上善は水のごとし ――老子 (5)

 日常は少しずつ取り戻されていった。やがて精神的な波が落ち着いてくると、新学期からは学校にも行けるようになり、それを機に父親も仕事を再開させた。夏にかけて手足がすらりと伸び、声も低くなり始めた。子どもから大人へ、少しずつ少しずつ、変わり始めていた。

 大人の不完全さに気づきだしたのも、多分この頃だった。自分を守っていた世界の天井は、端のほうからぱらぱらと剥がれ始める。大人はきれいなものだけ見せようと躍起になるが、隠したつもりでも、実はちゃんと見えている。十歳という年齢はちょうど、見えていたものの意味がだんだんとわかるようになってくる、その境目だった。

 大人が読ませたがらないマンガや本に書いてあること。去年辞めた若い女の先生が、常日頃から「いじめはよくありません」と言い聞かせる教師たちにいじめられていたこと。「子宮がんなんて貞操観念のない母親だったんだな」という、名前も顔も思い出せない誰かの言葉。

 忘れていたはずのものが、不意に自分の中に蘇って、意味として結びつく。

 不条理や残酷さや悪意は気づけばあちこちにあって、それなのに大人は、知らないふりをするかのように、きれいな世界だけを説く。

 それが気持ち悪くて、立川はことあるごとに彼らに楯突いた。「なんで?」と。

 ある道徳の授業中。かけがえのないいのち、という命題の時にも、立川はわざとそう尋ねた。

「せんせー、なんで?」

 クラスメイトが一斉にこちらを向く。面白がるような、何かを期待するような顔もあるし、ぎょっとしているのも、信じられないという顔で見ているのもいる。

 またお前かとでも言わんばかりに、教師がこちらを睨みつけた。物腰は柔らかだが、その表情に怒気があるのを見て、ますます愉快に思った。

「なんで人を殺したらだめなの?」

「羽山くんは自分が殺されてもいいんですか?」

「いいよ、って言ったらどうすんの? せんせー」

 机に肘をついて、立川は教師の目をまっすぐに見ていた。

「『自分が嫌なことを人にするからダメ』なんだったらさ、嫌じゃない人はやってもいいってことになるじゃん」

「……この意見に賛成の人?」

 くだらない揚げ足取りだと思っているのか、よくあることなのか、教師は質問には答えない。代わりに他の児童に挙手を促した。

 ざわめきと共に、教室の中にいる児童の全員が、目配せをし合って様子を見て、結局誰も手を上げなかった。

「みんなは、そうは思っていないみたいだけど」

「みんなが思ってたらぜんぶ正しいの?」

 満足に答えられない様子を見て、立川は留飲を下げる。やっぱり。やっぱりそうなんじゃん。知ったような顔して、「正しい」ことを押し付けてくるあんたらだって、じゃあなんでそれが「正しい」のか、ホントはわかってないんでしょ?

「他に何か意見がある人は?」

 何か言いたげにしていた女子のひとりが、ぴんと元気よく手をあげた。

 正義感と責任感の強い「優等生ちゃん」だ。先生の手伝いも、係や委員の仕事も、宿題も、全部がきちんとできるのが正しくて、そうでないのは間違い。先生からはめっぽう気に入られているが、「あいつ、いい子ぶってるよね」と、よく陰口をたたかれているような子。

「人を殺すのは、やられたら痛いし、やっぱりダメだと思います」

「じゃあ相手が痛みを感じなかったら?」

「それでも、勝手に傷つけたりするのは良くないと思う」

「だからさあ、それがなんでって聞いてんじゃん。『ダメだからダメ』『正しいから正しい』って理由になってなくない?」

「そんなことばっかり言ってたら、世の中が成り立たなくなっちゃうと思います」

 物分かりの悪い子を諭すように、彼女は言う。まるで下級生でも叱っているような面持ちで。

「世の中が成り立つためだったらなんだって正しいの? じゃあ『世の中のために死んでください』って言われたら?」

「はあ? そんなこと言われるわけないじゃん」

「おまえ、トッコー隊が『お国のために死ね』って言われてたの知らねえのかよ、ばーか」

 件の女子はぴしりと顔を凍らせる。プライドの高い優等生に「馬鹿」は禁句。もちろんわかっていて言った。

「お前とか死ねとか馬鹿とか、そういう乱暴な言葉遣いはやめなさい」

 教師が割って入って、ひとつ咳ばらいをした。それから、とにかく命はたった一つでかけがえのないものだ、自分が良くても命を粗末にするのは周りの家族や友達が悲しむのだからよくないと総括した。そのまま感想文の時間になって、立川は不完全燃焼のまま、やっぱり納得がいかなかった。その後は何を言っても適当にあしらわれた。どうせ子どもの屁理屈だと思われていたのだろう。

 授業の後、担任から呼び出されて、教室で話をした。

「羽山くんはお母さんが亡くなっているんだから、大事な人を失って悲しい気持ちは、誰よりもわかるはずでしょう?」

 授業中のような一方的な様子こそなかったが、どこか困ったような顔をしていた。

 母親のことを引き合いに出されると、ばつが悪かった。少年の心にとってはまだ生傷に近い傷だ。思い出すだけで、ぎゅうっと胸が痛んだ。

「人を殺したいとか、死んじゃってもいいとか、思っているわけじゃないんだよね?」

 しぶしぶ頷く。羽山くんは賢いんだから、と教師。

「命は大切だよっていうのも、ちゃんとわかってはいるんでしょう?」

 なにか嫌な予感がした。立川は気まずそうに目を伏せる。

「理由が知りたかったの? それとも、先生を困らせたかった?」

 自分の魂胆などとうに見透かされていたらしい。

 なにかを喋ったら泣きそうだったから、何も言わなかった。

「ただ先生を困らせたかったんなら、もうああいうことはやめてね。授業にならなくなっちゃったら、先生だけじゃない、みんなが困るから」

 引き留めてごめんね、もう帰っていいよ、と教師は言った。もう話は終わりだと言わんばかりに。


「なんで大人ってキレイゴトばっかなの」

 いつかの夕飯時。カレーをぞんざいに混ぜながら尋ねたら、父親はどこか可笑しそうに頬を緩めた。

「お前ほんっとうにこまっしゃくれたガキに育ったなあ」

「育てたのは誰だよ」

 不機嫌そうにカレーを頬張る立川。子どもの舌には少しだけ辛い。ごろごろとした具を噛み砕いている間にも、手元のスプーンがぐちゃぐちゃとご飯とカレーを混ぜる。

「で、なんでキレイゴトが嫌なわけ?」

「だってなんか……きもちわるいじゃん。それじゃ説明つかないことばっかなのに」

 要は、子ども相手だからと誤魔化されているようで癪だったのだ。「赤ちゃんはどうやってできるの?」と訊いた時、コウノトリやらキャベツ畑やらを引き合いに出されるような違和感。本当はそんなこと嘘だとわかっているのに。だけど自分は、何が本当かがきちんとわかるほど成熟もしていない。それがもどかしいし、悔しい。

「まあ確かに、万能ではないな。だけど、必要なことでもあるんだよ。キレイゴトがあるから、人は正義を信じていられるし、善い人間になろうと思える」

 父親の言うことはいちいち難しいけれど、やさしいだけの言葉ではぐらかすんじゃなくて、まっすぐ自分に投げられる。そういうところは嫌いじゃなかった。

「なにそれ」

「理想と現実は確かに違うけど、だからこそ、人間は理想に向かって近づこうとするんだってこと」

「イデア?」

「そう、イデアとエロス。よく覚えてるな」

 感心した様子で言う父親。立川は、別に嬉しくないし、という表情をつくってみせる。

「――もしキレイゴトがなくて目先の利益や欲望だけが残ったら、善や正義や道徳の代わりに絶対的に正しくなるのは、略奪と弱肉強食だよ」

 どういうこと、と尋ねる前に、お代わりをよそいに父親は席を立つ。急いで残りを押し込んで、「俺のも」と皿を出すと、「はいはい」と呆れたように笑われた。

 話の続きが聞きたくて、そわそわしながら待った。ゆっくりとお玉を傾けながら、父親は続ける。

「例えば、『人を殺してはいけない』というのだって、自分や他人がむやみに殺されないように、その尊厳を守るためにある。一度失われたその人の人格は、二度と戻らないからね。そういう縛りがなくなったとき、有利なのは圧倒的に、力があって強い側だ。自分で身を守る力のない人はどんどん殺される。たとえ強い力を身に着けたとしても、もっと強い人が現われたら? そう思うと、全員が全員、いつ自分が殺されるか、常に怯えなきゃいけなくなる」

 誰かに殺されるかもしれない。財産を奪われるかもしれない。仲間に裏切られるかもしれない。キレイゴトという不文律がなくなったときに残るのは、そういう恐怖だけが支配する世界だ。万人の万人に対する闘争状態。

「法や道徳っていうのは、本来は、弱い立場の人たちを守るためにあるものなんだよ。もちろん俺たちも、みんながそれに守られてる。人間というのはどこまでも弱いからね」

「父さんも?」

 もちろん、と頷いた父親の真意は、今となってはもうわからない。

 父親の持つ弱さなんて、立川は少しも知らなかったから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る