復讐の夜 1

 


 イシュルはメリリャの前まで歩いて行くと微笑みを浮かべ、左手を胸に手を当て、かるく腰をかがめると少し恭しく、やさしく声をかけた。

「今晩は、メリリャ」 

 イシュルのいささか大仰な挨拶は、王国を含むこの大陸で広く行われている王族や貴族など上流階級の礼儀作法だ。彼らが女性の貴人に挨拶するときの正式な作法を簡略化したものだ。

 彼が少しおどけてそんなことをやって見せたのは、メリリャのメイド服姿がとても可愛かったからだ。もちろんそれは貴族の令嬢や王家のお姫様のするような服装ではない、ただの使用人の服装だ。だがそれでも彼女の姿は新鮮で特別だった。

「今晩は、イシュル」

 メリリャは少しはにかんで答えた。

「イシュルは昔から時々、ほんとうの貴族さまみたいに上品な仕草をするよね。しゃべり方もそう」

 彼女はイシュルの前に立って歩き出しながら言った。

「そうかな」

 彼女の言ったことは、今まで周りにいたひとたちからたびたび指摘されてきたことだ。イシュルが時々表に出す前世の、二十一世紀の日本人の仕草、言語が違っても話す時のスピードや口調は、この世界の人々には妙に洗練された上品なものと感じるらしい。だからといってこの世界の人々の動作が野蛮だとかそういうことはない。少し田舎臭い感じは確かにあるが。

 ……いる。見張られてる。

 木造の兵舎の横を通り過ぎ、丘の斜面につくられた階段を上って行くと、イシュルは城壁の上、凹凸型の矢狭間の影に二、三人、息をひそめ身を屈めている者たちの気配を感じ取った。同じ城壁の端に立つ衛兵とは別に、イシュルに見えないように潜む複数のひとの気配。

 イシュルは頭を上げそちらを見てしまわないよう気をつけながら、内心ほくそ笑んだ。

 なんてわかりやすい。

 俺は、ただの田舎の村の少年なんだろう? それをどうするつもりだ?

 メリリャは人がふたり横に並んでなんとか通れるくらいの幅しかない、小さな城門の前に立つと、入口の片側だけに立つ衛兵に小さな声で「通ります」とひと言だけ言って、中に入って行く。

 イシュルも続いて中に入った。衛兵は顔も向けてこず、特に反応はない。

 メリリャは入ってすぐ、城壁の内側にある木造の小屋に入っていき、火の灯されたカンテラをぶらさげて出てきた。

 カンテラに照らされたメリリャの顔は少し強ばっているように見える。城門をくぐるあたりから、からだの動きも少し固くなってきたような気がする。

 彼女は緊張しているのだろう。それは確かに緊張するのもわからないではないが……。

「ついてきて」

 カンテラねぇ。

 イシュルは辺りを見回した。もう夜、といっていい暗さだが、どう考えても灯りなしで歩くのは無理、という状況ではない。

 あれから城内には、前からあった正面奥の大きな樟の他に、左手に同じ樟か、樫の木が数本植えられていた。その木々の向こうには篝火が幾つか焚かれ、たくさんの人々のざわめきに混じって弦楽器の重奏が聞こえてくる。木々の向こう側が男爵家の収穫の宴の会場になっているのだろう、木々の間に見え隠れする着飾った人々はざっと百人ほどか。宴に招待された街の名士たち、その夫人、家族らだろう。

 そして木々の手前、会場の裏側であるこちら側には数人の衛兵が目立たぬようにして立っている。

 イシュルは新たに植えられた木々、前からあった奥の樟に素早く目を走らせた。

 衛兵らはいい。問題はその枝葉に隠れるようにして木の上に数名、おそらく射手が隠れ潜んでいることだ。彼らに特に動きはなく、矢を射かけてくるような素振りもない。彼らの注意は招待客のいる会場の方に向けられているようで、こちらを見ている感じはしない。

 一応、ブリガールも用心している、ということか? これが罠、なんだろうか?

 ふたりが何となく前の方へ歩きはじめるとすぐに、メリリャが振り向いた。

「ねぇイシュル、ひとつお願いがあるの」

 メリリャが身を寄せてきて囁く。少し悲しそうな顔をつくって。

「なに?」

「あのね、実は数日前にベルシュ村出身の人がブリガールに捕まってしまって、今、城の牢屋に入れられているの」

 彼女はそこで言葉を切った。こちらの目をのぞき込むようにして見つめてくる。

「それで、ブリガールに復讐する前に、その人を先に助けられないかな、って思って」

 緊張が極まったのか、彼女は少し息を吐くと、そこからは一気に話した。

「イシュルがどうやってブリーガールを殺そうとしてるのか、わたしはわからないけど、ブリーガールを殺したら、すぐにお城から逃げなきゃいけないでしょ? 騒ぎになるかもしれないし。だから、先にその人を助け出した方がいいと思って」

 仕掛けてきたか。

 そのためのカンテラか。

 イシュルはメリリャに微笑んでみせた。

 だがそれは彼女に対する肯定のサイン、彼女を安心させるため、というようなものではなく、露骨でずさんな罠への誘いにたいする嘲笑を含んだ皮肉なものだった。もし明るい陽のもとで彼の笑顔を見たら、メリリャにもそうと気づいたろう。

 イシュルは微笑みを浮かべたまましっかり頷いた。

「わかった。その人を先に助けてしまおう。その牢屋まで案内してくれるかな?」 

 無理に助け出せばそれはそれで騒ぎになると思うんだが。

 随分と甘く見られたものだ。

「うん! それじゃ案内するからついてきて」

 メリリャはうまくいったと思ったのか、少しうれしそうだ。

 イシュルは笑みを消して前を歩くメリリャの背中を見つめた。

 残念だよ、ほんとうに。

 ふたりは収穫の宴が行われている会場の前を素通りして、正面の樟の奥へと歩いていく。目の前の衛兵たちは何も言ってこない。

 今日の俺の格好を見れば、衛兵たちにも収穫の宴の招待客、とわかる筈なんだが。その招待客が会場の前を素通りしてるのに誰ひとり声をかけてこない、ってのはちょっとおかしいんじゃないか?

 大きな樟の奥へ進んで行くと、城の中心にある居館の東側に出る。

 その居館の一階にも、多くの人の気配があった。おそらく宴の客に給仕する召使いたちだろうが……ひとの気配は上の方のフロアにも感じる。

 おそらく騎士団の兵隊も混じっているのだろう。

 俺を牢獄に誘導しつつ、一方で念のために宴の会場の方もしっかりと警備している、ということなのか。

 エリスタール城の天守にあたる居館の東側、そこには二階建ての木造の建物が城壁の裏側にへばりつくようにして建てられていた。この建物が城に勤める従僕、召使いらの住居なのだろう。

 屋根の上には等間隔で出窓が並んでいる。あの屋根裏部屋のどれかひとつがメリリャの仮の住まい、になっているわけだ。

 城主の居館と木造の建物の間を奥に歩いていくと、左側に城の北東の塔の入口が見えてきた。

 ちなみにこの塔は城主の居館と連結され、武骨な石積みの塔の外壁は、途中から居館の白い洋漆喰の壁に隠れている。

 ふたりの前にある塔の入口には地下へと続く階段が見えていた。

「牢屋はこの下だね?」

 イシュルが質問すると、メリリャはうん、と答え、先に階段を降りて行った。

 階段は途中で逆側に折り返し、下に続いている。

 イシュルはその踊り場のところでメリリャに小声で声をかけた。

「牢番は?」

「今日はお休みよ。お酒を渡して買収したの」

 メリリャは振り向いて、イシュルに鍵の束を見せてきた。

「今、牢にはこの前捕まったベルシュ村出身の人しかいないから、暇してたみたい」 

 そうですか。

 階段を降りると、右に通路が伸びている。通路の両側に小部屋が並んでいた。一番手前、左側に牢番の詰める小部屋があった。その部屋には誰もいない。

 確かに今入牢している者は誰もいないのか、小部屋の扉はみな開いていて、通路の方へその分厚い木板と鉄枠で覆われた武骨な姿を見せている。

 奥まで一直線に伸びる通路は等間隔で松明が掲げられ、妙に明るい。とても不自然だった。

「一番奥の部屋よ」

 とメリリャは言って、通路を奥へ歩き出した。

 ふたりの歩く足音が響きわたる。

 本当にいるのかいないのか、捕まってしまったベルシュ村出身の人、というのは一番奥の部屋に閉じ込められているらしい。通路の一番奥に、正面に扉を向けた部屋がある。その部屋の扉だけは閉まっていた。

 あの部屋に閉じ込められてしまうのかな? それが罠、か。

 イシュルはまるで他人事のように思った。

 まさか、それでお終い、なんてことはないよな? 

 牢獄の奥の方へ意識を向ける。一番奥の部屋と、そのひとつ手前の小部屋に数人ずつ、ひとの気配があった。何をしているのか、細かいことまではわからないが、奥の部屋に二、三人、手前の小部屋の方は通路の両側の部屋にひとりずつ。

 ふむ。これは何か用意がしてありそうだ。

 イシュルは前を行くメリリャにも気づかれないよう、ゆっくりと自らの四肢のまわりに空気を集めはじめた。

 通路は進んで行くと、途中、物置として使っている部屋などもあって思ったより長く感じた。位置的にはおそらく東側の城壁の真下あたりになるだろう。

 ふたりは奥の部屋に着いた。両側の小部屋に隠れている者に動きはない。息を潜めている感じだ。

 メリリャは扉の閂を上げ、扉についている鍵穴に鍵をさした。残りの鍵が鉄輪からぶらさがっている。

 鍵はみな同じなのか? よくわかるものだ。予行練習でもやってるんじゃないか。

 メリリヤは鍵を開けると扉を開いた。ギギッと音が鳴る。中は薄暗い。

「入って」

 彼女はイシュルに声をかけると先に入っていく。続いてイシュルもその部屋に入っていった。

 イシュルが部屋に入ると後ろの扉が大きな音を立てて閉じられた。外から鍵をかけられる。

 部屋の中はそれなりの広さがあった。メリリャは部屋の奥まで歩いて行くと、閉められた扉に注意を奪われ、まだ入口のあたりに佇んでいたイシュルの方へ振り向いた。彼女の右側の、カンテラの光が届かない薄暗い影の中から、男がひとり、メリリャの方へ近寄ってきた。

カンテラの灯りに浮き上がってくる男の姿。それはヴェルスだった。


 部屋の両端にいたふたりの男がメリリャのカンテラから火をもらい、松明に火を灯す。松明は壁に架けられた。男たちは皮鎧をつけ、腰に剣を差している。おそらく騎士団の者ではない。

 ヴェルスは気の効いた裾の長い深い赤紫の上着、フリルなどの装飾のついたシャツ、細身の剣を腰に差し、足元は編み上げブーツ、という出で立ちだった。そのまま宴の会場に出ても問題のない服装だ。ただし家令としてはどうだか知れないが。

 「はじめましてかな? イシュル君。わたしの名はヴェルス・ブリガール、ブリガール男爵家の家令をしている」

 目の前のヴェルスは以前に城ではじめて会った時と違い、やる気に満ちていた。あの時のけだるそうな感じが微塵もない。目論み通りに事が運んで機嫌がいいのだろう。いや、それだけじゃない。おそらく、他に何かがあるのだ。ただの田舎の少年?である俺を罠にはめたくらいでこんなに喜んでいたのなら、ただの馬鹿だ。

 しかし、どうでもいいが非嫡子なのに家名を名乗っていいのか?

 ヴェルスはその端正な顔に手をやり、何か考える仕草をした。

「前にどこかで会ったことがあるかな? 君はフロンテーラ商会で見習いをしてるんだったね」

 イシュルは左右に素早く目を走らせた。松明をつけたふたりの男は部屋の両端にひとりずつ、今は短めの槍を構えている。

 腰をしっかり落とし、適度に足を開き、槍を持つ感じも自然な感じだ。騎士団の槍兵より腕はいいかもしれない。

「……どうしたのかな?ちょっと驚かしてしまったか。大丈夫かい?」

 イシュルが無反応で何もしゃべらないのを怪訝に思ったのか、ヴェルスがかるく侮蔑を含んだ笑みを浮かべて聞いてきた。

「ごめんね。イシュル」

 台詞だけならいたいけな少年を騙した悪女、といった感じだが、メリリャの表情は本当に悲しそうで、真摯なものだった。

 イシュルは小さく、ため息をついた。

 両側の男たちは槍を構えたまま、動きはない。イシュルはメリリャとヴェルスの顔を見比べた。

 さて、どういう風に進めるか。

 どうしたらいいかな。ヴェルスの企みを吐かせ、メリリヤをこちらに離反させるには。

「メリリャ……、どうしてこんなことを」

 うまく演技できてるかわからないが。メリリャから攻めることにする。

「イシュル…」

 メリリャは片手を胸に当て、苦しそうに俯いた。

「ははは」

 ヴェルスの楽しそうな笑い声。

「いや、それはぼくの方で謝らせてもらおう。彼女はぼくの指示に従っただけなんだ」

 ヴェルスが割って入ってくる。ねらい通りだ。「わたし」が「ぼく」になった。

「きみはメリリャの幼なじみなんだろ? きみを騙すこと、最初は彼女もいやがったんだけどね、まぁ」

 ヴェルスはメリリャに目を向けた。少し恥ずかしそうにヴェルスを見るメリリャ。

「彼女はぼくの言うことは何でも聞いてくれる。まぁ、そういうことさ」

 ヴェルスの顔に嗜虐的な笑みが浮かぶ。

 こいつ、俺がメリリャに裏切られ、奪われ、苦しんでいると勝手に思い込んで楽しんでやがる。

 しかし、昨日彼女から話を聞いた時点でわかっていたこととは言え、面と向かってこういうことをされるとちょっと来るものが確かにある。

 だが、本当に可哀想なのはメリリャだ……。

「いやいや、これは失礼。話が少しそれてしまったね。きみをこの部屋におびき寄せた理由、それはきみにここで死んでもらいたいからだ。風の魔法具を隠し持っていた、ベルシュ村虐殺の生き残りの少年としてね」

「!!」

 はぁ?

「ははっ、びっくりしたかい? 可哀想だけど、そういうことにしてもらう」

 ヴェルスはこちらがなぜ驚愕したかも知らず、とてもうれしそうだ。

「きみがベルシュ村を出て、フロンテーラ商会で働きだしたのはここ一年ほどらしいね? メリリャがいろいろと教えてくれたよ。森の魔女レーネが死んだのは五、六年ほど前だ。その間にベルシュ村を出た者はそれほど多くない。しかもきみはベルシュ家の親戚だそうじゃないか。」

 ヴェルスの笑みが深くなる。

「おあつらえ向きだ」

 そうか。それで地下の牢獄に誘導したのか。この場所では風の魔法を思うようには使えないだろうって、誰でも、そう判断するだろう。

「きみは辺境伯候が喉から手が出るほど欲しがっている、伝説の風の魔法具を所持していた者として、風の魔法を使えないこの牢獄にわが主によっておびき出され殺されるのだ」

 男爵によって? ではあいつもこのことは知っているのか?

「はは、何がなんだかわからない、って顔してるね」

 ヴェルスは調子良く、もっともらしく頷いた。

「きみは何といってもメリリャの幼なじみだ。せめてなんで殺されるのか、教えてあげようと思ってね。理解できないのならそれはそれで仕方がない。冥界でじっくり考えればいいさ」

 両脇にいる男たちがにじりよってくる。

 これで種明かしは終わりか?

 いろいろと納得がいかないが……、メリリャを攻めればまだ何か出てきそうな気がする。

 彼女は男爵は絶対許さない、復讐してやる、と言ったのだ。あの言葉だけは彼女の本心だと、確信を持って言える。それだけは信じたい。

 このまま俺が殺されてしまえば誰が復讐するんだ? メリリャ、おまえこそひとりでできるのか?

「メリリャ! おまえ、男爵にはかならず復讐してやるって、あの時言ったじゃないか。あれは嘘だったのか!」

 苦しい、悲しそうな声音。

 だが顔の表情まで演技できたろうか。とりあえず両脇にいる男たちからは緊張した空気が伝わってくる。

 この茶番劇もいよいよクライマックスを迎えようとしている。この場は緊張感で満たされている、と思う。多分大丈夫だ。

 メリリャが不安そうな目でヴェルスを見上げる。

「もちろん……、大丈夫だよ。この後親父には彼の、風の魔法具を持つ少年の遺体を検分しにきてもらう。

すべて予定どおりだ。ね? その時にはきみも、その遺体がきみの幼なじみのイシュルという少年だと、きちんと証言してもらう。その後にだ、ね?」

 ヴェルスは少し慌てたような感じで彼女に説明している。だがそれはメリリャの不審を解くとことよりも、きみにとても気を使ってるんだ、きみのことが大切なんだ、という気持ちを伝えることに重きを置いた感じだ。

 ふふ、そうか。これがこの茶番劇の核心部分なのだ。俺をダシにして男爵を暗殺することが。

 この罠は俺だけではなく、いや、この罠の対象は俺ではなく、男爵本人、ユリオ・ブリガールその人、だったわけだ。

 しかも、殺してしまう男爵に証言って何だ? ヴェルスめ。いっしょにメリリャも殺すつもりだろう。

「なるほどな。それがねらいだったのか」

 イシュルの態度が変わった。余裕のある、冷たい侮蔑を含んだ物言い。

 ヴェルスとメリリャが、呆然とこちらを見てくる。

 イシュルは不敵な笑みを浮かべると話を続けた。

「俺のことをただの田舎の村の一少年、って思ってたんだろ? あまりに酷いお誘いだったのでそのことはわかっていたんだが、一方でなんでわざわざこんな罠を俺に仕掛けたのかがわからなかったんだ。俺をダシにして男爵をこの密室に誘いこんで殺すのが目的だったのか」

 地下の狭い牢獄では男爵につき従う者も少なくならざるを得ない、いや、風の魔法具を持っている、ことにされた少年の死体検分だ。男爵も共謀しているのなら、他の者に現場を見られないようにひとりで来るかもしれない。

 さらに、少年の死んだ時間帯に男爵が地下の牢獄にいた事実がなければ、自身の手柄にはならないから、男爵は一度はかならず地下牢まで来なければならない。

 おそらく男爵は、地下牢に風の魔法具を持つ少年を捕らえたことと、地下牢に自ら乗り込むことを多くの者に伝えつつも、実際に地下牢に向かうのはおのれひとりか、ごく少数の者にしぼるだろう。

 そしてヴェルスの立場からすると、密室だから無関係の第三者に目撃される恐れはないし、この後に連れてくるのなら、男爵は収穫の宴の後で酒が入っている。ベルシュ家の魔法具を所持していたとしても、酔いが深ければ魔法具が効力を発揮しない可能性が高そうだし、うまく発動しても現時点で槍兵がふたり、外にふたり、範囲攻撃が有効なのはわかっているのだから、殺せないことはないだろう。

 街で噂になっているように、ヴェルスが男爵の後釜を狙っているのが事実なら、それは男爵殺害の動機そのものになる。ヴェルスは庶子だから正式には男爵家を継げないかもしれない。だが彼の腹違いの兄弟はまだ幼い。その間、男爵家の実権は彼が握ることになる。結果はともかく、ヴェルス自身が正式に男爵家を継げるよう、宮廷に工作する時間もたっぷりある。

 とりあえず、ベルシュ村の虐殺で男爵家が王家から領地没収などの処罰を受ける可能性がある、という今の政治的状況を脇に置いて、の話になるが。

 そして、そんな事とは関係なしに、男爵が死にさえすればそれでメリリャの願いはかなえられることになる。

 まさか、ヴェルスはメリリャにふたりで男爵を倒し、その後は結婚しよう、などと甘言を連ねて騙してるんじゃないんだろうな……いや、それはあり得る話だ。

 なんでもない村娘が男爵家の正夫人なんかになれる筈がないのに。

 ただ、彼女がたやすく騙されてしまっているからといって、彼女を責めるわけにもいかない。あの絶望的な状況から救い出してやさしく面倒を見てくれた、しかも見栄えのいい青年。まるで白馬の王子さまだ。これではそこらの世間知らずな村娘なら誰でも容易くおとされ、騙されることになるだろう。

「……それで、俺を殺して風の魔法具はどうするんだ?殺したときに壊れてしまいました。とでも辺境伯に報告するのか?」

 思いっきり煽るようにして言ってやる。

 ヴェルスにはまだまだ余裕がありそうだ。もう驚いた感じはない。

 彼は不敵な笑みを浮かべて言った。

「ふん、小僧が。おまえ、風の魔法具がどんなものか知らないのか?」

 そこでヴェルスは一瞬、探るような目を向けてきた。

「まぁいい。なら俺が教えてやろう。イヴェダの剣、レーネの風の魔法具は最高位の魔法具なのだ。そしてそれは所有者の肉体と一体化し、その所有者が死ねば煙のようにその死体から漏れでて消えてしまうのだ。つまりイヴェダ神のもとに返還されるわけだ。このことは今まで誰にも知られていなかったことだ。そして」

 ヴェルスの笑みが大きくなる。「わたし」が「ぼく」になり、「俺」になった。

 それにしても、ヴェルスの披露した風の魔法具に関する知識は、聞く限りではかなり中途半端なものだ。正確でもない。

 これは、そう……まるで、燃える森の魔女の家から逃げてきたあの夜、ファーロやエクトルが語った話、あの時の、不確かな伝承やふたりの推測も混ざった会話、それを一部抜粋し、脚色したかのような内容だ。

 ヴェルスは引き上げられた口の端を歪め、自信を漲らせて言った。

「このことはもちろん、辺境伯さまにお伝えしてある」

 なるほど。

 イシュルはそこでヴェルスの台詞の続きを受けるようにして言った。

「だから、俺の死体から風の魔法具を見つけられなくても、辺境伯に怪しまれることはない、ということか」

 だが、この話にはちょっとおかしいところがある。

 風の魔法具を持つ者が死ぬと、それが煙になるか知らないがイヴェダ神のもとに返還されるのなら、俺のこと、つまり風の魔法具を持つ少年、がどうして存在しているのか説明がつかない。

「そうだ。なるほど、田舎者のわりになかなか頭が回るじゃないか、小僧」

 ヴェルスは嘲笑を込めて言ってきた。

 こいつ…。まだ俺に隠していることがあるな。

「いや、それはちょっとおかしくないか? おまえの言うとおりなら、そもそもレーネが死んだ時点で風の魔法具はこの地上から消えてしまったことになる。俺が風の魔法具を持っていた、なんて誰も納得しないだろう。そもそもあり得ない話だ」

 ヴェルスは目を見開き笑った。

「そうだな。やはりおまえは馬鹿じゃなさそうだ。いいだろう。話してやろう」

 ヴェルスは今度は目を細め、イシュルをなぶるような目つきで睨み話しはじめた。

「おまえは子どものころ、森の魔女の家に呼ばれたそうだな。その時に火事が起きてレーネは死んだ。おまえはベルシュ家の一族だ。それに随分と頭のいい子で、神童と呼ばれていたらしいじゃないか。年老いたレーネはおまえをイヴェダの剣の継承者に選び、その時におのれの風の魔法具をおまえにわたしたのだ。その昔、ベルシュ村の森の奥の遺跡で、若きレーネがイヴェダ神から授けられた魔法具は剣だったそうだ。レーネは自分のからだから剣を形づくっておまえに授けたのだ。その剣はおまえのからだの中に溶けていった。おまえはその時風の魔法具のあらたな継承者となったわけだ。所有者が死ねば魔法具は消えてしまうが、死ぬ前なら話はまた別だ」

「と、いう話をつくったわけか」

 イシュルはヴェルスの話を遮った。

 くだらない。笑えるじゃないか。ただ、そういうことも本当にできるのかもしれないが。

 それよりこいつ、俺があの時、レーネに呼ばれたことまで知っているのか。

「そうだ。過去に、からだの一部と同化した魔法具が存在し、その継承が行われた話なら伝承として残っている。このことも辺境伯さまにはお伝えしてある。レーネの風の魔法具を所有している少年がいるらしい、今捜索中です、とな。おまえは同じ村の幼なじみによってこの地下の牢獄におびき出され、幼なじみに裏切られたと知って逆上し、親父と刺し違えて死ぬ、というわけだ」

 ヴェルスはまた歪んだ笑みを浮かべた。メリリャは不安そうな顔をしている。

 からだの一部と同化した魔法具の継承、そんな事実が過去に本当にあったのなら興味深いが。

 とにかくこれで、一応話がつながったことにはなるわけか。

 そしてヴェルスの企んでいる事も。

 ベルシュ村で村人を虐殺してしまい、レーネの風の魔法具の捜索に失敗してしまった男爵家が唯一得る事の出来た成果、それがベルシュ家のファーロやエクトルの持っていた風の魔法具に関する知識、レーネの死んだあの夜に起こったこと、それらの情報を得たこと、ということになる。

 レーネの風の魔法具について、ベルシュ家のふたりより知識を持つ者は、王家や宮廷魔導師でもほとんどいないかもしれない。あるいはもう誰も知る者はいないかもしれない。

 あの夜、イシュルが一部を隠し、ごまかして話した内容に、ファーロの誤った判断も加わり決して正確なものではないのだが、その情報が辺境伯や王家にとってそれなりに有用なものであることは間違いない。レーネが死に、赤帝龍が現れた現状では朗報とは言えないが。

 風の魔法具を持つ者が死ぬと、その風の魔法具がイヴェダ神のもとに返還されるという情報を辺境伯や王家に提供し、風の魔法具を持つ少年を殺すことによってその風の魔法具の捜索に区切りをつけ、男爵家に対する王家や辺境伯の追及を少しでも緩和し男爵家の存続を図る。その一方で風の魔法具を持つ少年をエサに男爵を殺害し、自身が男爵家を支配しいずれは正統な後継者になる。これがヴェルスのねらいだったわけだ。

 ただ、その風の魔法具を持つ少年を捕らえて辺境伯に差し出す、何とかしてその少年を殺さずに、イヴェダの剣を無理矢理ヴェルスなり男爵家の者に継承させる。そこら辺のことができれば、まさしく勲功第一、一番いいことなんだが。それもその少年が偽者だというのならどうしようもない。

 ヴェルスは風の魔法具に関する多くの知識を得て、それにつくり話を加えることで、おのれの意図しないところである意味、俺と風の魔法具の秘密、その核心に触れるところまで近づいたのだ、とは言える。しかしそれはヴェルス自身のよこしまな野心がつくりあげた、嘘で塗り固めたものだ。

 そこには真実を追求する意志などかけらもない。だからこちらにはやつの話のすべてが、うさんくささでいっぱいの与太話としか聞こえてこないのだ。

 与太話で男爵家の罪をそそぎ、おまえの栄達などかなう筈もなかろうが。

 以て瞑すべし、とは今のおまえには一番遠い言葉だ。おまえはその汚い嘘に見合った殺し方で葬ってやる。

 ヴェルスが部屋の両端の、槍を構えた男たちに目をやった。

「もうおまえの疑問も解消されたろう。そろそろ死んでもらおうか」

 両側から向けられた槍の穂先がくいっ、と上がってくる。

 さて、風の魔法具に関すること、森の魔女に呼ばれた日のこと、それをヴェルスらに話したのは誰だろうか。父やポーロ、ファーロにエクトル、誰が一番可能性が高い?

 いずれにしろ、レーネのことにしろ、風の魔法具のことにしろ、一番知識を持っていたのはベルシュ家のふたりだ。

「いや、まだだ。おまえ、その話、風の魔法具のことを誰から聞いて知った? 大伯父はおまえらと戦って死んでしまったみたいだから、エクトルおじさんから聞き出したのか」

 イシュルは目を細めた。

「……拷問したな?」

 ヴェルスの顔に一瞬焦りの色が浮かぶ。

 メリリャが目を見開き、ヴェルスの顔を見た。

 こいつ、メリリャには自分は村人の虐殺には関わってない、とでも思わせていたんだろう。

「貴様…、そんなことはどうでもいい。殺れ!」

 ヴェルスが部屋の端で槍を構える男たちに命令する。

 男たちが槍をしぼり、イシュルに突き出そうとした瞬間。

 その時、槍を構えた男たちからヒューという、今まで誰も聞いたことがないような異音が聞こえてきた。

 男たちが槍を落とし、喉や口を押さえた。そしてその口や鼻から、押さえた手の間から血煙が吹き出してくる。

「ぐぉおお」

「かっ、はは」

 男たちは苦しそうに喉元や胸をかきむしりながら倒れ込んだ。

「きゃああ」

 メリリャの悲鳴。

「は?へっ」

 ヴェルスは呆然と目を見開き、首を左右に振って倒れた男たちを見る。

「別に地下の密室だからと言って、風の魔法が使えないわけではないぞ」


 イシュルは酷薄な笑みを浮かべて人差し指を頭に当てると言った。

「ようは頭の使いようだ」

「風を呼び込めない密室でも、まわりに空気があるのなら風の魔法は使える。空気が少ないのなら、あるところでそれを使えばいい。人の肺は空気を完全に抜いてしまえば簡単に潰れる。肺が破壊されれば後は死ぬしかない」

 イシュルは顎に手をやり、首をひねった。

「その前に肺ってどういう働きをしているか、わかるか? そこからだよな」

「ひ、ひっ、きさま、ま、まさか」

 ヴェルスの顔からは汗がふき出し、顔色が青黒く変色している。

 イシュルのせっかくの嫌味な解説もまったく意味がなかった。

「はは、今度はこちらが笑う番だな。まぁ落ち着けよ」

 イシュルは笑って、ヴェルスに掌を向け、押さえて押さえて、と手を振ってみせた。

 メリリャは顔面を蒼白にして無言でイシュルを見ている。

 まだヴェルスを殺すのは早い。

 まだメリリャをヴェルスから引き離せていない。

「さっきの話の続きをしようぜ。な? 正直に話せばおまえを見逃してやってもいい」

 もちろん見逃すつもりはない。口からでまかせだ。こいつも簡単には殺さない。

「エクトルおじさんにどんな拷問をした? まさか捕らえたおじさんの家族を殺す、とか脅して口を割らせたんじゃないだろうな」

 ヴェルスの目が泳ぐ。

「それともイザークやおばさんを拷問にかけて、それをエクトルおじさんに見せたのかな? それならおじさんも簡単に口を割ったろう。知ってることをありったけ、すべて話してしまったろうな」

 これはむしろメリリャに向けて言った言葉だ。

 在りし日のエクトルの顔が浮かぶ。田舎の村には似合わない、上品で知的で、やわらかい感じの人だった。そしてイザークの生意気な顔……。

 メリリャは村が襲われた日のことを思い出したのか、それともイシュルと同じように昔の記憶、イザークらと遊んだ子供の頃を思い出したのか、顔を強ばらせ、俯いて震えている。

「…それが、どうした」

 ヴェルスは震える声で小さく呟いた。ヴェルスも震えている。違う理由で。

 半ば当てずっぽうで言ってみたんだが。

 エクトルも村の男たちとともに戦っていたら、負傷していたかもしれない。父を殺され、村の者を殺され、その状況で本人に苦痛を与える拷問をしてもそんなに効果があるとは思えない。

 彼の家族が生きていたのなら、その家族を脅しに使えば彼の性格からしても非常に効果的に、いろいろな事を聞き出せたろう。とくに拷問して見せたなら、効果は絶大なものになっただろう。

「イザークも俺やメリリャと同じ、幼なじみだったんだ。何の罪もない女子供を拷問にかけるとはな。この下郎が」

 メリリャが両手の拳を握りしめた。

「おまえ、街でもとても評判悪いぜ? その顔で甘い言葉で、街娘を随分とたぶらかして、次から次へととっかえひっかえだそうじゃないか。エリスタールに出て来て一年足らずの俺でも知ってるんだ。お前の手ぐせの悪さを街の者で知らぬ者はいない」

 メリリャがキッと、ヴェルスを見上げた。

「違う! 俺はそんなことしてない!」

 ヴェルスがメリリャに向かって言った。

「おまえは他にも汚いことしてるだろう。歓楽街の顔役と手を組んで、金集めのためにそこで働く不幸な身の上の女たちをより深い絶望へと突き落とした」

「はぁ?」

 ヴェルスがだらしなく口を開けた。

 身に覚えがないとは言わせないぞ。

「まさしく驚愕の連続だな、ヴェルス。おまえはステナからどこまで俺のことを聞いた?」

「ステナ?」

「おまえが懇意にしている歓楽街の情報屋の名前だよ。おまえ、ジノバ邸襲撃は誰がやったと思う? あの晩のことだよ」

 あの時、泡を食って逃げ出したヴェルスの姿。

 ヴェルスの顔が驚愕に覆われた。

「お、おまえ……」

「運が悪かったなヴェルス。俺が風の魔法具を持たない、ただの田舎者だったらおまえの謀った通りになったかもしれないのに。」

 メリリャは顔色も悪く、虚空に目をさまよわせている。

「男爵を殺すためにこの部屋に呼びつけて、メリリャに証言させるって? 殺してしまうやつに何を聞かせるんだ? そんな必要がどこにある」

 イシュルは一息間をおき、とどめを刺した。

「ヴェルス、おまえ、メリリャも男爵といっしょに殺そうとしてたろう」

 メリリャは青白い顔で何度目か、ヴェルスの顔を見上げた。

 その眸には今や、不審ばかりではない、憎悪の色さえ見てとれた。

「ヴェルスさま、わたしをだまして」

「違う! くそっ」

 ヴェルスがメリリャの追及を遮り、絞り出すように言った。

 怒りに全身をわなわなと震わせ、その顔はどす黒く歪んでいた。

 何か嫌な感じがする。

「さぁ、メリリャ、こっちに来るんだ。おまえは騙されていたんだよ。そいつといっしょにいると殺されてしまうぞ」

 イシュルはメリリャに向かって手を差し出した。

 メリリャはほんの一瞬、逡巡した。そして力なく、イシュルに向かって歩き出そうとした。その足がつまずく。メリリャのからだが前に投げ出され、ヴェルスの姿が隠れた。この瞬間、イシュルの注意はメリリャに向けられた。メリリャにだけ向けられた。それがまずかったのかもしれない。

 メリリャの手がイシュルに向かってさし出される。

 イシュルがその手をとろうとした時。

 メリリャの胸から剣先がにゅうっと、突き出てきた。メリリャの顔が歪む。

「!!」

 ヴェルスがメリリャを後ろから刺したのだ。

 瞬間、部屋の中を風が渦巻いた。

 やつの肺を潰す選択はしなかった。

 松明の火が激しくまたたき、片側の方は火が消える。

 標定する瞬間さえ惜しかった。

 イシュルはメリリャの背後、ここらへんと見当をつけたあたりに空気球を破裂させた。

 それほど威力がないことはわかってる、それでも。

「ぎゃああっ」

 ヴェルスの悲鳴と同時に、メリリャが背後で起きた空気球の破裂に押され、イシュルに倒れこんでくる。

 すべては一瞬のことだった。

「メリリャ!」

 イシュルはメリリャを抱きかかえた。メリリャの背中に手を回し、剣を抜きとる。

 メリリャの着ていたメイド服の胸のあたりがより深い黒色で染まり、濡れていく。

 ああ、メリリャ……、もうだめだ。

 くそっ、失敗した。メリリャを、助けられなかった。

「開けろ! 開けろ!」

 いつの間にイシュルの後ろに回り込んだのか、ヴェルスが扉を叩き、喚いている。

「メリリャ! しっかりしろ」

 メリリャの眸から光が、命が消えていく。

 それでもメリリャは微笑んだ。

「ごめんね、イシュル……」

 最後の言葉とともにメリリャの眸から光が消えた。

「メリリャ!」

 可哀想なメリリャ。どうしてこんな……。

 イシュルはメリリャをそっと牢の石畳の床に横たえる。イシュルの目から涙が滴り落ちた。

 腰を落とし座り込んだまま、両手を握りしめ、ぐっと堪える。

 部屋が少し明るくなった。ふと顔を上げると、牢獄の扉が開かれ、外にヴェルスが立っていた。

 右手は手の甲が赤く染まっている。左手は壁から伸びている鎖の先の鉄輪を握っている。後ろにひとりふたり、人影が見える。部屋の外で待機していた男たちだろう。

 ヴェルスがその鉄輪を思いっきり引き、叫んだ。

「死ね!」

 瞬間、天井の裏の方で何かが動く気配、ガタンという音。

 天井の石が崩れ始める。

 釣り天井!!

 イシュルの全身を恐怖が走った。

 牢獄の、部屋の空気が下に圧せられていく感覚。

 イシュルはその力に押されるようにして風を集め、自分自身を部屋の外へ投げ出した。

 ドドン、大きな音と激しい振動が来た。周りが茶色い煙に覆われる。

 からだには痛みも圧迫感もない。しかし自分が生きているのか確信が持てなかった。

 イシュルは横たわったまま風をこし、周りの埃を両脇の小部屋に押し込んでいく。

 からだを起こすと元いた部屋は大小の岩で覆われていた。足許に部屋の入口からこぼれ出た小石や割れた岩が散乱している。

「げほげほ」

 廊下の先の方では、イシュルに突き飛ばされたヴェルスが倒れている。そのさらに先には座り込み、口もとに手を当て咳き込んでいる男がふたり。

 茫然自失。

 イシュルは石で埋まった部屋に目を向けた。

 イシュルは無表情に部屋の入り口を覆う石の固まりを見つめた。

 イシュルはぼーっとした頭でぼんやりと考えた。

 メリリャ……。

 メリリャはこの中だ、この石の下に埋まってしまった。

 俺は彼女を助けられなかった。

 彼女は石の中。

 もう彼女の死に顔も見れず、遺体を弔うこともできない。

 俺は何もできなかった。

 かよわく、きれいで、素朴で純粋で、やさしくて、兄弟のように育ち、ずっと自分に好意を寄せてきた女の子。

 最後まで守らなければならなかった存在。

 イシュルは怒りに身を震わせ、立ち上がった。

 目の前に倒れかかってくるメリリャ。あの時、ヴェルスも肺を潰して、その場ですぐに殺してしまえば良かった。こいつも男爵と同じ、簡単には死なせないぞ、と思ってた。

 それが、こんな事に……。

 どいつもこいつも、ただでは済まさない。

「ヴェルス!!」

 イシュルはヴェルスの首根っこを掴むと持ち上げ乱暴に振った。

「おい起きろ」

 意識を失っていたのかヴェルスが目を開く。

「ひーっ、い、生きて」

 最後まで言わせず、イシュルはヴェルスを殴りつけた。

「がぁ」

 ヴェルスが石畳の床に頭を打ちつけ呻いた。

 釣り天井……、こんな恐ろしいものをこいつは用意していたのか。本当に危機一髪だった。おかげでメリリャは石の下だ。もうどうしようもない。

 ヴェルスはただ激情にかられてメリリャを刺しただけでなく、俺の注意を彼女に引きつけている間に部屋の外に出てしまおう、という計算もしていたのかもしれない。

 イシュルは風を集め出す。牢獄の入口から吹き込んできた風が、風音を立てて牢獄の奥にいるイシュルの周りに集まってくる。

 釣り天井の構造はおそらくそんなに複雑なものではなかったろう。

 上部にある、補強された本物の天井から鎖で吊り下げられ、その留め具を押さえていた可動式の別の留め具を動かせば、その留め具がはずて釣り天井が落下する……とかそんな感じのものだったろう。

 だが、こんな仕掛けはヴェルスが俺のことを知った二日間ではとても造れない。おそらく以前から別の目的があって用意していたのか、いや、むしろ昔から、ブリガール以前の領主の時代からあったものだろう。

 こういった仕掛けはどこの城にも少なからずあるものだ。過去の政争、世継ぎ争いなど何らかの謀略のために造られたもの。時が経つにしたがい知る者がいなくなり、領主でさえも知らない。それを何かでヴェルスは知ることができた、のかもしれない。

 ヴェルスはこの仕掛けを使って、男爵とメリリャ、あの槍を持った男たち、あの部屋にいたすべての関係者を一網打尽、皆殺しにしようとしていたのではないか。

 釣り天井の仕掛けがばれそうな物は処分し、周囲の部屋の壁も適当に壊せば、風の魔法具を持つ少年が暴れて男爵をはじめ多くの犠牲が出た、などと最もらしい理由はつけられる。

 石の下は遺体も含め滅茶苦茶、その時室内がどんな状況だったか、後から調べることはとてもできないだろう。

 イシュルはいつかの、ベルシュ村を見回りに来た騎士団の男にやったように、頭を抱え呻くヴェルスの四肢をひとつずつ潰していった。

「ひぎゃぁあああ」

「ひゃ、やめてくれぇ」

「がぁあああ」

「ううっ…」

 パン、パン、パン、パンと破裂音が四回起き、そのたびにヴェルスは全身を震わし、悲痛な叫び声を上げた。血肉が飛び散り、骨が砕けた。最後の方はもう叫ぶ気力がなくなり呻き声を上げるだけになった。

 そして恐れおののき、逃げようとするふたりの男たちの頭を吹き飛ばすと、イシュルはヴェルスに声をかけた。

「親父のところへ連れて行ってやる。急ぐぞ」

 釣り天井の崩落による振動と轟音が、収穫の宴の会場までどれくらいの大きさで響いたか気になる。この牢獄から宴の会場の間にはこの城の天守にあたる居館や塔があり、そこそこ離れてはいるが、あの会場まで振動も音も何も伝わらなかったとは考えにくい。男爵がなにか異常を感じて収穫の宴を中止してしまったら、観客がいなくなってしまう。こちらの考えた演出が片手落ちになる。

 イシュルは意識を朦朧とさせ、呻き声を上げるだけのヴェルスのえり首を掴むとそのまま引きずって牢獄の通路を出口へ歩き出した。

「うぐあああ」

 イシュルに引きずられ、切れかかった両足や腕がさらに強烈な痛みに襲われたのか、ヴェルスが絞り出すような叫び声を上げた。

「た、助けて…」

 痛みに呻吟しながらも時折懇願してくるヴェルスの声を、イシュルは何も聞こえなかったかのように無視した。

 階段を上る過程でヴェルスの苦痛は限界に達したのか、もう声も上げず、意識を喪失した状態になった。イシュルは全身に魔法のアシストをつけ、階段を早足で上っていった。


 イシュルは塔を出ると空を見上げ、城の上空に風を集め始めた。地上にも微風が吹きはじめる。雲の流れが早くなり、上弦の月を一瞬雲が覆った。辺りが急に暗くなった。その中を居館の方から騎士団の兵が十名ばかり、イシュルの方へ駆けてくる。やはり、先ほどの釣り天井の落下による音と振動が、かなり広範囲に伝わったのだろう。

 月が翳る中、パパン、と複数の破裂音がほとんど同時に響いた。イシュルはヴェルスを引きずり、音のした方、兵士らの方へ向かって歩いて行く。月を隠していた雲が動き、月の光が再び地上を照らすと、そこには、首から上をひしゃげた肉塊と化した男たちの異様な死体がころがっていた。

 イシュルは彼らに目もくれず前を進み、居館を周り込み、大きな樟の手前までくると身を屈め、前方の様子を観察した。

 木々の上に潜む射手らしき兵、手前に立つ衛兵に変化はない。彼らは会場を守るよう固く命令されているのだろう。木々の向こう側では人々のざわめく声が少し大きく響いていたが、やがてそのざわめきも落ち着き、途絶えていた弦楽器の演奏も再開された。

 なんとか大丈夫そうだな。男爵も街の有力者が集まる宴だ。急に終わらせたりしたくないだろう。今は本人も政治的に微妙な立場におかれている身だ。 

 イシュルはそのまま動かず、木々の手前に立つ衛兵を窒息させた。声も出させず、兵の倒れる音も空気の層を密にしてクッション代わりにし、抑え込んだ。

 そこでイシュルは立ち上がると勢いをつけて数歩踏み込み、風を吹かせてヴェルスを会場のど真ん中に投げつけた。

 風が吹き抜け木々がざわめく。死にかかったヴェルスは緩やかな放物線を描いて会場に吸い込まれて行く。

 その後を追うようにしてイシュルも飛んだ。

 イシュルは空中からヴェルスのからだを誘導し、会場の真ん中当たりにある丸テーブルの上に叩きつけた。白い布の掛けられたテーブルの上には料理やグラス類がぎっしりと置かれ、中央には赤や黄色の花々、おそらく金木犀やコスモス、それに類似する花だろう——が飾られていた。それらが折れ、割れて、周囲にはじけ飛んだ。

 会場の招待客から悲鳴が上がる。楽曲の演奏が止んだ。

 幸い会場は立食形式だったのか、招待客は木々の植えられた方に固まって、男爵らとは中央に並べられたテーブルを挟んで反対側におり、ヴェルスの落下に巻き込まれた者はいなかった。男爵家の者たちと招待客らが、中央の複数のテーブルを挟んで向かい合う形になっていた。男爵か騎士団長あたりが招待客に向かって、閉会の挨拶か何かを話す直前だったのかもしれない。

 イシュルは空中で、ヴェルスの落下で飛び散った皿やグラスの破片を顔の前で両腕をクロスさせて防ぎながら、ヴェルスを叩き付けたテーブルのすぐ隣のテーブルに降り立った。

 四肢のあらぬ方へ曲がったヴェルスの死体は、ふたつに折れたテーブルに挟まれ、白いテーブルクロスを下地にして折れて潰れた花々やこぼれ落ちた料理、そして己の血にまみれ、グロテスクで猥雑なオブジェと成り果てていた。

 テーブルの上に立ったイシュルの前には男爵がいる。その横にいる赤いドレスの女は男爵夫人か。奥にいた嫌味な口髭の騎士団長が男爵夫人と入れ替わるように前に出てくる。夫人は後ろの招待客が固まっている方へ脅えた感じで逃げていく。

 女子供はいい。だが男爵、おまえは絶対許さない。

 イシュルは男爵を睨みつけ叫んだ。

「ユリオ・ブリガール!」



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