二章 6
*
そのころ、ワレスはカナリーの部屋にいた。
まだ体が熱い。
激情の去ったばかりの心地よい、けだるさのなか。
ワレスが立ちあがろうとすると、カナリーがすがりついてきた。
「待って。もう少し、ここにいて。あなたを感じていたいの」
まあ、それもいいだろう。
いささか乱暴にあつかったので、少しは優しくしてやらなければ、かわいそうだ。
ワレスはカナリーのやわらかな肌の上に、自分のつけた歯形を指でなぞった。
「商売物に傷をつけて、悪かった」
「いいの。ぼくが、あなたに殺されたかったんだもの」
カナリーはまだ興奮しているのか、泣きながら言った。
「このまま、あなたを誰にも渡したくない」
「おまえも可愛かった」
「嘘」
「ほんとだ」
「それじゃ、また来てくれる?」
涙にうるんだ瞳に見つめられて、ワレスは苦笑した。
「商売上手だな」
「やめてよ! そんなんじゃない!」
カナリーはワアワア泣いて枕に顔をふせる。
ワレスはジゴロをしていたころ、いつも貴婦人たちにおぼえていた劣等感を思いだした。
「……すまない」
誰だって、好きでこんなことをしているわけではない。カナリーにだって深い事情があるだろう。
「カナリー。砦の兵士にとって、おまえたちがどれだけ大切な存在か、わかるよな? おまえの笑顔を見るだけで救われている者も、きっといるはずだ」
綿毛のようなカナリーの髪をなでると、少し泣き声がおさまってきた。
「恋人は?」とたずねると、ちょっと鼻をぐずつかせて、カナリーは答える。
「そんなの、いない。最初はいたけど、三人めが死んだとき、恋人は作らないことにしたんだ」
「死なれると悲しいからか」
それでも、人は人を好きになってしまうものだ。
「その三人は幸せだったろう。おまえのことを思いながら死ねた」
恋人を残して死にたくはなかっただろうが、それでも、なんの思い出もないよりはいい。
おれだって、ハシェドのことを思って死ねば、それほど不幸せではない。最期に思いだすのは、ハシェドの笑顔であってほしい。
「ねえ」
カナリーが言った。
「あなたが恋人になってくれる?」
「おれが?」
「あなたなら、すぐに死なないでしょ?」
「おれには想い人が——」
「砦にいるあいだだけでいいから」
「待ってくれ。エミールに叱られる」
カナリーは意外なことを言いだした。
「あなた、エミールに弱みをにぎられてるんでしょ?」
黙りこんだワレスを見て微笑する。
「あのことをバラしてやるって言ってるの、聞こえちゃった。おどされてるんだね」
「たいしたことじゃない」
「ほんとに?」
「昼間、立ち聞きしてたのなら、これも聞いたんだろう? おれがベッドにひきずりこんだことを、友人の許嫁に告げると言われたんだ。おれをふった男がどんな修羅場を演じようと、いっこうにかまわないんだが……まあ、おれにも良心があったんだな。破談にさせるのは、さすがに、ちょっと。どうせ、おれも砦にいるあいだの相手が欲しかったしな」
ハシェドのことを知られるわけにはいかないから、嘘をついてごまかす。カナリーは信じたようだ。
「それで、エミールに頭があがらないんだね。いいよ。僕、それならもう、エミールとはりあって、あなたを困らせたりしない。そのかわり、ときどき、こんなふうに僕に会って。お金はいらないよ」
「おどされていることをバラされないために? それも一種の脅迫だな」
ワレスはカナリーにくちづけて、衣服を身につけた。
カナリーが不安げに見あげている。
「僕のこと、嫌いになった?」
「いや。おまえも、エミールも羨ましい。自分の気持ちに正直だ」
「ねえ、今夜は泊まっていかない?」
「これでも小隊長だからな。万一のとき、指示ができないのは困る」
「僕、一人で寝るのは怖いよ」
「なら、おれの部屋に来い」
「いいの?」
「ああ」
カナリーは嬉しそうに仕度を始める。
そのとき、ワレスは悲鳴のようなものを聞いた。
「どうしたの?」というカナリーに、しッと動作で示し、扉をあける。
ロウソクの明かり一つの室内を出ると、外は暗い廊下。
昼間はひとけの絶えない食堂付近も、深夜には無人だ。壁にかけられたタイマツだけが、ぽつり、ぽつりと闇に浮かんでいる。長い廊下は、あの世に続く黄泉路にも見えた。
廊下の端に、ふいに男がころがり出てくる。腰をぬかしているのか、逃げだそうとしているが、うまくいかないようだ。
「ねえ、いったい……」
顔を出すカナリーに、
「部屋から出るな」
言いすてて、ワレスは走りだした。
まがりかどに男は倒れていた。ワレスを見て、ふるえる手で、まがりかどのさきを指す。その指の示すさきを見て、ワレスは
(リリア——)
長いプラチナブロンド。
さみしげな瞳の美しい女。
リリアが壁に吸われていくところだった。
(バカな。なぜ、今になって、おまえが……)
ぼうぜんとしているうちに、リリアの姿は壁に消えた。
変な消えかただ。
まるで、壁に小さな穴があり、そのなかへ吸いこまれていくように、姿がゆがみ、小さくなって消えた。
亡霊の消えかたにしては、いやに生々しい。
なんとなく、ワレスはそれに違和感をおぼえた。
腰をぬかしたまま、兵士がつぶやく。
「な、なかまが……仲間が一人……」
ガチガチ歯を鳴らして、ふるえている。
ワレスはその両肩をつかんだ。
「しっかりしろ。何があったか、ハッキリ言ってみろ」
「は……はい」
兵士は少し落ちつきをとりもどした。
「はい。さきほど巡回中に、女が廊下に立っていました。城の女官かと思いました。危険なので、すぐに自室へ帰るようすすめて……すると、とつぜん、女の腕が……」
その場面を思いだすように、くちごもる兵士を、ワレスは励ます。
「腕がどうした?」
「は、はい。腕が蛇のように伸びてきて、ヘイスを……」
「壁に引きこんだのだな?」
「はい」
「わかった。おまえの所属と名前は?」
「第四大隊、サムウェイ小隊のコルトであります」
「サムウェイ小隊のコルトだな。さきほど述べたことを、おまえの隊長に報告するがいい。今夜はこのあたりの警戒を強めるのだな」
「はい!」
ワレスと同じ第四大隊でも、サムウェイという小隊長とは面識がない。傭兵ではなく、正規隊なのだろう。
そこへ、まがりかどのむこうから、別の兵士が数名かけつけてきた。
「悲鳴が聞こえたが、何事だ?」
「コルトじゃないか。どうした?」
もう心配はなさそうだ。
ワレスはリリアが消えた壁をながめた。
ちょうど目の高さで、ぼんやりと丸く壁が光っていた。
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