裏山の苦難③

紙から浮き出た刃は裏山の右手の親指の第三間接に深々と突き刺さると、そのまま抉り取るように切断した。断面から吹き出す血と、床に空しく落下した親指を見て、裏山の脳裏に、指、切断、処置、再接着、手術費。などといった単語がサジェスト機能のようにぼんやりと現れては消えて行った。

裏山は情けない声をあげて紙を手放し、切断面を抑えてその場にしゃがみ込んだ。紙はひらひらと蝶のように舞いながら緩々と床に落ちた。するとA5サイズ程度の大きさである紙の表面から、裏山の指を切断した刃とともに、何者かがゆっくりとまるで飛び出す絵本の如く、その全貌を表した。

しかしその姿は子供向けの絵本には相応しくない、禍々しいものだった。裏山は目を見開いてそいつを刮目した。

黒のローブを全身に身に纏った、骸骨のような人物。両足は存在せず、宙に浮いており、部屋中に邪悪な瘴気を放っていた。眼窩の部分には両目が無かったが、自分に注目しているのは明らかだった。右手には生々しい鮮血が付着した大鎌を携えている。

死神、と聞いて多くの人が一番に連想するであろう見た目であった。

『死神』は、大鎌を振り上げると裏山の、頭頂部目掛けて一直線に振り下ろした。裏山は焦って、床の、自分がしゃがんでいる範囲のみを能力で消滅させた。そのまま階下の住人の部屋に落ちて尻餅をついた。どうやら個室のようだった。何とか間一髪、『死神』の一閃をかわす事に成功した。裏山が左手の人差し指を鳴らすと、床は一瞬で元通りとなった。

裏山のすぐそばで野太い悲鳴が聞こえた。彼が声のした方に顔を向けると、急にTシャツ姿で肥満体系の男にバットで頭を殴られた。猛烈な痛みに彼は苦悶の声をあげた。どうやら突然の事態に驚いた階下の住人に攻撃されたようだ。

「てめえ何者だ急に!どっから現れやがった、このキモロン毛野郎!」

裏山は頭から流血しながら必死に男を宥めた。

「落ち着け!悪かった悪かった!出てく出てく!」

裏山がふいに上方に目をやると、あの『死神』がすり抜けるように天井から顔を出している瞬間だった。男には『死神』が見えていないのか、裏山を殴りつける事に夢中になっていた。裏山は慌てふためいて、男に何度も殴られながら部屋を飛びだすと、そのまま廊下を壁を伝いながらふらふらと渡り、家から脱出に成功した。

その後、大急ぎで共用廊下をダッシュで通過し、アパートからも出た。雨足はさらに勢いを増していた。駐車場に幾つもの水たまりを作っている。コンクリートの地面は雨に散々うたれ、濡れ色になっていた。空では雷鳴がなっている。駐車場から小走りでこちらに向かって来た買い物帰りの主婦が、血まみれの彼を見るや否や、絶叫して脱兎の如く走り去って行った。

柵越しにアパートの方を見ると、先程の住人の家から『死神』が扉をすり抜けてきた。

大鎌に付着した血が増えていない事から、恐らくあの家の住人は奴の犠牲にならなかったのだろう。あくまでも狙いは自分だけという事か。裏山はそう判断した。

彼は駐輪場に向かうと、自転車を一つ選び、かかっていたチェーンロックを右手の能力で消滅させ、跨ると猛烈な勢いでペダルを漕ぎ、濡れ鼠になりながら駐車場から去って行った。

彼は薄暗い空の下、道を走らせながら現在の自分のおかれた状況を整理する事にした。


…おいおいおいおい、こいつは最高に困った。つくづく自分は体のどこかしらを切断する定めにあるらしい。ちくしょう。よりにもよって親指をやられちまった。俺の最終手段である『自分の体を消滅させる能力』は右手で指を弾く事で発動する。つまり親指を失った今、この能力は使えない。

だが、幾つかわかった点がある。これは新手の超能力者の攻撃だ。間違いなくあの張り紙を張った奴だろうな。あの紙に書いてあった約束を反故にした時、さっきの『死神』が現れ、約束を破った者を攻撃する。恐らく対象が死ぬまで。そういう能力。超能力者自身は今頃きっとどこかに潜んでいる。

そしてもう一つわかったのはあの死神には俺の能力は通用しないという事だ。鎌の先端が俺の手に突き刺さった時、咄嗟に俺は能力を発動したが、効果は無かった。あの『死神』自体は無敵、と考えてよさそうだ。つまり奴を消滅させるには超能力者自身を見つけ出して叩かなくてはならないという事か。だが、そんな事が出来るなら苦労はしない。

この○○町には5000人以上もの人間が存在している。その中から何の手掛かりも無しにたった一人のクソ野郎を見つけ出すなんてのは至難のワザだ。

自分は安全な場所に隠れて俺がくたばるのを待ってるワケか。チキン野郎が。だが、こんな奴にこの俺様が負けるワケがねえ。

…とはいったもののこれからどうする?このまま永遠に逃げ続けるのは不可能だ。何とかしてこの状況を打破する方法を考えなくては。こんな所で。死ぬつもりはない。俺は自分の人生に、自分自身に、まだ何の意味も見いだせていない。それを見つけるまで、死んでたまるかってんだよ。

…つーかあのデブ、ボコスカ殴りやがって。

背後を確認すると、あの『死神』が15メートル程度離れた位置に迫っていた。裏山は自転車を漕ぐ足を速めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る