上善は水のごとし ――老子 (6)
もう子どもじゃないんだからさ。あの頃の自分の口癖。早く大人になりたくて、背伸びばかりしていた。
十二歳の誕生日の前、当日はどうしても外せない仕事が入ったと言われた時も、だから立川は「別にいいよ」と強がった。深夜の生放送のラジオ番組。翌朝まで父親は帰って来ない。本当は少しだけ寂しいけれど、そんなことで駄々をこねるほどガキじゃないし。たとえ誕生日だって、別に、世間的には普通の日と変わらないし。そんな風に自分に言い聞かせた。
「本当にごめん。卒業式の日は絶対に休めるから」
音楽監理局との闘争は激化するばかり。メディアばかりでなく事務所からも圧は強かった。久しぶりのラジオは、だからこそ生命線だったのだろう。
匿名の悪意に触れることも、一時期よりずっと増えていた。ネット掲示板にあることないこと書かれているのを見つけた時、立川は凍りついた。他にもたくさん、権力に逆巻くのは愚かだと説く人、既定の枠組みの中で成果を出せないならそこまでの才能なんだと言う人、怒る人、嘲笑う人、色んな人がいた。うちに匿名の投書が届くことも多くて、見るからに嫌がらせだとわかるものは、立川が郵便受けを見る度に捨てていた。応援のメッセージだって同じくらいあったはずなのに、覚えているのは誹謗中傷に近い言葉ばかり。
「だから、別にいいってば。親父、仕事なんでしょ。しょうがないじゃん」
自分が割り切った態度でいても、父親の申し訳なさそうな顔は変わらなかった。
別日に振替をするつもりだと父親は言った。「たまには二人で、ゆっくり外食でもしようか」と言われた時、きりきりと痛かった心臓が、かすかに跳ねた。
「肉がいい」
「いいよ。ちょっといいところ行くか」
共犯者めいた笑み。
それから、プレゼントは何がいいかと訊かれた。
「アコギ」とぶっきらぼうに答えると、父親はこちらが気後れするくらいに嬉しそうな顔をした。
その眼差しに負けて、実は、と立川は打ち明ける。父親の留守中に勝手に古いギターを借りて、曲のなり損ないみたいなものを作っていること。
勇気を出してのカミングアウトだったのに、父親には「知ってる」と笑われてしまった。
立川はへそを曲げた。「いつか親父よりすげーの作るし」と言ったら、「じゃあこれやるよ」と一曲、ありえないほど難しい曲のデータを渡された。「好きに歌つけてみ。コード進行表もあるから、ほら」
「いや無理でしょ」
反射的にそう言ったら、そんなんで俺を超えられるのかと煽られて、立川はますますふくれた。
「ギター、どんなのがいい?」
「安くてそこそこカッコいいヤツ。親父が選んだのだったらなんでもいい」
一緒に買いに行こうかと言われるのを封じるために、わざとそう言った。親と一緒に買い物なんて子どもみたいで気恥ずかしかった。あわてて「中古でいいよ」と付け足す。仕事が減っていることは言わなくてもわかっていた。
親がぴかぴかのギターを背負って帰ってきたのは、それからすぐのことだった。
「当日一緒にいれないから、プレゼントくらいは早めにな」と父親が持って帰ってきたのは、自分が使っているものと同じメーカーの新品だった。紛れもなく自分だけのもの。一目見て胸がときめいた。
「中古のでいいって言ったのに」
つっけんどんに答えたけれど、唇が緩んで仕方なかった。「ありがと」という声は消え入りそうになったから、聞こえたかどうか自信がない。
「こんな高そうなの買っちゃってよかったの?」
意地悪く言うと、少しだけ、父親の笑みに複雑そうな色が混ざる。
「いいの。代わりに今度、陽介の作った曲、聞かしてくれよ」
「……練習中だから、今度ね」
いかにもしぶしぶと言った様子で答えた。仕方ないな、そこまで言うなら聞かせてやってもいいけど。そんな風に心の中で呟きながら。
「わかった、今度な」
この時父親はどんな顔をしていただろうか。いつもみたいに曖昧にはにかんでいたのだろうか。それとも、少しだけ悲しそうな顔をしていただろうか。
取り交わした約束は、決して果たされないまま終わりを告げる。
誕生日は一人だったけれど、日付が変わってすぐ、父親は仕事先から電話をくれた。「おめでとう」という穏やかな声をよく覚えている。
食事に行くことになっていたのは、その週末だった。平然を装ってはいたけれど、立川は指折り数えながらその日を待っていた。午前中からそわそわして落ち着かなかった。夕方になったら帰ってくると父親は言っていた。
約束の時間を過ぎても父親は帰って来ない。
三月はまだ日が落ちるのが早い。暗くなってしまった部屋の中で、電気もつけずに待っていた。図書室で借りた本を読みながら気を紛らわしていたけれど、文字を読もうとしても目は上滑りするばかりだった。
チャイムが鳴って、弾かれたように立ちあがる。インターホンに映ったのは、父親ではなく配達業者の姿だった。中学校の制服を受け取り、父親の代わりに判子を押しながら、立川はじりじりと焼かれるような気持ちだった。
――約束、忘れたのかな。
すっぽかされたのかと思うと、悲しく、それ以上に腹立たしい。だけど父親が約束を忘れたことなんて、まして連絡もせず遅れるようなことなんて、今までなかったはず。父親を信じたい気持ちと、裏切られたという気持ちが、交互にぐるぐると胸の中を巡った。
深夜になっても父親は帰って来ない。
夕飯を食べずに我慢していたが、根負けしてカップ麺を食べた。一人で安っぽい味の麺を啜りながら、こんなはずじゃなかったのにと思った。本当だったら今ごろは、二人で普段は行けないような店に行って、たぶん自分の好きなイチゴのケーキとかも食べて、お腹いっぱいになって帰ってきたくらい。
カップ麺を食べたのに、ちっとも腹の満たされた感じがしなかった。
ソファに座りながら、電気もつけずに待っていたのは、意地だった。父親に憤る気持ちと、心配する気持ちとの間に揺れながら、気づくと毛布も掛けずに眠りに落ちていた。
固定電話の音で目が覚めた時、手足がひどく冷えていて、寒かった。
夜が明けようとしていた。重く垂れこめた雲から、雨ともみぞれともつかない粒がぼたぼたと落ちて、地面を濡らしていた。その様子を横目に、カーテンも閉めていなかったことに、立川は気がつく。一つくしゃみをして、彼は受話器をとる。時刻は六時を過ぎたころ。
もし父親だったら文句のひとつでも言ってやろうと思ったのに、電話口からは知らない声がした。警察署から、羽山貴仁と思しき遺体を発見したという連絡だった。
検死と行政解剖の結果は自死。誰かから危害を加えられたような損傷はなし。彼の死体のポケットからずぶ濡れの遺書が出てきたこと、死の直前に彼が友人に電話をかけ、「陽介をよろしく頼む」と言ったことから、自死という結論が揺らぐことはなかった。
数日ぶりに対面した父親は、被された布から見える足だけで、一目で死んでいるとわかった。粘土のような色をした皮膚。顔はまともに見ることができなかった。
嘘だ、という言葉が、最初に口から漏れた。
だって約束したじゃないか。一緒にご飯を食べにいくって。遅れるけど、誕生日はちゃんと祝うからって。卒業式は来てくれるって。俺の歌を聞いてくれるって。
「おかしいだろ」
立川は幽鬼のように呟いた。
立ち会った警察官が、気の毒そうな目をこちらに向けていた。「どういうことだよ、親父が自殺なわけないだろ!」我を失って掴みかかろうとして、別の警察官から腕を抑えられる。
「誰かに殺されたんだろ、親父が自分から死ぬわけないだろ、ちゃんと調べたのかよ!」
落ち着きなさいという誰かの声も、ますます火に油を注ぐ。
「親父が権力に楯突いたから? だからちゃんと調べてくれないのかよ、お前ら警察も監理局とズブズブってことかよ、なあ」
「専門家の検死の結果なんだよ、君」
「だったらそいつが間違ってるんだろ!」
縋るように叫ぶしかなかった。「お願いだよ、もう一度ちゃんと調べてくれよ」足から力が抜けていった。
嘘だ。
こいつらはみんな嘘つきだ。
だって親父が死ぬ理由なんて何もないじゃないか。
自殺なんて、するわけないのに。
俺のことを置いて死ぬはずが、ないのに。
「人間は、君が思っているよりもずっと弱いんだよ」
言い聞かせるような声を、立川の頭は拒む。いつか父親もそんなことを言っていたっけ。そんな風に思い出されるのが余計に辛くなる。
目を見開いたまま、立川は座り込んでいた。いっそ涙が出てくれればよかったのに、出てくるのは乾いた笑いだけだった。身体が小さく震えていた。
「辛いだろうけど、事実は事実なんだよ。いつか受け止めなきゃいけない」
悲しみよりも先に、焼け付くような絶望と怒りがこみあげた。頭がぐらぐらして、それから先は、何を言われても頭に入らなかった。
父親の身に着けていたものをどうするか聞かれたことだけは、覚えている。好きにしていいと言ったが、細身の指輪だけは、ひったくるようにポケットに入れた。何か父親が存在した証拠が欲しかった。指を通すことはできなかった。
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