トラック13
我思う故に我あり ――デカルト (1)
大学に併設されたグラウンドの中央。設えられたステージは、思っていたよりもずっと大きい。
身のすくむような思いで、瑠璃はしげしげとステージを眺めた。ステージ上では大きな壁画をバックに、ドラムやアンプ類のセッティング中。ステージの横には舞台上を映すスクリーンが準備されている。大掛かりなことだ。
周囲では刻々と準備が進んでいる。力仕事に駆り出されるのは男ばかりではなく、演者の中では少数派の女も、照明機材やらコードリールやらを手に動き回っている。小物の一杯に入った箱を両手で抱えながら、瑠璃も芝生をさくさくと踏みしめる。暑さはピークを過ぎたが、西日になり始めた日差しは、まだじりじりと熱い。
両手が塞がっているせいで汗も拭えない。ライブが始まるのは午後五時。午前中の早い時間から作業が始まって、ようやくひと段落付き始めている。
瑠璃は憎々しい気持ちでPAのところへと向かう。音響調節のためのミキサーが置かれたテントの中は、日陰というだけあって幾ばくか涼しい。瑠璃は配線に勤しんでいた修二へと声をかける。本当なら目も合わせたくないが、ぐっと感情を飲みこむ。
「これ、どこに置けばいい?」
その辺置いといて、と言われるがまま、パイプ椅子の上に段ボール箱を置いた。テントを出ようとしたら、「瑠璃おまえ、本当うまくやったよな」と投げつけるように言われた。何を言いたいのやら。皮肉だということだけはわかったが、瑠璃は無反応を貫き、芝生を横切っていく。
院進して大学にとどまった修二だけでなく、就職したはずの直樹のほうも助っ人として照明周りの仕事に駆り出されている。二人とも、「ミサ」では裏方として成立初期から関わっていたらしい。特に修二はPAの要だった。聞けば、今回のライブの交渉も、表向きは彼が主として行っていたという話だ。
裏方あってのライブだ。演者だけでは成り立たない。それをわかっているから、いちいち突っかかるような真似もしなかった。
とはいえ、準備するものの多さには辟易させられる。どれだけ機材を運んだだろうか。専門知識がない瑠璃は、立川に言われるがまま、あちこちにパイプ椅子を運んだり、コードを踏まれないよう目隠ししたり、細々とした作業に徹した。
その中で、ステージとは対岸のグラウンドの縁に、屋台のようなものが建てられているのに気がつく。奇妙に思い、瑠璃は通りがかりの立川を捕まえた。「あれ、どうしたんですか?」
「ん? 客寄せ。人間って案外単純だからさ、いい匂いがすると近寄りたくなるもんでしょ? あの辺は通りにも近いし」
今日もこの人は剥き出しの本能のままに生きているらしい。
「なんだかお祭りみたいですね」
たこ焼きに串焼き、クレープ、かき氷、タピオカ――追悼ライブという割には、随分と浮かれている。むしろ不謹慎な気さえする。が、とうの立川は「まあ、実際お祭りだし」と全く悪びれない。
「だって
「……あれは四月じゃありませんでしたっけ」
「細かいコトはいいんだって」
悪戯を企む子どもみたいに、立川はにやりと歯を見せた。立川さあん、と誰かが呼ぶ声。
「ひと段落したら休憩していていいよ」という台詞を残し、立川は去っていく。
細々とした調整を繰り返す人たちを見ながら、瑠璃はどこか後ろめたい気持ちで、ステージ裏のテントへと戻った。人影はまばら。機材が雑多に置かれていたのも、今は整然としている。
夏場の野外だ。一応大学構内にも控室を取ってあるが、準備をしている人を残して一人で涼むのも忍びない。ステージ上ではちょうどドラムの音取りをしていたことも、余計に罪悪感を掻きたてた。気持ちいいほどよく響く、スネアの音。渋木の音だ、とすぐにわかる。
その時、テントの下で話していた女の二人組が、瑠璃を見るなりはたと会話を止めた。
嫌な間だった。吟味するような眼差し。一度、立川に焚きつけられてバンドを組んだことのある面子だ。
「……何ですか」
思わず声が険のあるものになる。「何その顔、怖いんですけど」と忍び笑い。なんだか嫌な感じだ。決起会の時にも、似たような眼差しを受けた記憶がある。
「いや、瑠璃ちゃんもうまくやったなー、と思って」
既視感のある台詞だった。ついさっき、修二にも同じことを言われたと、瑠璃は思い出す。
「何のことでしょう」
「別に? 立川さん立川さんって露骨にベタベタしてるから、すごいなあって思っただけで。全然気にしないで、それが悪いとか言いたいわけじゃなくて、うちら、ただびっくりしただけだから」
「そうそう、純粋にすごいなーと思って。大胆だなって」
極力マイナスの語彙を使わないで相手を逆撫でる言い回し。貶めることにならないギリギリのラインを、彼女たちはよく見極めている。
「まあ、立川さんだもんね。なりふり構わなくなる気持ちもわかるっていうか」
「でも男三人に女ひとりって、すごいよね。お飾り扱いされてよくやれるよねって思っちゃう。私なら絶対無理だな」
「そこもなんかあざといっていうかね。あ、いい意味だよ? 勘違いしないでね」
私なんでもストレートに言っちゃうとこあって、傷ついちゃったらごめんねー。言い訳にもならない言葉と、半笑い。
ああ、そういうの、ね。瑠璃は心中で溜息をつく。立川と一緒のバンドにいる女だというだけで、何かと勘繰られるのはつきものだ。別の人から、立川と寝たのかと、もっと露骨に訊かれたこともある。彼ら彼女らの下衆な勘繰りは、半分は正解なのだから瑠璃も据わりが悪い。
ただ――
「……立川さんは、お飾りとか、そういうのでバンドメンバーを選ぶような人ですかね?」
「なにー? 自分に実力があったから選ばれたってこと? すっごい自信」
「本番になればはっきりするんじゃないですか?」
瑠璃はにっこりと笑みを浮かべた。この手の連中の前では、怒ったら負けだ。言質を取れるほど露骨なことは言われないだけに、「急にキレだした」というレッテルを貼られかねない。
ただ、ますます失敗できなくなってしまったのも確実だった。見くびられればいい笑いものだ。
「楽しみにしてるねー」
二人組は目配せをしあって、またくすくすと声をたてた。
いつの間にか両者は衆目に晒されていた。瑠璃がそれらを断ち切るように、イヤホンをはめようとした時。
「おい、俺の財布盗ったの誰だよ」と、突如として男が喚いた。
鞄を詰め所に置いたままトイレに行ったら、鞄から財布だけが忽然と消えていたらしい。落としたんじゃないのと尋ねる声も、そんな不用心なことをするからという声も、「そんなはずはない」「不用心だったら盗ってもいいってのか」と、火に油を注ぐばかりだった。男は明らかに冷静さを欠いていた。一度盗られたと思うと、先入観が凝り固まって、それ以外考えられない、といった様子だ。
騒ぐ声を聞きつけて、テントに人が集まり始める。その中には、上でドラムの調節をしていたドラマーたちと、立川の姿もあった。
渋木の姿を見るなり、男は「お前だろっ」と指をさした。あまりにも理不尽な物言いに、当の渋木は何が起こったのかわからず、ただただ困惑している。
「とぼけんなよ、お前掃き溜めの人間だろうが。お前らが貧乏なのは知ってんだよ」
今でも飛び掛からんとする勢い。「くせえんだよドブネズミが」
「まあまあ、落ち着けって。一体どーしたの?」
「あいつが俺の財布を盗んだんだよ!」
「えっ!?」急に罪を着せられ、渋木は反発する。「そんなことしてないッスよ!」
「だったら証拠見せてみろよ」と男はいきり立つ。渋木は持ち物をすべて明かすことで身の潔白を示そうとしたが、今度は「どこかに隠してるんだろ」と言いがかりをつけられる始末。「だったらやってない証拠を示せよ」と、悪魔の証明まで要求される。
「渋木くんじゃないよ」と口を挟んだのは、ドラム隊の一人だった。「今日は最初からドラムのセッティングで一緒だったし、その後もさっきまでずっと音取りしてた。その間、彼はひとりになってないはずだよ」追従するように、残りのドラム隊も頷く。
「じゃあ誰かと協力したんじゃねーのかよ」そう言って男は、今度は立川を見る。
「いつも掃き溜めの連中とつるんでるこいつも怪しいんじゃねえの?」
「主宰者がそんなリスキーなことしないでしょフツー。俺の周り、ほとんど常に誰かいたし」
犯人捜しは、その一言で暗礁に乗り上げる。そもそもテントの下は機材置き場だったのだから、たくさんの人間が出入りしている。誰でも犯人候補になり得るし、そもそも寄せ集めのメンバーで、互いに面識のなかった人も多くいるのだ。誰かが混ざり込んでいても一見してわからない。
「まあ、とにかく貴重品は肌身離さず持っといた方がいいな」
立川がそう総括したとき、別の方向から彼を呼ぶ声がした。修二の近くで動き回っていた大学生の男が、血相を変えてこちらに走ってくる。
「アンプの調子が悪いみたいんなんです。昨日確認した時は大丈夫だったのに」
「ああもう、次から次へと……」
ひとまずアンプを下ろす。調子が悪い、と言っていたのは年季もののマーシャルとアッシュダウン。ただでさえ古色蒼然としているし、運搬や暑さでやられた可能性もある。修理はもとより、不調の原因を突き止めようにも、素人判断では限界があった。
立川は柳沢に連絡を取った。仕事道具を積んで車で向かうとは言ってくれたものの、スタジオ入りの関係もあり、到着する頃には開始まで残り三十分を切っていた。不具合を見つけ、直し、再びセッティングしなおすまでに、最低一時間は見積もってほしいとこのことだった。場合によってはさらに。
一出演目は楽器を直接ミキサーに繋ぐから、DIさえ生きていればどうにかなる。が、それ以降のプログラムは全てがバンドだ。マーシャルはともかく、ベースアンプなしでは立ちいかない。
では念のためタイムテーブルを変更し、一番目の出演時間を伸ばすしかないか。しかし、最初の出演者に連絡を取ろうにも、当の本人が渋滞にはまってしまってまだ現場にすら来ていない。着くのはギリギリになるか、少し遅れそうだ、という。
八方ふさがりだ。関係者や客も続々顔を出し始めており、こうなれば開始時間を遅らせるのも忍びない。津原が動画サイトでの生放送を買って出ていたが、それも時間がずれると厄介なことになる。掴みが肝心なのだから、最初でコケて客を離したくない。まさか三十分もの間
――どうする?
顔の前で手を組んだまま、立川は思案する。
屋台の客寄せは奇しくも上手くいったようで、食べ物を手に芝生でくつろいでいる人が、ぽつりぽつりと増えていく。「ミサ」に来てくれた客の多くも、久しぶりのライブだとはりきって駆け付けてくれた。「頑張ってくださいね」と手を振られるたびに、背中に重いものがのしかかる。
そこで立川は、自分の持ってきた機材の存在を思い出す。一台はいつものストラトだが、もう一本、アコギを持ってきていた。練習の途中、『パンセ』はそちらの方がしっくり来るということになって――
「それだ」
彼の呟く声に、周囲がざっと顔を上げた。
ざわざわと落ち着きを失いつつあった出演者たちは、どこか戸惑った様子で彼を見つめる。
「――俺が歌う」
立川は拳を固める。
アコギがあるのなら一人でも十分演れる。それはタカト自身が証明済みだ。
弾き語りで時間を稼ぐ。それが一番マシな選択肢に思えた。少なくとも、無人のステージを晒し続けるよりは。
「そんな急にできるものなのか」と、日野。
「俺を誰だと思ってんの?」
立川は唇を吊り上げる。
「DIは生きてるんだよな? 今からでもエレアコは刺せるだろ?」
「いけるはずです」と、修二。
「なら何も問題はない。タイテは三十分そのまま後倒し。代わりに休憩時間を削って調節する」
背水の陣。ぶっつけ本番、勝率は五分五分。
一世一代の大勝負は、こうして幕を開ける。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます