恒産無ければ恒心無し ――孟子 (7)

 あてどなく辺りを探し回っても、李音は見つからなかった。降る、というより全身に叩きつけてくる雨が、汗も涙も鼻水も、すべてを曖昧にした。髪から水が滴り落ちていく。水を吸って重たくなったパーカーが、容赦なく体温を奪っていく。

 家の外は小さな川のようになっていた。足を取られないように踏ん張りながら、あちこち走り回って、気づくと夜が更けていた。夕飯をまだ食べていないことを思い出し、途端に胃がぎゅうっと萎む感覚がした。

 李音も今ごろ腹を空かせているんじゃないか。たった一人、ろくに荷物も持たずに家を出て、どこに行ったというんだろう。警察に行くのは早計だろうか。だけど、何か事件に巻き込まれでもしたら。心配だけがむくむくと膨れ上がって、自分の非力さを痛感させられる。

 誰かに連絡をしよう。スマホを家に忘れたことを思い出し、とぼとぼと引き返す。雨は弱くなる兆しを見せない。マンホールがぼこぼこと音を立てて動いている。

 家では母親がとっくに寝入っていた。渋木はぐちゃぐちゃになったリビングから自分のスマホを漁り出し、李音のことを知っている人に、手当たり次第にメッセージを入れた。重いパーカーを力任せに脱いで、洗濯機に入れる。そのまま玄関に座り込んで、気づくと眠りに落ちていた。

 身体が冷えたのか、翌日はくしゃみと鼻水が止まらなかった。

 目が覚めると昼過ぎで、既に母親は出勤しているようだった。シンクにはぶよぶよに膨らんだ麺がそのまま放置されていた。冷え切った身体を温めるためにシャワーを浴びたが、昨日洗濯したばかりの服はまだ生乾きだ。仕方ないからそのまま着た。

 スマホに来ていた通知は期待ほど多くはなかった。その中に、李音の学校の電話番号があるのに気が付く。そういえば、「緊急連絡先、蓮ちゃんの番号にしてもいい?」と、李音が何かの書類に書き込んでいたっけ。

 折り返しかけなおすと、李音が学校に来ていないという旨を告げられる。

 咄嗟に、李音は風邪で寝込んでいるということにして、電話を切った。自分がなんでそうしたのかわからなかった。こんな雨で警報まで出ているのに、学校が休みにならないなんて不憫だなと思うと、理解のできない世界の住人だと思っていた進学校の子どもたちに、少しだけ親近感がわいた。

 今日もバイトだ。八時から翌朝六時までの、たっぷり十一時間の夜勤。

 レインコートも傘も、さして雨を防ぐ役には立たない。雨に打たれながら出勤して、急いで極彩色の上着に着替えた。垂れてくる水っ鼻をしきりに啜っていたら、「みっともないからお客さんの前ではそれ、やめてね」と、店長がティッシュの箱を差し出してきた。

 小柄で、髪の短い客が視界に入るたび、李音なんじゃないか、と思って心がざわついた。十一時間の夜勤はいつもよりもずっと長く感じた。三百円もするカップのケーキ、生クリームがいっぱいのロールケーキ、五百円もする幕の内弁当。自分の手の届かないものばかりを並べる。

 何も考えないことは得意なはずなのに、今日に限って、作業の隙間にぐるぐると色んなことを考える。

 疲れた顔の女の人が持ってきた強いチューハイ。女の子が居心地悪そうに持ってきたナプキン。若者の集団のいっぱいの笑い声と一緒に、かごいっぱいに詰められたポテトチップスと甘いお酒。薄汚れた子どもがひとりで買いに来たおにぎり。ひとつひとつ、バーコードを読み取って、袋に詰める。

 オレもすっかり夜のひとになってしまったんだな、と思う。

 小学生の頃。置物みたいに部屋の隅でじっとしながら、母親のいない家で眠っていた。母親は夜の仕事をしているのだと誰か大人が言っていた。夜いなくて、朝学校に行く頃に深く深く眠っている母親のことを、渋木は得体の知れない怪物みたいだと思っていた。自分は夜眠くて仕方ないのに、どうして夜に働くことができるのかわからなかった。夜のほうが少しだけ時給が高いとか、夜にピークが来る仕事は昼職よりもわりがいいんだとか、そんなことは微塵も知らなかった頃の話。

 夜中に仕事をする時のぼんやりした疲労感には、とっくに慣れてしまった。

 夜勤の終わりはとっくに夜が明けている。久しぶりに晴れ間が出ていて、雲の隙間からうっすらと日が差していた。その向こうにはまだ黒々とした雨雲が見えたから、すぐにまた雨になってしまうのだろう。

 コンビニから出て、すっかり朝になってしまった街を歩くとき、渋木は一番寂しい気持ちになる。今までもずっとそうだったけれど、今までは帰ったら、すうすうと穏やかに眠る李音の寝顔があった。

 自分がどんな気持ちでも、泣けど喚けど、朝は来る。

 世界は自分とは何の関係もなく回っている。

 たったそれだけのことが、ひどく憎々しく思えた。ずっとわかりきっていたはずなのに。


 李音は次の日も、帰って来なかった。

 最初からこのあばら家の住人だった母親は、二年の空白なんてなかったみたいに、自然にこの家に馴染んでいく。その中で、持ち主を失った教科書や参考書の類が、邪魔そうに押しのけられていく。万が一にも捨てられないよう、渋木はバイト先のロッカーにそれを隠した。「あれ、渋木くん学校戻ったの?」という声に、知らんぷりをしながら。

 母親があれから暴れることはなかった。あの時は男の家から追い出されたのと、ひどい雨に打たれて帰ったのとで、神経が昂っていたのかもしれない。相変わらず料理はしないし、店に出勤しては帰って寝るの繰り返しだけれど、一度は「今まで放っておいてごめんね。やっと二人で暮らせるから」と大雑把な笑みが顔に戻った。子供の頃と同じ、細かいことなんか気にしない母親らしい、おおらかな笑顔。

 変わったのは母親じゃなく自分の方だった。

 家に誰かがいる、というのは、母親と暮らしていた時も、李音と生活していた時も同じはずだ。それなのに、母親が返ってきてから急に、自分の居場所を奪われたようで、息が詰まった。自由は手からするりとなくなってしまって、自由と一緒だったはずの孤独と不安だけが残った。

 教会下のライブハウスが音監に見つかってから、金曜日のミサ、という口実をなくした。この嵐の中、短い停電が繰り返されるようになってからは、地下にあったあのスタジオも今は閉まっている。ドラムを叩くこともできない。雨は強くなったり弱くなったりを繰り返すばかり。李音は帰って来ない。警察に届け出ることも、ちらりと考えた。脱法ライブというオレの悪事はバレてしまうかもしれないけれど、でも、李音がこのままいなくなってしまうことのほうがずっと嫌だ。

 家を出ようとしたら、「どこ行くの」と煙草を吸っていた母親に止められた。フィルターの部分を噛みしめるようにしながら、何か面白くなさそうな表情をしている。

「もう一度探してくる」

 一音一音をしっかり腹から出した。「なんであんたがそこまでしてあげる必要があるの?」と、母親は案の定顔をしかめる。

 最初はわからなかった。この人はなんで、李音の存在をこんなにも疎ましがるのか。母親が器を投げて暴れたあの時から、ずっとずっと心の深いところで考え込んでいた渋木は、「家族でもなんでもないのに」という母親の言葉に、不意にその答えを見出した。

「あたしの言うことより、あの子のことのほうが大事なの? あんたがこんなでかくなるまで育ててやったのはあたしなのに。自分の時間も、お金も、犠牲にしてさあ」

 渋木は思い出していた。給食費、修学旅行の積み立て、文房具や学術用品、他にもいろいろ。出し渋られるのを説き伏せようとするたびに、「何よ当然みたいに。誰が稼いだお金だと思ってるの」と言われたこと。それでいて高いカバンや化粧品を買っていることを指摘したら、「必要なんだから仕方ないじゃない」「自分で稼いだお金を自分で使って何が悪いの」と癇癪を起されたこと。

 渋木はやっと腑に落ちた。

 この人は、とにかく自分のリソースを食いつぶされるのが不快で仕方ないのだ。自分や李音に、お金や時間をしまうことが、どうしようもなく我慢できない。

「……そんなにオレが邪魔なんだったらなんで生んだの」

 渋木はとっておきの切り札のように口にする。母親が出て行ったときも、お金のことで怒られた時も、幾度となく思って、それでも口に出すのをためらっていた台詞。

 できちゃったんだから仕方ないでしょ、と母親は言い捨てる。とっておきの切り札は簡単に放り捨てられる。

「だから育ててきたんじゃない。血が繋がった家族だから。あたしの子どもだから。あんたのことを邪魔だと思ったことなんかないわよ」

 嘘だ、と渋木は思う。

 母親が男を連れ込むたびに、自分はこの家で息をひそめて、透明になろうとした。母親がそれを望んでいると、肌でわかっていたから。

「だけどあの子は違う。結局は赤の他人でしょ」 

「オレにとってはちゃんと家族だよ!」

 渋木は泣きそうな目で母親を睨みつける。可哀想なものを見るような目で、母親はこっちを見つめ返す。

 わかっている。母親だって、たったひとりで、右も左もわからない中で一生懸命自分を育てていたんだってこと。この人はオレを、曲がりなりにも心配しているんだろうってこと。

 渋木は逡巡する。「すぐ戻ってくるから」と言って、また強くなり始めた雨の中に、足を踏み出していく。

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