1-8
クレセントは三日月状の建物で、その半分が学生寮、半分が校舎になっている。その東側、校舎側の一番はじっこにあるのが医務室。つまりスペンサーの仕事部屋だった。
医務室の前って、いつもツンとした薬品のにおいがする。消毒液かなんかのにおいだと思うんだけど、いかにも病人って感じのにおいがするんだよね。
「おーい、スペンサー。わたしだけどー」
ドアを二、三回ガシガシと叩いてやる。スペンサーは耳が悪いっていうか、集中すると他のことが見えなくなる人だから。これぐらいしないと気づいてくれない。
「いいね? 入るよー」
立て付けの悪いドアを開けて、医務室へ。薬のにおいがいっそう強くなる。入っただけで消毒槽に浸かった気分がした。
案の定、スペンサーのやつは机に向かって何か書き物をしていた。パソコンと辞書が転がるデスクの上で、カルテみたいなのを一心不乱に書き込んでいる。瓶の底みたいなメガネをあげたり下げたり、じーっと見つめたり、カリカリ万年筆を滑らせたりしながら。
よく見れば、それは筆記体のドイツ語だった。そういえばこいつ、いちおう医師免許持ってるんだった。
「ねえ、スペンサーってば。メリッサに言われてきたんだけど。仕事だって」
「ああ、ごめん。気づかなかったよ。ちょうどキミの経過報告を書いていたところでね」
と、スペンサーは使っていたペンを白衣の胸ポケットへ。
「まあ座ってくれよ。立ち話もなんだしね。お茶でも淹れようか。なにがいい?」
「紅茶がいい」
「よしきた。ちょっと待ってろ」
あたふたあたふた。
彼は白衣を翻しては、湯沸かし器のスイッチを入れたり切ったり、ティーポットを探したり、マグカップを探したり、大忙しだった。
そうしてやっとのことでできたのは、三角フラスコに注がれたミルクティーだった。
「ばかじゃないの? マグカップは?」
「しょうがないだろ。カップが見つからなかったんだ。まあ安心してくれ、ちゃんと洗ってあるから」
「そういう問題じゃないでしょ」
「なんだ。じゃあ、丸フラスコにするか?」
彼は右手に持った丸フラスコを見せた。中にはやっぱりミルクティーが注がれていた。
「よしとくよ。それで、仕事って?」
「メリッサから何も聞いてないのか?」
「うん、なにも」
「そうか……。じゃあ、どこから説明すればいいものやら。そうだね、とりあえず現状を確認しよう」
彼は紅茶を一口。わたしも一口。意外と味は悪くなかった。どことなく薬っぽい気がしたけど、たぶんプラセボ。そう信じたい。
「まずだけど。僕は今年を持ってキミの主治医ではなくなる可能性が出てきた」
「どういうこと?」
「
「なんで? じゃあ、わたしが受けてる実験は?」
「じきに終わるかもしれん。上層部の意向さ。……ほら、今週ぶんの薬だ。飲んでくれ」
スペンサーはそう言って、わたしにプラスチックのケースを渡してよこした。オレンジ色の容器には、『注意:劇薬』と危なっかしい文字とマークが踊っている。こんなの好き好んで飲むのは、きっとわたしぐらいしかいないだろう。別に飲んでハッピーになれるドラッグでもないし。むしろ最悪な副作用ばかりの薬だし。
わたしはそのうちの一錠を取り出すと、ほいっと口に入れて、紅茶で飲み下した。
「キミみたいなクラスBがクレセントに残されている理由は、言ってしまえば僕の実験の被検体だからだ。キミは重要なサンプルなのさ。だけどね、実はクレセントの上層部は、最近になって『キミをそこまでしてここにいさせる理由はないんじゃないか』って考えるようになったんだ。僕の実験も結果が出せてないし、キミはすこぶる成績不振だし。要するに、キミみたいな能なしは早く第一線から外して、研究も中止して、予算を他にまわせって。そういう話になってるらしいんだな」
「それ、わかっちゃいたけど実際に言われると地味に傷つくね」
「だよねー。だけど、僕はそう思っちゃいない。キミは重要な被験者だ。こんなところで終わらせたくない。だからメリッサに相談したんだ。そうしたら、キミにピッタリの仕事が見つかった。長期間の仕事で、特に難しくもない仕事がね。仕事があてがわれれば、そのあいだキミも放校処分になる心配はない。僕も貴重なサンプルをみすみす逃すこともなくなる。WIn-Winだろう?」
「なるほどね。だけど、その仕事ってコンペになるんでしょ?」
「ああ。上層部の政治的問題でね」
「どういうこと?」
「それはキミが知らなくてもいいことだ。ともかく、キミはもう一人の候補者と競い合うことになる。形式はまだ決まってないが、おそらく決闘になる予定だ」
「決闘って、古風だね。誰とするの?」
「エリスンさ」
――ああ、やっぱりか。
わたしは落胆しちゃった。整理すると、わたしはエリスンに勝てないと退学処分になるってことでしょ? そんなの無理に決まってるじゃん。
「ダメじゃん、それ。わたし退学決定。エリスンになんて勝てっこない」
「なにを言うんだ。キミには秘められたポテンシャルがある。そのために僕の実験に参加してるんだろう?」
「あんたの実験は、ぶっちゃけ実を結んでないけどね。唯一結果を残したとすれば、わたしのこの華奢で幼い身体だけ。そうでしょ?」
「まあたしかにそうだが……。でも、キミは絶対に勝つよ。そして、僕の被検体として来年もクレセントにいる」
「そうね。そうやってわたしはいつまでも『落第』し続けて、『留年』し続けてきたんだから。カラダもココロも十七歳のときのまんまさ。副作用で成長することもなく、ずっとこのまんま」
この身長も、顔も、おっぱいも、おしりも、ずっと十七歳のときのまま。わたしは成長もせず、ずっとこのクレセントに居続ける。いつまでも、ずっと。死ぬときまで……。
「わかったよ。エリスンと決闘すればいいんでしょ。底辺生なりにやってみるよ。勝てるかはわかんないけどさ」
「勝ってもらわないと僕が困る」
「だろうね。ちなみにだけどさ、その長期間に渡る仕事って言うのはなんなの?」
「護衛だ。日本にいる『とある少女』の護衛についてもらう」
「ふぅん、日本ね」
「そういえば、キミは日本人の血が流れていたね」
「ちょこっとだけね」
「ちょこっと? そうかな。前に一度検査したが、半分は日本人の遺伝子が混じっていた。その黒髪や、ほのかに黄ばんだ肌は日本人のものだ。もう半分はアングロサクソンだったがね。おそらく英国人。茶色い瞳はその遺伝だろう」
「くまなく調べてるね。正直気持ち悪い」
「それが僕の仕事だからね」
スペンサーはそういって、ガチャガチャの歯を見せてはにかんだ。正直、笑えなかったけど。
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