原風景との邂逅
再び董子が栞の血を求めて来たのは、八月も残り一週間となった頃だった。
時刻はもうすぐ十二時を回ろうとしている。栞は夏虫の声を聞きながらキーボードを叩いていた。
寮の消灯時間は十時半だが、それはあくまでも生徒の話であって、栞自身は一時二時まで起きていることも珍しくはなかった。
暦の上では秋なのかもしれないが、暑さはまだまだ衰える気配を見せない。クーラーをかけた部屋は心地良いが、外は昼の間に太陽に照りつけられた地面からまだゆだるような熱が立ち上っていることだろう。
あの日、夕刻に櫻ノ宮に戻った栞は御門に簡潔に起こったことを話したが、御門はこれっぽっちも驚いた様子はなく、むしろそうなることが十分予想出来ていたような様子だった。もっとも、だからと言ってそれをすべて歓迎するつもりはなかったようで、彼女は難しい表情を浮かべていた。もちろん栞だってこれでハッピーエンドとなるような物語じゃないことぐらいはわかっている。
カチャリとキーボードを押し、ひとまずの作業を終える。パソコンの画面に映る時刻は十二時十分。そろそろ寝る準備をしようかと思った時に、コンコンコンとノックの音がした。
ドアの向こうに誰がいるか予想は出来た。
今までにも寮生が消灯後に用事を持ってきたことはあったが、今はそうでないという確信があった。夏休みも終わりが見え、寮生の中にはもう寮に帰ってきている生徒も少数だがいる。けれど、この勘だけは外れるわけがないとすら思えた。
『……加賀美先生、燕城寺です』
案の定、ドア越しにおそるおそるとも言えるような声色で聞こえて来たのは董子の声だった。
「開いてるぞ」
パソコンに向き合ったまま言葉を返すと、ガチャリとドアが開いて部屋の空気が僅かに動いた。閉まった音を確認してから、栞は椅子を動かして彼女に向き合った。
彼女はやけに神妙な……それこそ自身の命運を賭けた何かに挑むかのような表情をしてそこに立っていた。険しい表情とふんわりとした寝間着があべこべな印象を与えてくる。
考えてみれば、董子の寝間着姿をマジマジと見るのは初めてのことだったかもしれない。まっさらな色のネグリジェはレースとフリルがふんだんにあしらわれていた。素材はシルクなのだろう。特有の艶がわかる。
「何かあったのか? 消灯時間はとっくに過ぎてるぞ」
少し強めの語調で聞くと、僅かに董子の表情が固くなった。
「あの……」
俯いて一度言い淀む。しかし、すぐに顔を上げて彼女は言った。
「先生、血を頂けませんか?」
「血を? 発作が起きそうなのか?」
「そういうわけでは……ないのですけど」
言葉を濁す。
「でも、血を頂けるとすごく気持ちが楽になるのです。御門先生もおっしゃっていました。日常的に血の供給を受けられるという安心感が精神も安定させるのだろう、と」
「なるほど」
同意しながらも栞には詭弁のように思えた。
今だって彼女は予防薬を飲んでいないわけではない。あの時に発作を起こしてしまったのは精神的な緊張に加えて肉体的な疲労もあったからだろうと御門も言っていた。元々活発でなく、体力も同学年の子よりはるかに劣る彼女を引っ張り回した栞の責任だ。もう二度とならないという保証はないが、体調が悪くなく、相当な無茶もしなければそうそう起こらないだろう。それが御門の見立てだった。
しかし、そんなことは億尾にも出さずに栞は机の引き出しからカッターナイフを取り出した。
「聞いた話だと、そんなに多くの血はいらないらしいな」
チキリと刃を出して左手の人差し指に当てる。少し力を込めると、プツリと皮膚が破れて傷口から血がにじんだ。離すと、切れた分の血液が溢れてくる。それに董子の喉が鳴ったのがわかった。
「これで大丈夫か?」
栞が聞くと彼女はこくりと頷いてから膝をつき、「失礼します」と自身の巻いた髪を耳にかけてから今にも指先からこぼれそうになっている栞の指を口に含んだ。
多少の痛みはあるが、それは愛撫に似ているように栞には感じられた。
栞は付き合った人間に手を褒められることが多かった。特別にケアをしていて綺麗に保たれているとかそういうわけじゃない。すっと伸びた指の一つひとつが職人の手によって作られた芸術品のように見える。そう言っていたのは大学の時に付き合っていたOLだったと思う。
董子は合間合間に呼吸を挟みながら栞の指を執拗にしゃぶった。だが、深く傷をつけたわけじゃない傷口からはそう多くの血が出てくるわけじゃない。
大きく息を一つ吐いて董子が栞の指から口を離す。頬は僅かに紅くなり、目がうるんでいる。艶めかしい舌が唇を舐め、その余韻を十二分に味わっているように見えた。
その姿に思わず喉が鳴りそうになったが、何もないような素振りで指先をハンカチでぬぐってから言った。
「もう夜も遅い。さっさと部屋に戻って寝た方が良い」
その言葉を董子は予想していなかったらしい。咄嗟の表情はあまりにあどけなくて栞は思わず笑ってしまいそうになった。数秒の間引きつったような表情を見せてから董子がおそるおそるといった様子で言葉を口にする。
「でも、先生……まだ……」
そこで言葉を失くす。その間に栞は用意した絆創膏を傷口を覆った。人差し指より薬指などの方が日常生活に支障が少なかったかもしれない。先ほどの愛撫で熱に浮かされかけた頭の中、唯一残った理性がそんなことを思う。
「なんだ、言いたいことがあるならはっきり言え。無駄にここにいるようなら、寮監として注意をしなくちゃいけなくなるだろう?」
「あの……まだ対価を支払っていません」
「対価? 三千万のことか?」
栞が悪戯に聞く。
自分の元に舞い降りてきた天使を屈服させたい征服欲がちろりと顔を出す。
正直なところ、素直に身体を求めれば彼女はそれをいとも簡単に許してくれるのではないかとすら思えた。達観しているようで、その実まだセックスの一つも知らない幼い少女。前に付き合っていた身体の安い『すれた』少女とは違う、純真無垢で高潔な少女であったが、だからこそ言葉の運び方一つでその身を完全に自分の色に染め上げてしまうことが出来そうな錯覚を覚えてしまう。……こういった考えは歪んでいるのかもしれない。
「そうではなく……その……」
言葉に詰まってから董子は上目遣いになって少しだけ恨めしそうな顔をした。彼女でもこんな表情をすることがあるなど春の栞には想像もつかなかっただろう。
「……先生がこんなに意地悪な方だとは思いませんでした」
それが穢れを知らない董子の精一杯の抵抗だった。
彼女らしからぬ、そして中学生らしいささやかな抵抗と言えただろう。
栞は小さく笑ってから立ち上がると半ば無理矢理に董子を抱き込んだ。自分より幾分も小さな身体を弄ぶようにしながら巻いた髪に指を通し、董子が僅かに除けるような仕草をしてから強引に頭をとらえて唇を合わせた。
栞が、自分がバイかもしくは完全な同性愛者じゃないかと思ったのは高校生の時だった。
初恋……と呼べるものかどうかはわからなかったが、初めて心を惹かれたのは小学校五年の時の同級の子だった。濡れ場色のストレートの髪が肩甲骨ほどまであった彼女は、クラスの中でも気が強くてカーストの上位にいる人間だった。
その頃の栞はまだ里親に完全に心を開いたわけじゃなく、クラスでも誰彼かまわず威嚇して回るようなノラ猫で、親しい友人は誰ひとりとしていなかった。
そんな中、その子とだけは何とか仲良くなりたかったが、その術がわからなかった。だから、偶の放課後、二人きりになった時に唐突に自分の生い立ちを話した。そのことで関心を持ってくれるのではないかと思った。けれど、その結果栞に与えられたのは蔑むような視線だけで、彼女は「あっそ」とだけ言って教室から出て行ってしまった。それっきり、言葉を交わすこともほとんどなかった。
二回目はもうちょっと恋だと認識出来るものだった。中学校で入っていた文芸部の先輩で、初恋の時の子とは違って大人しい先輩だった。少しの物言いにも気を遣い、一つひとつの言葉に命を吹き込むかのようなしゃべり方をする人だった。
最初のことがあったから、栞は今度は慎重に近づいた。身の上話などするわけもなく、クラスの中で聞きかじった流行の話をとにかく一方的にしゃべりつくした。今考えればなんとうるさい後輩だったことだろうと思うが、先輩はそれに不満一つ優しく聞いてくれて、栞は堪らなく嬉しかった。
だけど、そういった関係が終わるのは突然で、先輩が三年生に上がるとほぼ同時に、彼女の隣に急に我が物顔で立つ男が現れた。聞くと、先輩は少し恥ずかしそうに「彼氏なの」と答え、栞の二回目の恋はあっけなく終わりを告げた。男が出来たと聞いた途端、まるでパンパンに膨らんでいたボールに小さな穴が開いたように心のエネルギーが萎んでいってしまった。
三回目になってようやく吹っ切れた。と言うより、どういう立ちまわりをすれば良いのか教えられた。教えたのは大学生の遊び人気質のある女性で、栞はまだ高校生になって一ヶ月も経っていなかった。街で不意に声をかけられ、あれよあれよと言う間に落とされた。初体験もその人だった。
その人は決して尊敬出来るような人物じゃなかったが、女同士の――女同士に限る必要はないのかもしれないが――恋愛というものはどうすれば良いのか栞にとことん教えてくれた。
ただ、手を出すのも早ければ消えていなくなるのも早かった。栞を抱いた三ヶ月後には徐々に疎遠になり、半年もすると携帯の電話番号もメールアドレスも変わっていた。それっきりだ。でも、そのおかげで栞も変に引きずるようなことはなかった。
そこからは、栞自身好き勝手に気になる相手に声をかけ、恋に遊ぶということを覚え、大学生の時には随分奔放にやったものだと思う。だが、流石に董子ほど幼い子を相手にしたことはなかった。
もしかしたら自分には小児性愛の趣味があるのかもしれない。……いや、董子をそんな風にひとくくりにしてしまうのは間違っているだろう。彼女にこんな風に迫られて断れる人はほとんどいないのではないかと思えてくる。それこそ、それが男であっても女であってもだ。
今必死になって栞にすがる董子は穢れの一つも知らない天使だった。
キスはお姉さんともしていたと言うが、それはどんなキスだったのだろう? 決してそういったコトに慣れているようには感じられなかった。
十分に唇をつつき合ってから、栞の方から舌を差し出した。びくりと僅かに董子は身体を震わせたが、すぐにうっすらと栞の舌を口内へと受け入れてくれた。受け入れてくれたものの、こういうキスは初めてなのがすぐにわかった。彼女の舌は、初めての経験にどうして良いのかわからないままその身を固くして居場所をなくしていた。それを導くように栞が優しく舌を絡ませる。
柔らかな温かさ。それを互いに感じられるようになるまで、二人はキスに夢中になっていた。
それからというもの董子は週に二三度のペースで栞の血を欲しがるようになった。
決まってそれは夜だった。寮の消灯時間が過ぎ、他の寮生がすっかり寝静まった頃に栞の部屋を訪ねてくるのだ。
深夜の密会とでも言えば良いだろうか?
栞はそっと董子を中に招き入れ、人目のつかない所に傷をつけて彼女に血を与えた。そして、血のやり取りの後には決まってキスをした。それが新たに始まった栞と董子の繋がりだった。
ただ、それでも身体の関係になろうとは思えなかった。舌を絡める深いキスはしても、栞から董子の素肌を暴くような真似はしなかったし、董子も自ら肌を晒そうとはしなかった。
肉欲を知る栞が燃えることがなかったと言ったら嘘になる。けれど、それでも董子を抱く気にはならなかった。
もし彼女が――前の少女とまではいかないまでも――普通の女子中学生で、友人が普通にいて、普通の境遇で、普通の子なら話は違っただろう。
だが、燕城寺董子とはそういう少女とは一線を画しているように感じられた。
彼女を抱くことは、彼女に消えることのない永遠の疵を与えるようなものではないだろうか?
彼女の持つ美しい、誰の手も入っていない一面の白銀の世界のような原風景を、穢れ切った肉欲で滅茶苦茶にしてしまうようなものではないだろうか?
その恐怖――そう、恐怖を覚えているのだと、栞はその頃にようやく気がついた。
燕城寺董子というあまりにも美しく、穢れなく出来た存在に触れ、愛でることは、一歩間違えれば疵をつけ、彼女をただ外見が整っただけの少女に堕としてしまうのではないかと思えてならなかった。
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