我思う故に我あり ――デカルト (2)
覚悟などとうに決めていたはずだった。
開演五分前。舞台裏はすでに人影がまばらになっている。じっとりと蒸す陽気の中、皮膚に薄くかいた汗がまとわりつく。
隙間から伺えるステージの前では、待ちかねたように人の群れが取り囲んでいた。その中には出番を待つ出演者も居たが、客寄せに使った人間の影響もあるのか、それとも群れに引き寄せられたのか、あれほどがらんとしていた広場は、中ほどまで人で満たされつつあった。スピーカーから流れる彼の曲に、誰もが静かに耳を傾けている。その中に、浮足立った熱が充満している。
立川にはそれが、喉元まで押し寄せる圧迫感のように感じた。SNSの投稿についた通知が、彼女の拡散を機に、追いきれないほど増えていく。電子署名の数も着々と増える。首尾は上々のはず。果たすべき目的がある。多くの人間からの衆目を浴びようとすることは、彼自身も望んだもののはずだった。
彼を戸惑わせたのは、自身の矛盾だけではなかった。掴みどころのない嫌な予感がしていた。その上立川は、紛れもなく慄いていた。バンドで歌うのとは違う、誰にも分かち合えない緊張が、骨の髄まで彼を蝕んでいた。これからたった一人で舞台に立ち、時間を稼がなければならない。
時の刻みが嫌に遅く感じる。あと四分。
父親が死んで、立川は一度、世界から光を無くした。立川は落伍者だった。世界の正しい摂理の中に交わることのできない異物だった。
彼とってタカトは光明だった。神聖だった。彼自身を取り込んでしまいそうなほど強い光だった。だから一度は逃れようとした。忌避すればするほどくっきり、その存在が感じられ、どこまでも絡みついてきた。いつか向き合うしかないのだと悟った。改めて対峙した羽山タカトの存在は、嫌になるほど眩しかった。
こめかみがじんと痺れる。これは罪悪感だ。自分がタカトの歌を歌う事が、神を
あの人のようになりたかった。手を伸ばせば伸ばすほど遠くて、届くどころか掠りもしない。実際にどうなのかは、誰の定規で測ってもそうなのかは、わからない。けれど立川の中で、それは決定的だった。
喉が渇いて仕方なかった。水を飲もうとして、ペットボトルが手の震えを伝播した。一度緊張を自覚するとますますやられそうだった。ウォーミングアップはしたが、喉はきちんと温まっただろうか。もしまた急に声が出なくなったら。手が無意識に祈るような形を作る。
立川、と不意に日野に呼びかけられた。
「大丈夫だから」
うん、と立川は短く頷いた。鼓舞にしてはいささか冷淡な言い方は、日野なりの祈りなのだろう。頑張れという言葉を使わないのが彼らしかった。
ブザーが鳴る。「ご来場の皆様へご連絡申し上げます」アナウンスがスピーカーから流れ、浮足立ったさざめきはいっそう膨らむ。
階段に足をかけた刹那、立川は背後を振り向いた。
「頼みがあるんだ、ヒノちゃん」
時計は残り一分を指していた。
ステージの上には魔物がいる。気を抜いたら、こちらを喰ってしまう何かが。
立川は階段を上る。舞台の上に降り立った途端、幾百の視線が彼に向いた。シールドの繋がれたギターを取り、ストラップをかける。チューニングを確かめるためにひとつ、鳴らす。大丈夫だ。何の問題もない。
マイクの前に立つ。
敷き詰められた人々の両目。脚立に支えられたカメラのレンズ。スマートフォン。期待と、不安と、縋るような眼差し。集積されたプレッシャーが、彼ひとりの肩にのしかかる。
目。目。目。どこを見ても目しか映らなかった。それがはっきりと恐ろしい。こんなことは初めてだった。全身が誰かの視線に晒される。暴かれる。
夥しい人数のひとりひとりが、確かに人の形をしている。全身を刺す眼差し。どうしようもなく、足がすくみそうになる。喉の際で心臓が鳴っていた。
父親の――羽山タカトの背負っていたものは、まさしく、これだったのだ。
息の詰まるような静寂。舞台の上、たった一人で、立川は人の漣を前に立っている。
水を持ってくるのを忘れたと、今更になって気がつく。まさか引き返すわけにもいかない。一歩前に出る。群衆がはっと息を呑む。弦に手をかけ、前奏を始めようとしたところで、指がぴくりとも動かせなかった。
前奏の最初の一音が、あれほど身体に鮮明に馴染んでいたフレーズが、どこからも出てこない。
急くような無数の眼差しに晒されながら、どうにかしなければいけないと思うのに、頭が真っ白になっていく。人々の目が怪訝そうな色に変わっていく。
どうする。どうすればいい。マイクを前に硬直しながら、どうしようもなく肩が強張る。
腹を決め、迷いを断ち切るように、立川は息を吸う。
彼の声がマイクを通った瞬間、空間が震えた、と瑠璃は思った。
聞こえたのは歌声だけ。その声が、ワンフレーズごとに、短い抑揚をつけて、揺れる。空気が波打つ。水面にひとつ投じられた石が、波紋を広げていくように。
奥行きの深い低音が、肌をびりびりと撫でる。言葉のひとつひとつが、確認に確認を重ねるように、丁寧に紡がれていく。緊張のせいだろうか、最初は固かった声が、少しずつしなやかさを取り戻す。
殴り打つようなロングトーンとビブラート。その力強さは彼の意志の強さを思わせた。反面、息継ぎは驚くほど繊細だった。独特のざらつきが心を引っかく。強さと脆弱さのどちらも併せ持った彼の歌声は、荒々しいと同時にどこか切ない。
フレーズを細かに区切りながら、Aメロの前半部分が終わった。
残滓が消える。
途端、彼の手がギターに叩きつけられる。リズミカルなパーカッション。指先で弾かれる弦と、コードの音。ハーモニクス。絶え間なく動く指先が、空間を多彩に色づけていく。
続いてAメロの後半部分。ここまで来て、瑠璃はやっと思い出した。
――『真』だ。
雰囲気が違うから今まで気づかなかった。この曲は『真』だ。タカトが初めてメディアで披露した曲。では彼がこれからやろうとしているのは、『真』『善』『美』の三部作か。
複雑な伴奏に歌が乗る。輪郭は全くぼやけないで、むしろ力強く、叩きつける。岩場に打ちつけ、白く砕かれる波のよう。
打ちのめされていた人々が、ギターの音に合わせ、少しずつ手拍子をし始める。
人々は食い入るようにステージを見ている。視界で不意にきらりと何かが光った。見ると、彼を臨みながら泣いている女の人がいた。中年期を少し過ぎたくらいで、傍らに小学生くらいの男の子がいた。「まさかもう一度見られるなんて」きょとんとした男の子の肩に手をやり、女がひとりごちる。神の奇跡を喜ぶように。
一度走り出すと、走り切るまではあっという間だった。
最後の一音を吐ききり、立川はマイクから口を離す。こめかみから汗が流れ落ちる。
無音。辺りは水を打ったように静かだ。拍手も、歓声も聞こえない。一秒が何倍にも長く感じる。
忘れかけていた緊張が、首の筋肉をぎゅっと固くする。
何かを待つようないくつもの目が、じっとこちらを仰ぎ見ていた。
立川は再びマイクに顔を寄せる。
「……ありがとうございます」
その声を皮切りに、堰を切ったように拍手が溢れた。音が蘇る。彼らを沈黙させていたのが拒絶ではなかったことに、立川は小さく安堵する。俺はこんなに憶病だっただろうかと、今更のように思った。
「主催の立川陽介です。今日はどうぞよろしく」
マイクにはいつも通り声が通っていく。恭しく礼をすると、もう一度、大きく拍手が起こった。天井のない広場に、音はどこまでも高くふくらんで、昇る。
「彼女はちゃんと後に控えてるからご心配なく。俺はそれまでの前座みたいなもん。俺はサプライズが好きでね。開会の挨拶に変えて、あと二曲ほど、お付き合い願いたい」
声にはすっかり元の調子が戻っていた。どうやら魔物には喰われずに済んだらしい。
立川はギターを爪弾く。語りのBGMに、幾つかコードを引きならす。
本来のトップバッターは、どうやらもうすぐ到着するらしい。インカムから入った報告に、立川はそっと安堵した。彼女のために時間を稼ぐ役目は、十分に果たせていそうだ。
「羽山タカト追悼ライブ――という名目ではあるけれど、今回のライブは、色んなことを考えるきっかけにしてもらいたいと、俺は思っています。
――さて、お集まりの皆様がた。音楽は好きですか?」
立川の問う声に、少しの間の後、応える声がある。だよな、と立川は小さく笑う。こんな場所まで足を運ぶような御仁だ。
「じゃあ訊くけど、小説は? 映画は? 漫画は? ゲームは? 演劇はどう? では写真や絵は? アニメが好きな人だっているし、毎週のドラマが楽しみな人もいるよな。他にも色々。それぞれが自分にとっての宝物を、聖域を持っているんじゃないかと思う。それは本来誰にも侵せないもので、自分の中で大事に大事に守っていることで、逆に自分を守ってくれたり、力をくれたりする。そうだよな。
それが奪われてしまうことを、一度でも考えたことはある?」
あたりはしんと静まり返る。手慰みにひとつ、コードを鳴らす。
「音楽はここ十何年と締め付けに遭ってきた。タカトはそのために戦って、その最中で死んだ。
『不道徳だから』『不埒だから』『青少年に悪影響があるから』『政治的に正しくないから』そんな風にジャッジをされて、結果的に規制は留まるところを知らなかった。そして“文化倫理法”――
俺たちは今、音楽にはめられていた手枷足枷が、あらゆるものに拡大される瀬戸際にいる。それは創作物かもしれないし、もしかしたら俺たち自身かもしれない。
だがお上が決めたから諦めるしかないのか? そんなことはないはずだ。俺たちにはまだ、自由に動く手足がある。自由にものを考えられる脳ミソがある。無名の人間たちの抵抗は、今まで十分に歴史を変えてきたんだ。違うかい」
人々の浮かべる思い思いの反応が、一つのどよめきになって会場に揺蕩う。
「大それたことをしてほしいわけじゃない。あんたらには、タカトを、ロックを無謀にも復活させようとした俺たちの顛末を、ただ見届けてほしい。
そして少しだけ、考えてほしい。直接腹を満たせるわけじゃない“娯楽”や“芸術”のある意味とは何だ? 連中の掲げてきた『正しい音楽』とは何だ? 本当の正しさとは、正義とは、善とは何だろうか?」
このフリで、何人かが感づいたらしい。立川はにやりと笑い、息を吸う。
「では次の曲に行こう。――『善』」
「お前は見に行かなくてよかったのか」
別室でアンプを覗き込みながら、柳沢は日野に尋ねた。電源が足りないのと、日照りや地面の湿気で機材がやられてはかなわないというので、点検の必要があるものは建物の中に入れていた。
「あいつならうまくやるでしょう。それより頼まれごとを引き受けたので。行けば分かる、と」
「そりゃあいつ、オレに説明をぶん投げやがったな」
柳沢は忌々しげに言い、「ちょっと来てみろ」と日野を手招いた。
「アンプの不調はたいしたことじゃない。二つとも断線だ。外から見える位置の一番目立つ線がぶっつり切れてた。誰かがニッパーかなんかでばちんとやったような塩梅だ」
「……では、誰かが意図的に細工をした?」
「だろうな。修復はそれほど面倒じゃないのはありがたいが。あいつらもそう簡単に事を進ませちゃくれないってことだろう。なんでも昼間に財布がなくなったって?」
日野は渋面を作る。あとあと確認したところ、他にも数人財布が鞄からなくなっていたことがわかり、ちょっとした騒ぎになった。
「内部犯ってセンもなくはないが、何者かの手が入っている可能性が高い。だから陽介は、お前をここに寄越したんだ。そうだろ?」
「おそらく。機材から目を離さないでほしいと言われたので」
そうか、と呟いた柳沢は、少しして、ハッと顔を上げる。
「……違う、隣だ」
「隣?」
修理をしているこの教室の隣は、出演を待つ者たちの楽器置き場になっている。ケースが雑然と詰め込まれているほかは、余った小物類や機材の入っていた空き箱があるくらいだ。
「奴らが何をしでかそうとしてるのかはわからないが。――オレならギターに細工をするね」
ではアンプの件は陽動か。日野は表情を硬くする。
念のためもう一人呼んでおいた方がいいだろうな、と彼は言った。
渋木は客席から少し離れたところで、ステージの上を見ていた。たった一人とギター一本で、あれほどの人を空間ごと一呑みしてしまう立川に驚いていた。
「すごいなあ」
横で李音がひとりごちる。単語帳を持っていた手が、ぴたりと止まっている。
開演の少し前。久しぶりに李音と再会した渋木は、人ごみの端っこで、お互いの近況を報告し合っていた。ホームでの日常はつつがなく遅れているらしい。李音はちゃんと元気そうだった。大学は他県の国立を受けるつもりだと言った。前期と後期で一つずつ。「もし受かったら北陸だから、遠くなっちゃうね」「蓮ちゃんが寂しくて泣いちゃったらどーしよ」冗談めかして笑いながらも、目尻は少し寂しそうだった。
「蓮ちゃん、ポケット光ってるよ」
李音に指摘され、渋木はポケットからスマートフォンを取り出す。日野から呼び出しが来ていた。機材部屋に来てほしい、という。
その旨を李音に伝え、立ち去ろうとすると、「ぼくも一緒に行ってもいい?」と呼び止められた。
「なんだか嫌な予感がするんだ」
余興の最後の一曲も、間もなく終わろうとしていた。
これは本物の決別だ、と立川は思った。顎から落ちた汗が胸の中に滑り込んでいく。太陽がちょうど目線の高さにあって、光線が容赦なく彼の目を焼いた。
このライブを終えたら、俺は本当に、彼の喪失を正面から受け止めることになるのだろう。
――なあ、
空に向かって吠える。髪が顔に纏わりつく。向かい風が草々を揺らした。コンクリートと草いきれの混ざった、湿った匂いがした。金属を通った反響音。喉に銀色の雫が落ちる。
――お前に譲れないものはあるか?
お前にはあったのか、タカト。あんたの美学もくどくどした蘊蓄も嫌というほど聞いたけどさ、大人になった俺とあんたで一回話してみたかったよ。真実について。正義について。愛について。色んなことを話してみたかった。
声に感情がぐちゃぐちゃと混ざった。最後の一音だけ、声は操縦を失いかけて、震えた。情けない。最後の最後でやらかした、と立川は思った。失敗だ。せっかく上手く行っていたのに。こんなんじゃまるで締まらない。
けれど拍手は今までで一番大きかった。立川は誤魔化すように顔を拭って、言葉を出すこともできずに、ひとつ礼をした。それから彼は、わざとらしく口の端を上げた。情けないツラをこれ以上見せるわけにもいかない。
立川が舞台袖に引き下がるまで、拍手は絶え間なく降り注いだ。階段を下りてやっと、嵐のようだったそれが止んだ。「すごかったです」と後輩。ありがと、と立川は涼しげに返す。後輩の傍らで、キーボードをケースごと背負った女が一人、まっすぐに彼を見ている。
「遅くなってごめん」「もう出れる?」「うん、大丈夫」
白々しく最低限の会話だけを済ませ、立川はそのまま立ち去ろうとする。
「陽くん」
一瞬の逡巡の末、立川は彼女を振り向いた。
トーリは凛とした眼差しを崩さなかった。弱々しい女の子だった藤里ではなく、音楽家としてのトーリが、しゃんと背筋を伸ばして立っている。
「――わたしはわたしの歌を歌うよ」
「おう」
頼んだぜ、と彼はひらひらと手を振った。やがて、遠ざかっていく立川の足音と同時に、仮設ステージの階段を踏む音がする。会場はさっきよりもずっとずっと大きい熱狂と拍手に呑まれていく。
畜生、まだ遠いな。けどそうじゃなきゃ困る。立川は悔しげに、けれど清々しげに、ひとつ石を蹴る。
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