悪夢

悪夢①

店内で慎ましく鳴る聴いた事も無いジャズのBGM。好みの曲調ではない。だが、別に耳障りではない。この店のムードにはあっているかもしれない。

日曜日、午後、千佳は一人、御贔屓にしているカフェに足を運んでいた。席は窓際。退屈な街の景観が見渡せる。テーブルの上ではホットコーヒーが湯気を立てている。アロマの香りが香ばしい。今、自分の脳内にはα波が出まくっていることだろう。

そういえばそろそろ夏休みもあと数日で終わりだなあ。千佳はコーヒーの表面に浮かぶ泡を見つめながらふと、そう思った。きっと来年の夏休みは受験勉強だのなんだので忙しくなるだろうな。やだやだ。

ああ、もしも8月32日が来ればなあ。そんな益体もない事をどうしても考えてしまう。去年も同じような事を考えていたっけ。我ながら進歩のない奴だ。

皆は今頃何やってるんだろう。田畑は音楽でも聴いているだろう。常史江はきっと寝てる筈だ。裏山?あいつはどうでもいい。

千佳があれこれ考えていると、彼女の隣を一人の女が横切って行った。だが、すぐに立ち止まると千佳の傍でソワソワした様子で彼女を頭上から眺めてきた。

何だ?この女。面倒くさいから気付かないふりしておこう。千佳が俯いてコーヒーとにらめっこしていると、女が口を開いた。

「こんにちは、千佳さん」

自分の名が呼ばれたので千佳は緊張しながらゆっくりと面を上げた。

最初に目に入ったのはピンクで丈の長いプリーツスカート。次に花柄の刺繍をあしらったブラウス。次に目に飛び込んできたのは、見覚えのある顔だった。

「あんたは…香織」

千佳は思わず面食らった。まさか彼女とここで出会うとは…。

「何だか、久しぶりね。千佳さんここによく来るの?」

香織がぎこちない笑みを浮かべた。

「あ、ああそうだねぇ。もう超常連客よ超常連客。あ、ほら、突っ立ってないでここ、座んなよ」


それから千佳と香織は向かい合わせで他愛のない会話を交わしたが、十分としない内に話題が底をつきた。どんな話をふっても、長続きしないのである。無理も無いだろう。香織とは『あの件』以降、疎遠になってしまったのだから。物凄い居心地の悪さだった。テレビから聞こえる芸能人の能天気な声が癪に触った。

一応、香織によると、今も『クロ』は毎日のように彼女の前に現れるらしい。もう暴走したりすることはなくなったようだ。もはや運命共同体だな。千佳はそう思った。

「い、いやー今日はホント暑いねー!あー暑い暑い!」

千佳は沈黙に耐え兼ね大袈裟にそう言うと、手で額の汗を拭う動作をした。本当は汗などかいてすらいないが。ちらりと香織の顔を眺めると、何やら思い詰めた様な沈鬱とした表情だった。

「ねえ千佳さん、あの時は本当にごめんなさい」

「ちょ、ちょっとやめとくれよ。私は気にしてないって!」

尚も香織はどんよりとしたトーンで話を続けた。

「私、あなたとまたこうして話がしたかったの。でも、あの時の事がずっと頭から離れなくて…」

「気にしてないってのに~。あ、そうだ、あの本の作者、新作出したの知ってたかい?」

「だけど千佳さん私…」

千佳は若干イラっと来て、思わず席から立ち上がって叫んだ。

「あ~もうくどいねえ!次謝ったら怒るよ!わかった!?」

香織は目を丸くした。周囲の客達も、呆気にとられていた。千佳は我にかえると、照れ隠しに咳払いをして席に座り直し、赤くなりながら窓の方を向いて言った。

「だけど私も話したいと思ってたよ。あんたと」

千佳はテーブルの上のコーヒーを手に取るとグイっと豪快に口に含み、すぐに噴き出した。

「ブーッ!!アッツ!しまったホットだったっけか…!」

香織はヒーヒー言ってる千佳をポカンとした様子で見つめていたが、突如プッと吹き出して笑い始めた。千佳は少し怪訝な顔をした。

「な、何だい酷いねえ…」

「ごめんなさい千佳さん、ありがとう」

「だから千佳でいいってば」

よく見ると香織は笑い泣きしているようだった。そんなに面白かっただろうか?まあ、久々に彼女の笑顔が見れたので良しとしよう。香織はしばらくの間、ひたすら笑っていた。


それからわだかまりがとけたのか、二人は数分前のお通夜ムードが嘘のように打ち解け合った。お互いに話したい事が大量にあったのだ。次第に空が暗くなって店員の目が白くなってきた頃、二人は店を出た。そのまま帰り道を歩いていると、道の前方からアウトローファッションに身を包んだガラの悪い男性二人組がやってきて彼女達の前方に立ちふさがり、まるで品定めするかのように、千佳と香織の肢体を眺めてきた。その内の一人が呂律のまわっていない声で言った。

「よぉ姉ちゃん達、こんな時間まで何やってんの?不良だなあ。暇なら俺達と茶ァしようよ茶ァ。てぃいぶれいく」

千佳が苦笑いしていると香織が一歩前に出て、男達に冷たく言い放った。

「どいて」

男達は品性の無い声で笑った。

「うおっ強気ーィ。どかしてみろよォー」

「どいてって言ってるでしょ」

男の右の脛に香織がハイヒールの靴底で蹴りを入れた。男は堪らず絶叫すると悶絶してその場にしゃがみ込んで脛を擦り始めた。

「ギャアア!このクソアマ何しやがるんだ!き、キモチィ~~!」

「オイオイ~これもう半分傷害事件だろォ~」

大騒ぎする男たちをよそに、香織が振り向くと千佳を見て呟いた。

「あなたは先に行って。ここは私がなんとかするから」

「え、だけど香織、そんなの出来ないって…」

香織は少し微笑んで言った。

「大丈夫、信じて、千佳」

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