめる先には攻撃性を失った魍魎がふらふらと歩いている。魍魎から殺意を取り除いてしまったら、もう本当に何が何だか分からない。
この地は徹頭徹尾、理解不能だった。
ハーミットは無言で片脚を一歩引いて予備動作を取った。頭上にある不可視の球を蹴り飛ばすように、大上段の回し蹴りで脚を振るうと、降り抜かれた足先によって圧縮された
ハーミットが
――今は考える時ではない。
そろそろ決着がつきそうなタコどもの乱闘会場を背に、ハーミットは再び地面を蹴った。
ハーミットは分厚い異形の壁を切り開いて鬼畜魔境を突き進む。後方から迫りくる
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