2—2



その夜は、すばらしかった。三月ぶりにすごす主人との夜。


明け方、アンティノウスは目をさました。


どこか遠くのほうで、鈴の音が聞こえた気がした。


気になって、窓から外を見た。


庭木のあいだを歩いていく姿がある。たぶん、物乞いだろう。


それに、もしかしたら、たちの悪い病気にかかってるのかもしれない。黒い布を頭から手足のさきまで、すっぽり、かぶっている。顔も、全身だ。


だから、よくわからないが、背の高さから、男だろう。


男は顔をかくす布をひたいのヒモで、しばっていた。そのヒモに鈴が通してある。それで男が歩くたびに、鈴の音がするのだ。


やっぱり、あの男は病人だ。あんなふうに音で知らせて、誰も近寄らないようにしているのだ。


見張りは何をしてるのだろう? あんな男がペテルギウスの邸内を歩いてるなんて。


「ペテルギウスさま。ねえ、起きて。変な男がいるよ」


ペテルギウスは起きなかった。ずいぶん、ゆすり起こしたが、長旅の疲れか。酔いのせいか。


しかたなく、アンティノウスはフトンをかぶって、寝たふりをした。でも、だんだん、鈴の音は近づいてくる。


怖くなって、アンティノウスは薄目をあけた。あの男が、窓から半身をのりだし、アンティノウスをのぞきこんでいた。アンティノウスは悲鳴をあげた。


「あっちへ行って。あっちへ」


すると、男は、ささやいた。


「おまえは不幸な死を迎える。何度、転生しようとも、かならず苦難の人生を歩み、非業の死をとげるだろう」


この男、予言者なんだ——


アンティノウスは凍りついた。


男は言うだけ言って、立ち去っていく。


「待って! 教えて。ぼくが幸福になるには、どうしたらいいの? 苦しい死にかたをしたり、不幸な一生を送るのは、いやだよ」


こころもち、男は、ふりかえった。ひたいの金色の鈴が、リンと鳴る。


「魔神の呪いだ。そなたは幸福にはなれぬ」


黒い布で顔をかくしてるのに、男が笑ったように見えた。そのまま、闇に溶けるように消える。


アンティノウスは全身に冷水をあびせられたように悪寒が走った。


その夜のことを、アンティノウスは誰にも話さなかった。話すのも恐ろしい気がした。


だが、男が言ったような不吉なことは、何も起こらなかった。その後、二年のあいだ、アンティノウスは平穏に暮らした。あの夜のことも忘れかけていた。


だが、それは起こった。


アンティノウスが十八のとき、ペテルギウスが屋敷に友人を招いた。


男の名はスパルタクス。若いペテルギウスが短期間に成りあがれたのは、この男の助けがあったからだ。


ペテルギウスより十は年上で、ペテルギウスより広い領地を持つ軍人だ。


宴会の席で、スパルタクスはアンティノウスをぶしつけに、ながめてきた。髪のさきから、つまさきまで、なめるように。


そんなふうに見られることは慣れていたが、この男のことは、なんとなく好きになれなかった。


「なあ、ペテルギウス。この少年を、おれにくれ」


宴も進んで酔いがまわったころ、とつぜん、スパルタクスは言いだした。


「かまわないだろう? おれは、おまえのために、ずいぶん力を貸してやった」


ペテルギウスが青ざめる。


もちろん、アンティノウスも、手がふるえて、ブドウ酒を入れたツボを落としそうになった。不安になって、主人を見あげる。


ペテルギウスは断言した。


「それはできない。すまない。スパルタクス。ほかの奴隷なら何人でもやるが、この子だけは、だめだ」

「どうしても?」

「どうしても」

「じゃあ、せめて、今夜一晩、かしてくれ」


これには、ペテルギウスも、ひどく困りはてていた。スパルタクスを怒らせたくもないし、だからといって、愛する少年を貸したくはない。


弱りはてているペテルギウスを見て、スパルタクスは笑いだした。


「わかった。わかった。もういい。そこまで惚れこんでるなら、あきらめるさ」


丸くおさまって、アンティノウスは胸をなでおろした。けれど……。


それから十日あまり。


スパルタクスが帰宅することになった。荷物をまとめる騒ぎにまぎれ、スパルタクスはアンティノウスに迫ってきた。


「おれと来ないか? ペテルギウスより贅沢させてやる」


アンティノウスは断った。性格に多少の問題はあるが、アンティノウスの主人を思う気持ちだけは本物だった。


「おまえを奴隷でなくしてやる。市民権を与えてやろう。黄金細工も、エーゲ海の真珠も、好きなだけやる。それでも、だめか?」

「ぼくはペテルギウスさまが好きなんです。あのかたから離れるつもりはありません」

「どうしても?」


うなずいたあとの記憶がない。

たぶん、なぐられて気を失った。


失神したアンティノウスを、スパルタクスは麻袋に入れて、馬の背にくくりつけた。アンティノウスは、さらわれた。


物陰から、このようすを一部始終、見ていた者がある。ペテルギウスの妻だ。


スパルタクスが帰ったあと。アンティノウスがいないと言って、ペテルギウスは大騒ぎした。それを見て、ペテルギウスの妻は、こう言った。


「わたくし、見てしまいました。あの子がスパルタクスさまと抱きあってるところを。あなたは裏切られているのです」


ペテルギウスは怒り狂った。


一隊をひきいて、スパルタクスを追った。


追いついたのは、スパルタクスの領地に入る手前。川沿いに進むスパルタクス一行を見つけるやいなや、おそいかかった。


従者を皆殺しにされ、スパルタクスは命乞いした。


「待て! おれが悪かった。ペテルギウス。少年は返す。まさか、おれを殺しはしないだろ?」


しかし、理性を失っているペテルギウスは聞く耳を持たない。スパルタクスを串刺しにする。


アンティノウスは主人が自分を助けに来てくれたのだと思っていた。


ここに来る道筋で、麻袋から出され、馬に乗せられていた。いっそのこと、袋詰めのままのほうが、よかったのに。


「ペテルギウスさま!」


抱きつくアンティノウスを、ペテルギウスは、そっけなく、ひきはなす。


「こんなところに麻袋がある。ちょうどいい。詰めろ」


ペテルギウスは従者たちに命じた。


アンティノウスはわけがわからず、涙にくれた。とつぜんの意味不明の主人の怒りに、ただ、ただ、途方に暮れた。


もちろん、弁解もした。けれど、ペテルギウスに、その言葉のなかにある真実の響きは届かない。


アンティノウスは袋に入れられた。


そして、大きな石にくくりつけられ、深い川底へ沈められた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る