人間は自由の刑に処せられている ――サルトル (4)

 もし音楽を始めていなかったら、今の自分はどうなっていたのだろう。

 ふとした瞬間にそんな想像をしてしまうくらい、気づくと渋木と音楽とは不可分な存在になっていた。

 バイト先と家との往復を繰り返すばかりだったあの頃。もし立川から声をかけられなかったら、オレはどうしていたのだろう。ただそれまでと同じような、熱も光もない毎日を過ごしていたか。それとも、自分も、梓音と同じような道へと流れて行っていたか。

 ひょっとしたら、こんなモノにはとうていありつけなかったかもしれない。ファミレスの色とりどりのメニューに気圧されながら、渋木は思った。

「決まった?」

 と聞いてきたのは、向かいの席の瑠璃だ。ぱっちりとした化粧と、編み模様の大きなセーター。生憎デートではなく、瑠璃の横では日野が文庫本を開いている。あのステージ以来の倫理観の初顔合わせだ。

「んー」

 渋木はぐりぐりと眉間にしわを寄せた。苦手な野菜と魚介類を除けば、食べられるのは鉄板系の肉料理くらいだが、四桁の値段を見て少し怯んでしまう。

 話したいことがある、と言って人を集めたのは立川だった。「奢るよ。ファミレスでいい?」という立川の言葉に瑠璃は不満そうだったが、自分では思ってもみない機会だった。ファミレスに来るのは、これで二度目。一度目も、立川に連れてきてもらった。

「おっしゃ決めた!」と声に出して、渋木はメニューを置いた。チーズハンバーグの誘惑には勝てなかった。

「遅いな、あいつ」

 日野がちらりと腕時計を見る。

「ほんっと勝手ですよね立川さんって。ドリンクバーとデザートも頼んじゃいましょ。自業自得です」

 瑠璃がデザートのページを指で繰りながら言った。

「オレ、ボタン押していい?」

「よし、押しちゃえ」

 各々がドリンクバーを取りに行き、渋木が原色のメロンソーダを半分飲み終わった頃に、立川は来た。約束の時間からは十五分が経っていた。昼時にも関わらず、悪い寝坊した、というようなことを、彼は平気で言った。

「遅いですよ」と詰る瑠璃に平謝りをしながら、立川は「お姉さん」と滑らかに店員を呼び止める。「ミックスグリルのライスセット。あとチョコレートパフェ」

「立川さんって三大欲求の全てに忠実ですよね」

 店員が去ったのを見届けて、瑠璃が小さく呟いた。

「ん?」と、どこか得意げな立川。

「なんでもないです……」

 瑠璃は苦々しげな顔をした。

 初対面のようであり、微妙に見知った間柄でもある四人の間には、なんとも微妙でぎくしゃくした空気が流れていた。料理が届き、その皿が空になってしまうまで、三月なのにちっとも暖かくならないとか、桜が咲くにはまだかかりそうだとか、そういうとりとめのない会話だけがあった。

 それでも、立川が来てから、だいぶ空気は和らいでいた。グリーンピースととうもろこしをそっと脇に寄せながら、渋木は肌で感じていた。三人で立川を待っていた時には、会話そのものが少なく、距離感をはかりかねているような、妙に張りつめた空気があった。

 四人はあくまで赤の他人であって、まだ一つのバンドというチームメイトにすらなれていない。要の立川がいなければ、びっくりするくらいにバラバラだ。

 それは、この間の演奏でも、なんとなく思ったことだった。日野を抜いた三人での練習はしていたものの、全員ではスタジオに入ったこともないぶっつけ本番。ともすればバラバラになって崩壊してしまいそうな危ういところで、立川の歌声だけが全員を繋ぎとめていた。

「そろそろ本題に入ったらどうなんだ」

 ふと会話がなくなった折、日野が立川に水を向けた。その瞬間、穏やかになりつつあった空気がまた、ぴしりと緊張を帯びた。

「ヒノちゃんはせっかちだなあ」

 立川は鷹揚に言い、足を組みなおした。「オーケー。このバンドで何をやっていきたいのか、その話をしよう」

 狭い店の一角。子供連れや学生でにぎわうファミレスの中で、彼らの座るボックス席だけがやけに静かだった。

「前にも言ったけど、俺は音楽を、あの地下から解放したい。――具体的に言えば、野外でライブをやりたい。それを、このバンドでの最初の目標にしたい」

「野外ライブ?」

 渋木が復唱した。

「そう。一昔前のフェスみたいなイメージかな。外にステージを組んで人を集める」

「そんなことができるんですか?」

 すぐさま切り込んだのは、瑠璃だ。

「邦ロックが盛んだった時代とはもう違うんですよ。立川さんたちは高校でバンドをやってたって聞きましたけど、私たちの頃にはもう、それすらきつく止められました。学校の体裁として難しいって。周囲の目はどんどん厳しくなってる。無理に決まってます」

「無理に? 誰が決めたんだよ、そんなこと」

 立川は軽快に、しかし鋭い口調で笑い飛ばした。

「いい? 取り締まられているのは、音楽監理局の申請を通さない、かつ営利行為としての音楽活動なのさ。もちろん演奏する楽曲にも申請は必要だけど、逆に言えば、素人が非営利でやるコピーバンドなんかは、原則としては禁止されてないわけ。――だよな?」

「ああ」目配せされた日野が答える。

、な」

 わざとらしい、含みのある言い方だった。

「どういう眼差しにさらされるかは別の話だ。世間はいつだって、規範から進んではみ出そうとする奴を嫌う。監理局のお墨付きがない公式のライブは、あまり現実的じゃない」

「でも、不可能じゃないだろ? とりあえずは、その規範ってやつに乗っかってみればいい。その中で世間サマの心を掴めたら俺たちの勝ちだ」

 立川が企画しているのは、つまりこうだ。

 監理局が申請を通した楽曲による、非営利の野外ライブ。

「立川さんの曲は使えないってこと?」

 慣れた曲を叩けないのは多少心もとない。渋木が率直に訊くと、「まあ、そうだね」と立川は歯切れ悪そうに答えた。

「ミサは立川さんの曲目当ての人、いっぱいいますよ。それが使えなくて、人、集まるんスかね?」

「お前いいコト言うね」

 褒められたので嬉しくなったらしい。立川が犬を撫でるように渋木の頭をわしわしと撫でた。「えへへ」と思わず頬が緩む。

「心配ないよ。あいつの名前を借りる」

「あいつ?」

「――羽山タカト」

 立川の口からその言葉が出たことに、一同にまた緊張が走った。

 彼が死んでから十五年近く経つ。その追悼ライブという名目で、彼の楽曲に限定したライブを行い、出演者と客を集める。そう彼は言った。

 瑠璃は釈然としない様子で、頬杖をつく。

「それって、監理局から余計睨まれません? あの人は反抗の象徴でしょう」

「でも、音監の認可が取り消されたわけじゃない。あいつは金になるからね」

 晩年のタカトは、リストからの全曲削除も覚悟で、音楽監理局による検閲への反対運動を行っていた。認可の取り消しを渋ったのはむしろ監理局のほうで、彼が死んでからも楽曲使用料や印税の一部は彼らの懐に収まっている。

 立川の答えに、瑠璃はますます当惑の表情を浮かべた。渋木も困惑を隠せなかった。瑠璃と一瞬だけ顔を見合わせる。

 瑠璃の言いたいことが、渋木にはよくわかった。おそらくこの中では誰よりも長く、立川と「金曜日のミサ」で音楽をやってきたから、余計に。

「立川さん、あんなにタカトるの嫌がってたのに、どうしたんスか?」

 誰かの猿真似をすることに何の意味もない。死人のケツを追いかけたって仕方がない。

 彼の口癖。タカトの曲を演奏すること、それによってタカトと比べられたり重ねられたりすることへの忌避は、言葉にせずとも痛いほど伝わってきていた。

 だから、この間『タオ』をやると言われた時、渋木はすごく驚いたのだ。あの曲はタカトの代表作で、音楽にそれほど関心のない人ですら、一度は聞いたことがあるような歌だ。

 引き入れたいギタリストの――つまり日野の――好きだった曲だと、立川は言っていた。あれは単に日野を釣るための餌だったというなら、まだ話はわかる。

 だが、今度はタカト追悼ライブとは。どういう風の吹き回しなのか、さっぱりわからなかった。

「――“地獄とは他人のことだ“」

 不意に立川が呟く。

「へ?」

「俺たちは誰だって誰かからの眼差しに怯えてる。品定めされるのが怖い。そこから脱却するには、自分も見つめ返すしかないのさ。色んなものをね」

 渋木は瑠璃と再び顔を見合わせた。二人とも、わかったようなわからないような、きょとんとした顔を浮かべていた。日野は慣れた様子で静かに立川を見ていた。

「俺も俺で、いい加減ちゃんと親父に向き合わなきゃいけないなって思ったってこと。ついでに客も集まる。使えるモンはなんだって使うさ。息子による一夜限りの復活、なんてさ、すごく感動的だろ?」

 立川はどこか自嘲気味に言った。

 立川はそれから、野外ライブはまだ構想段階であること、場所や日時が確定し次第追って連絡することを伝えた。

 その後は、セットリストについて話をした。構成として立川が考えているのは、ひとつのバンドあたり三十分ほど。MCと転換時間を合わせれば、できるのはおよそ三、四曲程度だ。

「私、初期の『真』『善』『美』の三部作が好きなんです。『真』はデビュー曲ですよね、当時の映像をネットで見ました。あれ出来たらカッコいいですよね」

 アコースティックギターを巧みに操りながらのパフォーマンス。当時の音楽界をざわつかせた、まだ「期待の新星」だった頃のタカトの曲は、渋木も知っていた。

「……でもあれ、バンドじゃできないですね」

 少し残念そうに瑠璃は言った。

「オレ、あれが好き。なんだっけ、あん、……」

「『アンガージュマン』?」

 瑠璃が口を挟む。

「それ! イントロのドラムロールが超いい」

「わかる、あのダーッてやつね」

 瑠璃の大きな目がきらりと輝いた。かわいいな、と渋木は思う。

「んじゃ、それは決まり。あとは?」

「『パンセ』やりたいです」と瑠璃。

 “人間は考える葦である”。パスカルの著書に名をあやかった、人間の持つ偉大さと悲惨さについての曲。

「いいじゃん」

 とんとん拍子で話が進んでいく。急に明るくなった雰囲気を見ながら、立川がこのメンバーを選んだ理由の一端が、少しだけわかった気がした。

 ――オレたちはこんなにもタカトが、音楽が、好きだ。

「ヒノちゃんは?」

「俺は何でもいいよ。決まった奴で」

 引き続き静観を決め込もうとした日野を、立川がにやにや笑いながらせっつく。

「いっこくらいあるでしょおーやりたい曲。遠慮すんなよお」

「そうッスよお」

 渋木も便乗する。瑠璃も面白がるような目をしていた。全員の視線に気圧され、日野は少し恥ずかしげに目を伏せた。

「……『タオ』」

 消え入りそうな声だった。かちゃり、と眼鏡を指で上げる音。

 やっぱり、と立川が言って、小さく笑いが起こった。日野だけが、きまり悪そうに顔をしかめていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る