ベルシュ村



 翌朝、日の出の頃までイシュルは街道を魔法のアシストをつけ走り通した。ほとんど休息も取らず、セニト村を素通りしシーノ男爵領の北辺あたりまで来た。昼は街道からやや離れ、雑木林の木陰で干し肉をかじり、マントに包まり睡眠を取った。

 疲れからなんとか眠ることはできたが、眠り自体は浅い。神経が研ぎすまされ、興奮している。

 心の中は両親のこと、弟のこと、ベルシュ村のこと、メリリャやイザーク、ファーロら村の人達、ブリガールのこと、昨日の魔法使いの女の子のこと、さまざまな恐れと怒りと不安とが渦を巻いていた。

 夕方まで幾度か目を醒しながら浅い睡眠を取り、また夜はアシストをつけて走り、それを繰り返して三日後にはオーヴェ伯爵領のオーフスに着いた。ここでイシュルは街中の宿に泊まった。

 心身の疲労は限界にきていた。この世界の農家に生まれ、足腰の強さ、からだの強さは前世の比ではない。魔法のアシストも短時間ならそれほど魔力を消費、つまり集中力を奪うものではない。途中、わずかな休息を取れば半日くらいはなんとかやれる。

 だが心に重荷をかかえ、その緊張感にまかせて己に鞭打つように四日間、夜間に走り続けたのはさすがにきつかった。自らの限界の先を垣間見た気がした。

 イシュルは宿屋で、朝から大陸で主流となっている蒸し風呂に入り、からだの汚れを落とすと個室をとり、久しぶりのベッドで死んだように眠った。夕方に一度起きて夕食を摂った後はまた眠り、翌朝は宿で水を貰い、オーフスの市で干し肉や少量の野菜を買い込み、服屋に寄って替えの服を買い足した。

 どうせ尋常な精神状態ではない。前後不覚になるくらいぎりぎりまで追い込んでそこで休息をとる。それもなるべく安全な環境で。

 こうでもしないとずるずると疲労を溜めていくことになる。ベルシュ村に着くころにはまともな状態ではなくなっているだろう。前世から積み重ねてきた経験から、イシュルは自分の心の弱さ、気質をそれなりに把握していた。 

 イシュルは買い物を終わらせるとそのまま街道に向かった。

 オーフス当たりではブリガール男爵家の者が街道を監視している可能性もあったが、イシュルには不審な者の気配は感じられなかった。


 オーフスからは東北に、やがてはセウタ村に至る小街道がある。幾つかの村落を経由すると、途中ひとの住まない森と湿地帯が混在する地形になり、そこから街道とは名ばかりの猟師道が続く。セウタの手前、南村からは道幅が広がり、再び街道と呼べるような道に戻る。

 イシュルはその道からベルシュ村に向かった。人家のない、森と湿地帯が続く猟師道に入ると、夜の行動を止め、日中に歩くことにした。この辺りの湿地帯では葦が多く群生し、その間を通っていく猟師道は木の板や丸太が杭で止めてあるだけの細い木道になる。ところどころ腐った、細い板を踏み抜かないよう注意して歩いていかねばならなかった。魔力をあまり使うわけにもいかない。周囲に人の住まないこの辺りの森では魔獣に遭遇する可能性が高く、魔力を使える状態を維持する必要があった。

 もうこの頃にはイシュルの気持ちも幾分か落ち着き、ただ無心に歩き続け、眠り、前に進むだけの境地、といえる状態になっていた。

 いくら考え、悩み、嘆こうとベルシュ村に着くまでは結局意味のないことなのだ。

 ただ、行く先には自分が考えることよりも、より大きな絶望が待っているかもしれない。その時に自分の心が潰れてしまわないよう、今から覚悟だけはしておく必要があった。

 途中、森の中で一度だけ、めずらしく十匹ほどのコボルトの群れに遭遇した。彼らが襲ってくる前に魔法で空気球を幾つかぶつけ、追い払った。

 夜は湿地を避け、森で睡眠を取った。危険性が高い、と感じた時は木に登り、マントを縄のようにして幹に巻き、からだに縛り付け木の枝の上で寝た。

 オーフスを出発して六日目、イシュルはセウタ村の南端、南村と呼ばれる集落の端に達した。

 村の手前で薮に隠れてしばらく休息し、道に人影の消えた夜にセウタ村に向かった。セウタ村にはルーシの実家があり、その実家か、叔父の家に家族が身を寄せている可能性もあったが、安易に立ち寄るのは危険だった。

 村を出入りする者を中心に、男爵家の小者が目を光らせている可能性がある。彼らは村の暇そうな老人や道端で遊んでいる子どもたちに小銭をばらまいて、村で不審な者を見たら知らせてくれ、などと網を張ったりする。こちらは村のすべての者を警戒しなければならなくなる。

 セウタの中心地区には男爵騎士団の屯所もある。そんなわけでイシュルは母方の実家には寄らずセウタ村の中心地区を避けて、周囲の畑や牧草地などを通って迂回し、ベルシュ村へと伸びる街道に入った。

 夜が明ける頃にはベルシュ村に到着、イシュルはもう身を隠そうとはせず、街道をそのまま村の中心部へと進んだ。男爵の手の者に会おうがもう知ったことではない。ここまで来れば村の様子を知るのが一番大切だ。もし見張りか何かに遭遇してもいくらでも逃げ切れるし、状況によっては殺してしまってもいい、とさえ思っていた。

 村に入いると、豊かに実った麦畑が、朝日に黄金色に光って視界いっぱいに広がっていた。誰も刈り取る者がいないのだ。道端、近くの地面に目をやると、雑草などもちらちらと生えてきている。男爵が村を襲っておそらくひと月ほど、近隣の村や野盗の類いが刈り取りに来てもおかしくない筈だが、その様子が窺えないところを見ると、男爵家の者による監視が今も行われていると見るべきだろう。

 村に入って遠方に見えはじめた家々は外観上、特に大きな変化は見られない。イシュルは、セヴィルの親戚の家はここら辺だったか、と当たりをつけた家に街道から一度離れ、行ってみることにした。

 街道から半里(五百長歩、約三百メートル)ほど歩き、一軒の農家に向かう。母屋は扉が壊れ、家の横に転がっていた。中に入るとそれほど荒らされた形跡はなく、金目のものも無くなってはいないようだ。家具や寝具類もそのままで、逃げ出した形跡もない。だが扉は壊れている。家の人々はいきなり連れ出されたのかもしれない。イシュルはそれほど詳しくは調べず、早々に街道に引き返した。問題は村の中心地区、広場とベルシュ家がどうなっているかだ。そして我が家が。

 先の方で小道となって消えてしまう街道を右に曲がり、村の広場の方へ向かう。ちょっと歩くとすぐに広場の木々の繁りが見えてきた。木々の幾つかが明らかに燃えて、枯れ木のようになっている。

 イシュルは歩を早めた。広場に着くとほとんどの家が全焼か半焼状態だった。火をつけられたのだ。広場の先に見えるベルシュ家の屋敷のひとつだけある塔も屋根が焼け落ち、石積みの壁も黒く染まっている。

 広場をそのまま素通りし、ベルシュ家に向かった。


 ベルシュ家の母屋はすかったり焼け落ちていた。残っているのは炭がついたと思われる黒ずんだ周囲の小さな城壁と、家の基礎部分の石積みの部分だけ。周りの木々も焼けこげ、枯れ木と化していた。

 ベルシュ家と広場の様子は無惨なものだった。ここで小さな戦争があったのだ。事後にはおそらく略奪があり、火がつけられた。

 周りに人の気配はない。まったくの無人でとても静かだった。

 イシュルは上半身に、頭に血が上ってくるのがわかった。

 ブリガールめ。やってくれたな。

 不安、微かな希望、恐れが崩れ去り、怒りにとってかわっていく、心のうちが怒りに染まっていくのが感じられた。

 イシュルは焼け落ちたベルシュ家を後にすると我が家に向かった。

 豊かに実った麦畑の中、毎日のように行き来したなじみ深い道を歩いていく。小さく見える我が家は燃えてはいないようだ。視線を右にやりメリリヤの家に目をやる。彼女の家も燃えてはいないが、人気がまったくないのは他の家と変わらない。

 走り出したい気持ちをぐっと堪え、村にいたころと同じペースで歩いて行く。大地を踏みしめて。


 森の方から風が吹いてきた。

 麦穂がさわさわと鳴り、マントの裾がはためく。

 麦畑をわたってくる風はしかし、懐かしい以前の風ではなかった。

 ひとの住む里に吹く風ではない。それは無人の山野に吹く風、ひとの匂いのしない風だった。

 いつの間にか、村に吹く風は以前と違ったものになっていた。

 イシュルは畑の中に立ちすくんだ。

 さきほどの怒りが風にかき消されていく。

 涙がその眸からこぼれ落ちた。

 凶報を聞き、村に着いて絶望を目にし、はじめて流す涙だった。

 いつも吹いていたあの風は戻らない。もう村は無くなってしまった。


 自分の家も扉が壊されていた。家の中も特に荒らされた形跡はない。もちろん家族の、人の気配はまったくない。懐かしさを味わうどころではなかった。消えた家族を想いイシュルは悄然と家から出てきた。

 家の裏にまわると、飼っていたニワトリもどきの姿も消えていた。

 ふと何かの気配を感じて川の方を見ると、淡い茶色のキジトラの猫が一匹、しっぽを上げて川の方へと小道を歩いていくのが見えた。

 あれはポーロの家で飼っていた猫だ。昔、ルセルと餌をやったこともある。誰もいなくなった村で、彼女だけが普段の生活を続けていたのか。

 イシュルはなんとなくその猫の後をついていった。

 イシュルのことをまったく気にもかけず、猫は川へ向かう小道を歩いて行く。

 猫はイシュルがはじめて風の魔法を試した廃屋を通り過ぎ、さらに奥へと進んでいく。

 猫は木々の繁る小道に入ってしばらくすると忽然とその姿を消した。道をそれてどこか薮の中に入っていったのか。たとえ視界から消えようと猫の動きなど感知できる筈なのに。

 イシュルは猫の消えたあたりまで来ると周りを見渡した。ふと、何かを感じて視線を下にやる。

 草むらに隠れて、白っぽいものが見え隠れしている。上から覗き込むと、動物か何かの骨だった。まだそれほど古いものではない。森の獣にでも荒らされたのか、周囲に薄汚れた骨が散乱している。視線を先にやると頭蓋骨がふたつあった。どちらも同じくらいの大きさだ。

 散乱している骨はひとの骨だった。

 頭蓋骨には乾燥して傷んだ髪の毛が少し残っている。周囲には引きちぎられ、傷んだ布切れのようなものもある。

 まさか。 

 イシュルは嫌な予感にとらわれ、跪くと白骨化した、おそらくふたり分の死体を調べはじめた。

 この状態では村の誰の遺体だかとてもわからない。

 何気に視線をさまよわせていると、手の、指の部分と思われる骨に目が止まった。その骨には指輪が嵌っていた。森の動物に荒らされたろうに、指輪はそのまま指の骨にひっかかって残っていた。指輪に嵌っていた石が無くなっている。指輪の爪がだけが残っていて……、いや。指輪の台座のデザインは、その指輪は彼女の、イシュルが村を出るときにお守りにと渡そうとしたルーシの指輪だった。


 イシュルは土くれを握りしめ、天を仰いだ。声にならない叫びを放つ。

 どうして、どうして…

 全身が硬直し、弛緩し、また硬直する。

 泣きながら声にならない呻きをもらし、イシュルはただひたすら誰かに、みんなに、すべてに謝り続けた。

 俺がレーネの魔法具を持っていなければ。

 俺が早く村を出ようなどと考えなければ。

 こざとく振る舞い、まわりに神童などと思わせたりしなければ。

 いや、もっともっと賢く慎重に振る舞えば、森の魔女に目をつけられることもなかった。村がこんなことになることはなかったのだ。

 俺のせいだ。

 すべて俺のせいだ。


 村ではじめて見つけたひとの死体。

 それは彼の母と、頭蓋骨の大きさからおそらくルセルのものだった。

 ベルシュ村に戻ってきたイシュルには最悪の結果が待っていた。


 彼はルーシの指から石の無くなった指輪をそっと抜き取ると握りしめた。

 イシュルは涙をふき、からだを起こすとふたりの遺体、草むらに散らばった骨を見つめた。

 遺体の状況からするとおそらく、川の方へ逃げようとするふたりをブリガールの手の者が追いつき、後ろから袈裟切りに背中を切りつけ、ふたりともそのまま横の草むらに倒れ込んだ、という感じになるだろうか。

 ルーシの指輪の石が無くなっていたということは、その指輪は少なくとも一度はふたりを危機から救ったのかもしれない。ルーシの指輪は一度だけの使い切りの、本当の魔法具だったのかもしれない。

 イシュルは一度家に戻ると父のマントを取ってきた。父のマントを風呂敷がわりにして、ふたりの骨を拾い集め包んだ。

 あのキジトラはどこに行ったのだろう。彼女は本当に生きていたんだろうか。いずれにしても彼女が母と弟の遺骸の在処を教えてくれたのは間違いないだろう。

 イシュルはやや大きな、ふたり分の遺骨が入った包みをぶら下げ、もう一度家に立ち寄ると鍬を持ち出してきて、村の広場の奥にある共同墓地に向かった。

 広場のやや奥、焼け焦げた木々の間に、壁面に少し汚れはあるものの以前と変わらず村の小さな神殿があった。青銅の扉は開いていたが、中も荒らされていないようだ。暗がりに神々の彫像がぼんやり見える。

 イシュルはそのまま神殿の横を通り過ぎ、村の墓地の方へ歩いて行った。

 イシュルはベルシュ家の墓の前まで来ると、鍬を振り上げ地面に穴を堀り、ルーシとルセルの骨を埋めた。一旦はおさまった感情が再び昂り、泣きながらふたりの遺体を埋めた。

 墓前では前世のように、両手を合わせてお祈りをした。

 父はどうしたろうか。

 なんとなく辺りを見回すと、墓地のはずれの方の草地に不自然な箇所がある。周囲と比べいくらか雑草がまばらで、地面に堅さがなく落ち着きがない。かなり広い面積で、最近掘り起こされたように見える。

 まさか…。

 イシュルはそこまで歩いていくと、再び鍬を振り上げ、地面を堀り始めた。

 地面をちょっと掘り起こしただけで、すぐに腐食した人の腕が出てきた。

 鋤の先に何か当たる感触があり、周りの土をどかすと、黒い土のついた、灰色と茶褐色の入り混じった腐った人の腕が出てきた。

 イシュルはすぐに土をもどした。もういい。充分だ。ここら一帯に、おそらく殺された村人の遺体がたくさん埋まっている……。

「おい、おまえ」

 突然、後ろから声をかけられた。

 振り向くとマントを羽織り、男爵騎士団の平騎士と思われる衣装に身をつつんだ、若い男が立っていた。

 心の平衡を失い、尋常な心持ちでなかったせいか、人が近づいてくるのにまったく気がつかなかった。

「何をしてるんだ?」

 男は薄ら笑いを浮かべながら剣を抜いた。

「おまえ、ベルシュ村の者だな」

 剣先をイシュルに向けてくる。

「……」

 イシュルも男の薄ら笑いに合わせるように、小さく笑みを浮かべた。 

 

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