人間は自由の刑に処せられている ――サルトル (3)
「蓮ちゃんさあ、好きな人できた?」
夕飯の後。次のミサでやる曲を聴きながら、なんとなく心ここにあらずな渋木を見て、李音が切り込んだ。雨が静かに降っている夜だった。
「はああ? なんで?」
にやにやと笑う李音。いいからお前は勉強しろよっ、と慌てて手で払う。
さっきまで、耳ではドラムの音を追いながら、この間のステージを思い出していたのは事実だった。少し高台で後方のドラムからは、フロントの姿がよく見える。曲が始まる直前に一回、ベースのあの子と目が合ったときの、何とも言えない高揚感。曲が終わった後の、走り切ったような感覚。いつまでも目に残る、内側だけ青い髪と、華奢な後姿。
「瑠璃ちゃんでしょ」
と、ずばり李音は言った。
「ルリチャン?」
「ん? あのベーシストのお姉さん。違うの?」
ぴしり、と身体が強張った。
あの凛とした、少しだけキツい目は、好きじゃないと言ったら嘘になる。ベースを撫でるように弾く白い指。あの人はドラムにリズムを合わせるのもすごく上手かった。
「わっかりやすいなあ」
まあ美人だもんねー、と茶化す李音に、「そんなんじゃねえっつの」と返すのがやっとだった。
たぶん、本当にそんなんじゃないのだ。好きな人、と李音には一口に言われたけれど、好き、という言葉がどういう感情を指すのか、渋木自身もよくわかっていない。李音もおそらくわかっていないだろう。
集落の中は娯楽に乏しく、親が節操なく恋人を連れ込むことも多いから、子どもたちの性の目覚めも早い。十代そこそこで性体験を済ませるのはザラだった。そういった子どもの多くが避妊をしないまま、十代半ばで子どもをつくり、産む。子連れで学歴もなければ定職には就けない。若くして母親となった多くの女が、集落から出られる術もなく、そういう子どもたちを再生産していく。男の方がどうなるかは色々だが、たいがいが素知らぬふりをして、ギャンブルや窃盗や酒乱に興じる。
そういった文化が主流の中で、李音と一緒にいたからなのか、渋木はどちらかというと彼らとは外れた場所にいた。まさに主流にいた自分の母親は、ごくたまに男を連れ込んでいたが、一枚しかない布団の上で我が物顔で寝ている男には、不快感しか覚えなかった。そういう関係性を羨ましいとも思えなかった。
李音と梓音は好きだ。だけどそれは友達としての感覚であって、違う執着によって結びついた関係を、渋木はいまいち想像できない。純にも不純にも、自分が誰かを好きになる、ということが。
「どーなんだろうな」
「何が?」
自分が聞いたことに、李音は既に興味がないらしい。中学校の時から使っている、渋木のお下がりのシャープペンシルを、がりがりとノートに走らせている。手元には中古で買った参考書。見ると、眩暈がしそうなほど英単語が並んでいた。げ、と思う。
「いや仮に、仮によ、オレがあの子を好きだったとしてさ」
「うん」
「上手くいくのかなーって」
「厳しいだろうね」
身も蓋もない言い方だった。
「その言い方、さすがにオレも傷つくからね?」
「だって瑠璃ちゃん育ちよさそうだし、ピアスばしばしの金髪とか好きじゃないんじゃない?」
がりがり。文字を綴る音だけが狭い部屋に響く。
わかりきってはいたことだが、そこまで率直に言われるとショックだというものだ。わざとらしくふて腐れると、「蓮ちゃんって何というかほんとう、お馬鹿だよねえ」と笑われた。
「どうしたらいいんだろうなー、オレ」
どさりと倒れ込んだ古い畳は、ささくれが首に刺さって痛い。雨が降っているからなのか、近くを流れる川の音が、いつもよりも大きく聞こえた。
今日はコンビニの夜勤もない。キッチンを含めてたった六畳のこの家は、物で溢れているように見えるのに、実のところ何もない。こうして狭い家に閉じこもっていると、柄にもなく、自分の未来が全く見えないことを思い出す。
「蓮ちゃんが何か取り繕ったところで、すぐにボロ出るでしょ。そのままでいいんじゃない?」
「そうじゃなくてさ、これからのこと」
んー? と生返事をしたきり、李音はまた黙ってしまう。がりがり。紙が削れていく、硬い音。
一度目の失踪の時は、李音の父親の言った通り、母親は半月ほどで帰ってきた。だが今回は、もう二年以上が経っている。捨てられた子どもだった自分は、もういい加減子どもを名乗れない歳にまでなりつつある。
自分の人生は自分で決めなくちゃならない。この場所をいつか出るのかも、と漠然と思っていたこともあったが、どうやったら集落を出て暮らすことができるのかも、渋木は知らない。
「でも、ドラム始めてから、蓮ちゃん少し明るくなったよね」
「そお?」
「うん。笑顔が増えたっていうか。いいことだと思うよ」
李音は少しはにかみ、「あっそうだ、見てみて」と、照れ隠しみたいに話題を変えた。使い古しのリュックサックから、小さな紙を取り出し、掲げる。成績表のようだ。
「学年四位!」
ぴかぴかとした笑顔。大人びた李音には珍しく、子どもっぽいくらいに誇らしげだ。渋木は一瞬きょとんとし、思わず顔をほころばせた。
「ほんっとお前すげえよ」
深夜になるともう雨は止んでいた。公園のか細い街灯が、申し訳程度に地面を照らす。
しばらく見ないうちに、梓音は髪が伸びていた。帽子の下の前髪は、もう鼻先までつきそうだ。そのことを指摘すると、「蓮ちゃんに言われてもな」と苦笑された。
「ホストみてえじゃん」
昔から渋木はそうだった。切るのを面倒がられたのもあり、いつも肩に届くくらいの髪なのが、気づくと習慣化してしまっていた。
「ここまで伸びてると、まとめられるからむしろ楽なんだぜ?」
「それ知り合いの女も言ってたな。蓮ちゃんから同じセリフ聞くと思わなかった」
梓音は車止めに腰かけたまま、肩をあげて笑った。
自販機で買った缶コーヒーを渡す。梓音は「サンキュ」と受け取り、すぐにプルタブを空けた。渋木も自分のぶんのコーヒーを買って、半分ほど一気に流し込んだ。砂糖水みたいに甘ったるいそれを、しばらく言葉もなく、二人で飲んだ。
中身を空にした梓音の缶は、灰皿に変わった。梓音の取り出した緑色の箱は、コンビニでも買う人の多い銘柄だ。梓音が煙草を吸い始めたことを、渋木はその時初めて知った。
「李音、元気?」
煙草を咥えたまま梓音が言った。ライターをカチカチと鳴らして、慣れた様子で火をつける。彼が息を吸うたびに、かすかに、じりじりと煙草が灰に変わっていく音がした。
「がんばってるよ。この間のテスト、学年四位だって」
「そりゃすげえ」
やっぱ頭の出来が違うんだよな。相変わらず、何もかも諦めたように彼は言う。ぷかぷかとふかした煙が、空に溶けていく。
「同じ双子なのに、どうしてこうも違っちゃったかねえ」
梓音の足が、わざとらしく小石を蹴飛ばした。
木が寒風にざわざわと揺れた。三月も半ばだが、夜はまだぐっと冷え込む。家が集まっている辺りから、「うるさいって言ってんでしょ!」という女の金切り声と、子どもの泣き喚く声がした。「うっせえな」と梓音が小さく舌打ちをした。
一本ゆっくりと煙草を吸ったあと、梓音はいつも通り、「これ、李音のぶん」と封筒を渡してきた。渋木はばつが悪そうにそれを受け取り、街灯の下で中身を改めた。五万円。何度やっても、現金の入った封筒を受け取るのは、生々しさが抜けない。
「いいよ、こんなに。そっちだって大変だろ」
彼がこの金をどうやって手に入れているのかは知らない。訊くタイミングはとっくに逃してしまった。
「渋んなよ。李音がさんざん迷惑かけてんだ。迷惑料だと思えばいいだろ」
「そんな風に言うなよ」
咎めた渋木のことを、梓音は小さく鼻で笑った。「蓮ちゃんは優しいな」と、吐き捨てるように言う顔からは、あどけなさがすっかり消えていた。本人は何も言わないけれど、煙草だけじゃなく、女も、悪い遊びも覚えたのだろう、という気がした。
李音が転がり込んできてから、もう一年近くになる。
あの日聞いた言葉にならない悲鳴も、「女だろおめえもよお」という親父さんの濁った声も、「クソ親父てめえ!」という梓音の怒気も、鮮明に鼓膜に焼きついている。しばらくもせず、「しばらくここに隠れさせて。お願い」と、真っ青な顔の李音が逃げ込んできた。
「親父さん?」と訊くと、李音は唇を噛みしめながら、小さく頷いた。首のあたりのボタンが二つ、乱暴に千切れていた。その様子を見て、李音が一体何をされそうになったのか、嫌でも察しがついた。
押し入れの奥に隙間を作ると、小柄な彼はすんなりと隠れることができた。その後、親父さんが渋木の家を訪ねたが、頑として白を切り通した。直感的に、そうした方がいいと思った。
しばらく李音は外に出ることもできなかった。数日後、梓音が「親父のことなら、もう大丈夫だから」と言いに来て、それきり彼はあの集落を後にした。隣の家にもう人が住んでいない、という事が確認できて初めて、ようやく李音は一人でも外出できるようになった。
親父さんの消息は、集落から消えた大人のほとんどがそうであるように、誰も知らない。隣の家にはいつからか、見知らぬ母娘が住み着いていた。
「……梓音のこと、心配してるよ」
誰が、とは言わなかった。
「そうかよ」
「ホントに戻んないわけ?」
「戻ったっておれの居場所はないだろ」
「そんなことねえよ」
その言葉が嘘だと見透かしているように、梓音はまた一つ、鼻で笑った。
三人でミサに行っていたことが、ずっとずっと昔のことみたいだ。まだほんのりとあたたかい缶を握り込みながら、渋木は思った。
――願いがひとつ叶うとしたらどうしたい?
教会で、漏れ聞こえる音を聞きながら、三人のうちの誰かが言った。「そしたらさ、三人でバンドやろうぜ。おれギターとボーカルやる」「えーずるい、じゃあぼくベースにする」「ドラムしか残ってねえじゃん」「蓮ちゃんでかいしちょうどよくね?」「なんだよそれ」
楽器を買う金などないと知りながら、三人で無邪気にじゃれ合っていた。
初めて自分が舞台に立った日は、「蓮ちゃんは才能あっていいよなあ」と言いながらも、一番楽しみにしてくれていたのは梓音だったと聞いた。
李音は頭のいい高校に行って、自分はドラマーとして教会のステージに立って、梓音はあの集落から出て行った。
たったそれだけのことなのに、ひどく遠くなったような気がするのは、どうしてだろう。
「オレはガキの頃みたいに付き合いたいだけなんだけど」
本心だった。身体が成長しても、社会的な立場が変わっても、梓音は梓音で、李音は李音だ。渋木にとってそれは何の変わりもない。
そんな渋木を嘲笑うみたいに、梓音は肩をそびやかした。
「ばーか。とっくにガキなんかじゃねえんだよ、おれたちは」
吸い殻がひとつ入った空き缶を、梓音はおもむろに地面に置き、思い切り蹴飛ばした。乾いた音を立てながら、空き缶が転がっていく。
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