死ねばいいのに

蒸し暑い夜だった。夏用のブレザーを着込んだ、セミロングの黒髪の、どこか幸の薄そうな顔立ちの少女、花野香織は公園に面した道を歩いていた。学校が終わり近くの書店で暇を潰していたら思いがけず遅くなってしまい、彼女は帰りの道を急いでいた。右手には書店で買った本が入れてあるレジ袋がぶら下がっており、手を振るたびにがさがさと音を立てた。彼女以外、人も車も通らず、辺りは森閑としていた。ふと公園に目を向けると、夜の闇に浮かび上がるシーソーやジャングルジムなどの遊具は、うら寂しくも不気味なムードを醸し出していた。いつも登校の際に通る道なのに、朝と夜とでは何故こうも印象がガラリと変わるのだろう。人間は本能的に暗闇を恐れるものなのだろうか?きっと遺伝子にそう刻まれているのだろう。香織はそんな事を考えながら、自然と足を早めた。

公園の横を通過すると目の前の街路樹の奥から中年の男性がのっそりと姿を現した。香織は驚いて歩みを止めた。

男は身なりが汚く、香織は一目で浮浪者だという事がわかった。髪や髭は仙人のように伸び放題で、ところどころ白が混じっていた。半開きの口から見える歯はいくつか抜けていた。のこっている歯も、黄ばんでおり不衛生な印象を与えた。また、すえたような体臭を放っており、虚ろな目で香織を眺めてきた。この手の不潔な男は、彼女が最も苦手とするタイプだった。彼女は美しくないものを嫌悪していた。だが、この男は美しさの対極にある存在ではないか。出来れば視界にとどめておくことすらしたくない、そう思った。

香織は危機感を覚え、男性の横を小走りで通過した。その際、強烈な腋臭の臭いが漂ってきて、香織は臭いだけで戻しそうになった。

「なあ、それ食い物か?」

背後から男の声が聞こえた。恐らく自分の右手にあるレジ袋の中身を気にしているのだろう。だが、香織は答えなかった。こんな社会の底辺と生産性のない会話をしている暇はなかった。食い物が欲しいのならば、ゴミでも漁っていろ。きっと魚の頭くらいならすぐに見つかるだろう。もしくはnpo法人に支援でもしてもらえ。第一、もしもこれが食い物だったのなら、何だと言うのだろうか?殻潰しにタダで飯をやるほど、自分はお人よしではない。そう香織は心の中で毒づいた。

突如、レジ袋が後方に引っ張られた。香織が驚いて振り向くと男が骨ばって黒ずんだ両手で掴みかかっていた。

「いいじゃねえかよ、いいじゃねえかよ」

男は下卑た笑みを浮かべながら、そうオウムのように連呼した。

「やめて下さい」

香織は声を張り上げた。だが、その叫びは誰の耳にも届かなかった。

「なあ、いいじゃねえかよ。減るもんじゃなし」

男は今の状況が楽しくてたまらない、といった表情をしていた。香織は本を手放して逃げようと思ったが、男の顔を見ていると無性に腹が立ったので、意地でもこの男には渡してやるものか、そう決意した。

しばらくの間、互角の引っ張り合いを続けていると、次第に香織は男に対し、殺意にも似た感情を覚えた。

(死ねばいいのに)

香織がそう思った直後、べきっという音とともに男の右前腕部が反対側にへし折れた。

「びゃおっ」

男はたまらずレジ袋を放すと、地面に倒れてもがき苦しんだ。

「死ぬ死ぬ。絶対死ぬ」

男は苦悶の表情を浮かべながら、やがてすすり泣きを始めた。

香織はそれをゾッとするような冷たい目で見降ろしていたが、溜飲が下がったのか、踵を返してその場を去った。

後になって冷静になると、別にこんな本そこまで読みたかったものではなかったのに、何故あそこまで躍起になっていたのだろう。そう思った。

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