我々はいわば二度生まれる ――ルソー (3)

 ベッドに倒れ込むと、一日分の疲労がどっと押し寄せてくる。目と肩の疲れの方が幾分かマシな疲れだった。


 父親が見ているテレビの音は、自室に籠っていても聞こえた。その音に苛まれるようにしながら、日野は思考の渦に身を任せていた。ここを初めて出た時より十年分歳を重ねた、自分と両親の身体と、ちっとも変われない自分の心のことを思った。


 疲れていたのに全く寝付ける気がしない。日野は高校生の時のままの学習机に座り、李音から預かっていたノートの切れ端を取り出した。英作文の添削を引き受けていた。


「日野さんって先生やってたって、ほんとう?」


 大雨の収まったばかりだったあの日。渋木が連れ帰ってきた少年は、控えめな様子でそう尋ねてきた。それから、手元の問題集を見ながら、いくつか質問をしたいのだけれどと尋ねた。なんでも受験生なのだという。


 質問に答えてからは、自然と進路の話になった。志望校は国立一本だという話だったが、「ぼく、塾とか予備校とか行けないけど、大丈夫かな」と不安そうな様子だった。


「基礎を徹底して、過去問をやり込む。それを徹底すれば大丈夫だよ」


 進路相談をされた時の定型文。実際にそれで受かった人間も知っているし、身を削るような努力が実を結ばなかった人間も、同じくらい知っている。実に無責任に吐いた言葉だったが、李音は真面目な顔で頷いていた。「やっぱりぼくには、ぼくにできることをやるしかないよね」


「母ちゃんに捨てられたらまずいと思ってオレ、バイト先に教科書しまっといたの。マジ天才じゃね?」


「ホント天才だよ、おかげで教科書だけは流されなかったんだもん。ありがとう蓮ちゃん」


 二人のじゃれる声が、まるで兄弟みたいだった。


 渋木も李音も、洪水で家を無くした被災者のはずだったのに、そんな悲惨さは少しも感じさせなかった。むしろ渋木は一時よりも随分明るくなったように感じた。そんな二人を見ている間は、不思議と心が休まるような気がしていた。


「第二の誕生って、どういうことなんだろう」


 彼らの去っていく前日の夜。倫理の用語集をめくっていた李音が、不意に話をふってきた。


「“我々はいわば二度生まれる。一度目は生存するために、二度目は生きるために。”……自我の目覚めってやつ?」


「そうなんじゃないか」


 日野は朧気な記憶を辿る。自我の目覚め。自分の人生は自分のものであるという自覚。青年期特有のものとして習った記憶がある。


「けどそう考えると、ルソーのこの言葉にちょっと違和感があって」と李音は続ける。


「用語集だとね、こう続いてるの。“一度目は人類の一員として、二度目は男性として、女性として。”……これだと、身体とか性的な成熟が第二の生の始まりってことにならない? 結婚とか子どもを産めるようになるのが大人の境界線ってこと? でもなんか、男としてとか女としてとか、そういうの、今の時代にもあうのかな」


 でも、教科書に載ってるってことは、今に通じる普遍性があるってことだよねえ……と李音はぶつぶつ呟いていた。


「もっとシンプルに考えていいんじゃないか。誰かに生かされていた人生から、自分で生きる人生に変わる。だから二度目は『生きるために』生まれる。趣旨はそれでいいんだと思う。性別云々は、確かに今の時代では保守的な考え方だけど、ルソーの生きていた当時の背景もあるだろうし」


 自分で説明しながら、日野は自身に大きな違和感を覚えていた。二十八という年齢は、青年期の延長されつつある今では、ちょうど成人期との境界上に定義づけられる。だが彼は、自問する。


 ――俺は自分の人生を自分のものだと思えたことが、本当にあっただろうか。


 李音の英作文は良く書けていた。意見と理由の型はきちんとしているし、表現の意図も明快だ。所々の文法上のミスやスペルミス、接続語の重複を直してやれば、ほとんど完璧に近くなる。このレベルなら大概の所で通用するだろうと思える出来だった。


 目標に向かって進みながらも、一度は絶望の淵にいた李音。必死に幼友達を引き留めようとした渋木。彼らをガラの悪い連中とラベリングする母親。家事一つやろうとせず、もっともらしい説教をする父親。


 誰からも好かれようとして、自分の意志で何一つできない自分。


「響哉、実家に戻ってくる気はない?」


 見舞いの時母親に言われた台詞が蘇る。


「響哉も仕事大変だろうけど、うちから通えない距離ではないでしょう? 一緒に住んでいたら色々お金も浮くし、生活も楽になるんじゃない? お父さんとお母さんも、響哉がいてくれた方が安心なのよ、今回みたいなことがいつあるかもわからないし」


 言い訳をいくつも重ねていたが、意図は明確だった。自分の監視下に置きたい。


「そうは言っても、俺には俺の生活があるし……もし結婚とかしたら?」


 予定にないことを言い訳に使ったが、「あら、だったらお嫁さんも一緒に住めばいいのよ」と、明るい口調で言われた。「そうすれば、子どもが生まれた時だって、見てあげられるでしょう? ほら、今時、共働きの夫婦も多いって言うし。教育費だってかさむんだから」


 承諾すれば、まず音楽を続けることは不可能だった。ギターを持ち帰ることすらできないだろうし、今まで以上に干渉があることも目に見えている。


 もう大人なんだから、と父親は言ったが、母親にとっての自分はまだ子どもなのだ。


 怪我をして弱っている手前、強いことは言えなかった。ひとまず保留にして帰った。きっぱりと振り切れない自分の優柔不断さを、あらためて痛感するばかりだった。


 追悼ライブの日取りが決まった。セットリストも本格的に練り始めている。『倫理観』の面子は好きだ。彼らとの約束を反故にしたくはない。


 ただ、両親を跳ね除けることはひどく罪深いことのような気もしていた。世間に言う悪い親、ではないと思う。愛情を存分に受け取った自覚もある。モヤッとすることはあっても、決して、憎んだり嫌ったりしているわけではない。その上、親からの恩に報いなくてはいけない、という強迫観念も心底にある。


 日野は再びベッドに横たわる。不意に固いものが太腿に擦れた。ポケットを探って取り出すと、入れっぱなしだったピックだった。


 三角形の輪郭を夜闇にかざす。うっすらと浮かぶ亀のマークを見やりながら、日野はまた自問する。


 課題は明白だった。彼は拒むことができない。「断る」という選択肢を、自分は選んではいけないような気がしている。それで付き合った人を一人、この間不幸にしたばかりだというのに。


 ――俺は一体どうするべきなんだろうか。


 薄いプラスチックが、月明かりに鈍く光る。

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