恒産無ければ恒心無し ――孟子 (6)

 キッチンタイマーが三分間の経過を告げる。けたたましく鳴るそれを止め、一人前だけ器によそって、出してやった。手がかすかに震えているのがわかる。母親の手が当然のようにそれを受け取り、「ちょっと、お箸は? 手で食べろって言うの?」と催促してくる。

 渋木の持ってきた割り箸を、母親の白い手が受け取った。その長くのばされた爪には、つやつやと赤く光るマニキュアが塗られている。それも少し剥げかけていた。

「今までどこ行ってたの」

「ちょっとね。……蓮さ、山岡さんって覚えてる? ほら、昔遊んでもらったでしょ?」

 ラーメンをすすりながら、母親が答える。自分と同じ握り箸で。

 母親が連れてきた男の中にそんな名前の人がいたかどうかは、知らない。

「一緒に住んでて、結婚もしてたんだけど、向こうが若い愛人作っててさあ。それで喧嘩になって。全く参っちゃうよね」

 要するに、男の家から追い出されたのか。こんな雨の中を。

 得体の知れない感情が喉元までこみあげてくるのを感じる。二年も音沙汰なく家を空けておいて、母親は全く悪びれる様子もない。

「何よおその目。ちょっとは喜んだら? せっかく帰ってきたのに」

 不満げに言い、母親はずるずるとのびかけた麺をすすった。鍋の中に残った一人前のインスタントラーメンも、汁を吸ってふやけ始めている。

 母親はしばらく、何か言いたげな目で、じろじろと周囲を見渡していた。

 二人分の洗濯物。二人分の歯ブラシ。李音の通学バッグと、着替えの入ったボストンバッグ、参考書と教科書の山。一つ一つに視線が向けられるたび、心なしか動悸が強くなる。バスドラみたいな拍動が、自分の耳の傍で鳴る。

「その子は?」

 目を向けられた途端、身を小さくしていた李音が、さらに小さくなった。

「ぼく、隣の家に住んでたんですけど、蓮ちゃんに助けてもらって、それで、居候、っていうか」

 言い訳がましく並べ立てる李音。「あら、そう?」という母親の声が急に冷たくなったことに、渋木は気がつく。

「親父さんの暴力がひどかったから、うちで面倒見てたんだ」

 助け舟を出す渋木。

「ふうん。ここはあたしと蓮の家じゃなかったっけ?」

「でも、李音は」

「なんであんたが他所の子の面倒見てるの? あんたがそこまでしてあげる筋合いある?」

 ラーメンのつゆを啜り、母親は冷たく言い放つ。グーの形のまま握った箸を器用に使い、ずず、と麺を吸い上げる音だけが響く。

 渋木は絶句していた。どうして母親はそんなひどいことを言うんだろう。だって困ってるんだからさ、李音、泣いて怯えてあんなにボロボロだったんだからさ、困ってる人がいたら普通助けたいって思うんじゃないの?

 言い返したいことはたくさんあるのに、すぐに言葉にならない。自分の頭の回転の遅さを呪った。こういう時にズバッと言い返せる頭の回転の速さも思い切りもなかった。

 ずっと無視していた李音の存在に、母親がまっすぐ目を向ける。剥き出しの敵意を伴ったまま。

「悪いけど、うちには寄生させてあげるほどの余裕はないんだ。あんたも掃き溜めの子なら知ってると思うけど」

 李音はうつむいたまま、ぎゅっと唇を噛みしめる。

「もう高校生なら家くらい自分で見つけられるでしょ? 女の子なら身体でも稼げるよね? あたしも鬼じゃないし、未成年でも働ける店くらいなら紹介してやるからさ。お水にも風にもあんたくらいの歳の子なんかゴロゴロいるから」

 水商売、風俗。そんな単語を平然と並べる母親。それが彼女が生きてきた世界だ。ある意味当然なのかもしれないが、渋木は「何言ってんだよ」と遮った。

「急に帰ってきてなんなんだよ」

 語気は自然と強いものになる。

「何よ、あたしは自分の家に帰ってきちゃだめなわけ?」

「そんなこと言ってないじゃん」

「あたしが家空けてるのをいいことに好き勝手して、こんなわけの分からない子家に置いたりしてさ、一体なんなの? 騙されてるに決まってるじゃない。あんた、バカなのに人がいいから。ちょっとは考えたら?」

 ひどい言い草だ。

 胸がぎゅうっと締め付けられる。

「勝手に男のトコいって家空けたのはそっちだろ」

 柄にもなく声を荒げた。

「はあ? 何、あたしは幸せになりたいと思っちゃいけないの?」

 母親が力任せに投げた器と箸が、床に打ち付けられてガチャンと鳴った。麺と汁が床の上にひっくり返る。飛び散った汁が顔についた。

 李音がびくりと身体を縮める。顔が青ざめていて、呼吸も浅い。

「ごめんなさい、迷惑だよね、わかってます、ごめんなさい」

 渋木の陰に隠れながら、李音は痛いほど強く裾を握ってくる。その手の震え方が普通じゃなかった。こんな様子の李音を見るのは、うちに逃げ込んできたあの日以来だ。

 雨脚はますます強まっているようで、大粒の雨がしきりに窓を叩いた。

「そうよ迷惑なの。うちの子でもないのに、疲れて帰ってきたら我が物顔で居座ってて」

「ごめんなさい、すぐ出て行くから」

 当然だとでも言いたげに、母親が鼻を鳴らす。荷物をまとめようと居間に向かう李音を、渋木は力づくで引き留める。

「ちょっと待てよ、外この雨なんだよ?」

「あたしだって雨の中帰ってきたんだけど!」

 座卓が蹴飛ばされる。リモコンやティッシュや李音の筆箱が崩れ落ちる。水の入ったガラスのコップが床に落ちて割れた。李音はまともに呼吸ができていない。咄嗟に李音の身体を抱き留めた。その小ささと心もとなさが、この子の身体が非力な女の子にすぎないことを、今更痛感させる。「大丈夫だから」と背中をさする。李音は腕の中で荒い呼吸を繰り返す。

「なんなの、もう! 揃いも揃ってあたしを悪者にしてさあ、そんなにあたしが帰ってきたのが嫌?」

「母ちゃん!」

 諫めるつもりで、渋木は声を張り上げる。その一瞬の隙を振り払い、李音が自分の腕をすり抜けた。肘に引っかかった鍋がひっくり返って、のびた麺が盛大にシンクに零れた。

 靴を爪先に引っ掛け、乱暴に開いたドアから、李音が飛び出した。

 李音、と叫ぶ声は、雨風にさらわれて掻き消されてしまう。

「蓮、どこ行くの!」

 母親の声を聞き遂げる前に、渋木はびしょ濡れのスニーカーに足を突っ込んだ。


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