第26話 繋り
安らかに眠る彼女の体温を左手に感じつつ、秘匿回線に直結した職務用のパッドを弄る。
通知が溜まりに溜まったメッセージアプリを開くと、古川警部補からメールが来ていた。
『五十川さんの件』
端的な件名をタップする。
『五十川さんのご両親、8.11でお亡くなりになったみたいね
新中_DM38
光和24年8月11日12時34分頃 46歳 男性
死因 :銃撃による脳裂傷。
搬送先:中京都立第二総合病院
新中_DF27
光和24年8月11日12時34分頃 46歳 女性
死因 :銃撃による呼吸不全。
搬送先:中京都立第二総合病院』
生物学的な両親と、今目の前で眠る彼女との法的関係は無い。
しかし、これで彼女は全部の『縁』を失ってしまったのだ。
彼女と生物学的両親との間に何があったのかという事は恐らく彼女以上に知っているが、それでも多少の同情とも呼ぶべき感情を感じない程に人間性を失ってはいなかった。
それに、少なくとも彼らは
……死亡時の状況は兎も角として、これらを彼女に伝えるべきか、伝えないべきか。
暫く迷った後、伝えないという判断を下すのは容易だった。
古川が私にコレを送ってきたのは、その判断の是非を問う為だ。
本人が国民行政情報に係る情報公開請求手続きをする場合に知られてしまうかもしれないが、その時はその時だ。
彼女がこれを知るのは、様々な厄介が終わった後、彼女が知りたいと思った時で良い。
今は、彼女が今まで受けてきた傷を癒す時間だ。
例えそれが現実から目を背け、暗い箱の中に閉じ籠もって行われるものであったとしても、それこそが必要な事なのだ。
『ご冥福を』
と、古川からのメールに入力して返信した。今頃自動保安審査を突破したメールが本省のサーバーを経由して古川の端末に届いている事だろう。
彼女を不幸にした責任の一端を担っていたのは我々内務省だ。
これを補償しなければ、内務省歌の歌う『国民の為に』という最重要の一節に背く事になる。
どうやって補償するかを考えるのは私の責務では無いが、首を突っ込んでもバチは当たらないだろう。
時刻ももう三時半を回った。特異事象も無い。
……少しばかり、三十分なら目を閉じても大丈夫だろう。彼女が覚醒する前に覚醒すれば良いのだから。
大丈夫、暫くは覚醒の見込みは無い。
彼女がノンレム睡眠に入った事を示すアイコンを認識した私は、彼女の右手を取りながら意識を泥の中に埋めた。
****
こんなに心地よい眠りはいつぶりだろう。
私の右手には暖かなものがあった。
それを胸に懐き、温もりを堪能する。
浮遊感とも言うべき感覚に身を任せていたが、突如オレンジ色の光が瞼の隙間から飛び込んできた。
ハッ、と目を開けると、彼が俯いていた。
びっくりして凝視すると、すぅすぅと静かに寝息を立てていた。
今まで、強い彼しか見た事が無かった。
そんな彼は、強くて、大きくて、優しくて、でも少しだけ怖くて。
制服と防弾チョッキに身を包んだ彼も、黒ずくめの服にガスマスクを付け、機関銃を携えた彼も、スーツの下にけん銃を携帯している今の彼も。
何かあれば私を一瞬で殺せる程の力を持ちながら、それを私を救うために使ってくれた彼を。
私なんかには無い強い意志を持ち、背筋は真っ直ぐで、瞳はキラキラとしていて、カッコよくて。
そんな彼が、眠っている。
彼の事を人格の無いロボット等と言うつもりは全く無いが、彼にもこうした一面がある事を知って、なぜか胸が高鳴った。ときめいた。
愛おしい。とこの感情を表現すべきか、貧弱な語彙力を恨みながらも、目に焼き付ける。
コックリ、コックリと首を揺らし、気持ちよさそうに眠る彼の姿を。
今まで、何かをカワイイとか、愛おしいとか、思った事は無かった。
人生の殆どを負の感情に支配されてきた私にとって、彼は殆ど唯一、私を明るい気持ちにさせてくれる。
それだけでは無い。こうした一面をも無防備に晒してくれる。
これは彼の意志に依るものでは無いかもしれないが、それでも晒してくれているのだ。
……欲しい。
彼が、宮木広隆が、AX-76412306が、国家中央警察警備部事態対処隊特設警護中隊第十三任務員(警部補)が。その全部が。
もっと知りたい。教えて欲しい。見たい。
近くで、離れていても、ずっと。
気付けば私の右手は白む程に力が入り腕は痙攣し始めていたが、不思議と痛みは感じなかった。
入院中、読んだ。
伴侶を得た幸運な人が読むべき、自分には本来縁が無いサイトを読み漁った。
そして妄想した。
彼との幸せな暮らしを。
私が彼のものになって、彼が私のものになるような、幸せを。
毎日彼が帰ってきて、ご飯を一緒に食べて、お風呂に入って、一緒のベッドで寝て――――
そんな暮らしが許される訳も無いと知りながら、彼の寝姿という栄養豊富な
理性では、私は幸せになれない事を知っている。
でも、私は幸せになりたかった。
何故、世間が『幸せ』を目指すのか、大切なモノが無かった私には漠然としか分からなかったが、今の私の脳内には目指すべき理想が、ハッキリとした輪郭――外から輸入されたもの――を以て提示されていた。
「……」
私はどうしようも無く自己中心的で、独善的で、独りよがりで、身勝手だ。
彼の気持ちを考えずに、ぶつけようとしている。
自分は、彼に釣り合う人間では無い。
彼は警察大学校を卒業した警察幹部で、エリートで、競争に勝って、人を救って、悪を挫いて、そして旭日章に誇りを持つカッコいい警察官だ。
私は、虐待に苦しんで、落ちこぼれで、負け犬で、人に救われて、悪に挫かれて、今にも消え入りそうな、何の取り柄も無い、ゴミだ。
消えたかった。
楽になりたかった。
街に居る楽しそうな家族が羨ましかった。
身を焦がすほどの嫉妬に狂いそうになって、薬に頼って生きてきた。
せめて迷惑を掛けたく無くて、人の幸せを邪魔したく無くて、慎ましく暮らしてきた。
そしたらあんな事をされた。
どうしてかは分からない。
でも、得た事がある。
今、安全な場所で、彼が側に居てくれて、清潔で気持ちの良いベッドの中に居るからこそ言える、得た事が。決意が。
私は、彼の人生を貰う。
その為に、私は彼に釣り合うだけの人間になる。
そして、彼の幸せの為に人生を捧げる。
私がどうなったって良い、彼に、私と同じ目には遭って欲しくない。
そして、その余力で良いから、私にも幸せを分けて欲しい。
独善的な私と、理性的な私、そして彼に貰った倫理的、自己犠牲的な――正義の私が取っ組みあって、場外乱闘をして、傷付け合って、ようやく出した結論がコレだ。
尚、独善的な私が『私はもっと幸せになりたい』と叫び、理性的な私が『ゴミの押し売りじゃ無いか』と呆れ、正義の私が『これしか捨てられるものが無いとはなんとも情けない』と軽蔑したが、これ以上バランスを崩せば碌な事にならない事も良く分かっていた。
再び瞼が重たくなってきて、妄想と欲望で満ちた脳裏が私を呼んだ。
船を漕ぐ彼の姿が薄れてゆくのを惜しみつつ、温もりを片手に夢の世界へと還る。スキップをしながら。
****
「ぁ……す……ヶて――
統一の本部施設。その一部である厚生棟の地下。
ガチャガチャという金属音に混じって聞こえたあの声が、こびり付いて離れない。
電脳では無く、生の脳に染み込んでいるのだ。
そのか弱く残酷な声は、地獄を見学すれば聞き慣れるであろう声だった。
ドアを蹴破って現れた闇の中、3500ルーメンのウェポンライトが照らした惨状。
全身が腫れ上がり、皮膚は爛れ、血と膿と滲出液でベタベタになり、両手両足は鎖で繋がれ、それでも本能か必死に生きようとして、助けを求めていた彼女、五十川明。
高性能な顔認証装置すら、誰か認識できない程に原型を留めていなかった彼女。
搬送の途中、ペンだこを見て、ようやく彼女だと認識出来た。
声を聞き、震えた。
その震えは、弾が目の前を掠めるような死の危機に直面した時も、目の前の惨状を制圧する瞬間にも、発砲した直後のじんじんとした感触を初めて味わった時にも、自らの放った弾丸で悶え苦しむ被疑者に手錠を掛けた時にも…………
体は動いていた。
補助筋肉を目一杯に使って、骨格に負担が無いように、効果的な衝撃点を以てドアを蹴り飛ばしたし、現れた闇をウェポンライトで完全に駆逐してトラップと待ち伏せを確認し、安全を確保するまでにかかった時間はコンマ2秒も無い。
幸いにして警察官としての職責は全うした。
だが、離れなかった。
幸せに生きて欲しいと願った彼女が、あんな姿になって、尚必死に助けを求めたあの声が――
パチリ。
瞼が開く。
時刻を確認すると、目を閉じて丁度三十分だった。
彼女は安らかに眠っている。微笑みすら浮かべて。
いつまでも、安全な場所に居て欲しい。
ずっと側に居て、安らかで居て欲しい。
今は良い。
しかし、警護が解かれた時、彼女が再び危険に晒されないという保証は無い。
鳥肌が立ち、スーツが蒸れるのを感じる。
嫌だ。
私はどうなっても良い。
彼女には、今までの分、幸せになる権利がある。否、幸せになって欲しい。
私は警察官であり、警察職務を遂行する為に例え殉職したとしても後悔は無い。覚悟の上だ。
だが、彼女はどうだ?
志願したのか?
何も悪い事をしていない、志願した訳でも無い、将来を約束された訳でも無い人間が、こんなにも理不尽な目に遭い、その後も悲惨な人生を送る事を、このまま見逃して良いのか?
だが、それは警察官としての身分をいやしくも濫用した、個人の願望を押し付ける事になる。
何回も考えた。結論が出ない事を知りながら、何回も。
落ち込みつつ循環し始めた思考を、突如聞き慣れたファンファーレが照らした。
****
諸事情で続きを広く公開できなくなったので、続きが読みたい方はTwitterのDMにその旨を教えて下さい。
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