人間は自由の刑に処せられている ――サルトル (2)
髪はいつもぼさぼさで伸び放題、栄養のあるまともな食事は、ほとんど給食だけだった。自分が学校にいくのと、母親が仕事に出るのはほとんど入れ違いだったから、夕飯に申し訳程度の菓子パンを買い与えられていた。母親の仕事は連日で、洗濯ができるのは週末だけだった。服をそれほど持っているわけでもなく、何日も同じ服を着て行かなければならない時もあった。
最初は、自分のことを特別おかしいとは思っていなかった。集落にいる子供は、だいたいが同じような暮らしぶりだったからだ。ランドセルや制服を集落の中で使いまわすことも、何かが壊される物音や怒鳴り声が絶えず聞こえることも、子どもが顔や手足に痣を作っていることも、ずっと普通のことだった。
学校に通うようになると、自分たちはどうやら「普通」とはズレているらしい、ということに少しずつ気がついた。
周りの子どもの多くが、自分よりもきれいな服や靴を身に着けていること。「あいつ、クサくね」と後ろ指を指されること。露骨ではない程度に机を離されること。行事の帰り、子どもを迎えに来た親が、自分たちを見るなり目を背け、足を速めること。
一つ一つは小さくても、疎外感を育てるには十分だった。だから、集落の子どもたちは、ほとんどが内輪で集まりあって過ごした。
自分より二つ下の双子の兄弟、
母親だけがいる渋木の家とは逆で、彼らの家には酒浸りの父親だけがいた。日雇いの肉体労働の仕事に出かけ、機嫌がいいうちはパチンコに出かけるか、女を買うか、市街で浴びるように酒を呑んだ。機嫌が悪い時は、憂さ晴らしに家中のモノや子どもに当たった。
仲良くなったきっかけは、家にいるのも退屈になって出た玄関先で、偶然彼らの姿を見つけたことだった。冬の寒い日だった。
「家、入んないの」
よく似た顔の二人に尋ねると、「おやじが暴れるから」という短い返事が返った。
「お腹減ったね」
「メシまだなの?」
「うん。おやじが使っちゃったから、メシ代」
よく似た二人は寄り添うようにして座っていた。剥き出しの膝が寒かった渋木には、それがすごく羨ましかった。
「チョコ、食べる?」
チロルチョコが丁度三つ、ポケットの奥底に隠してあった。万引きして盗ったものだった。
悪いことだという意識はなかった。万引きは、集落では九九の答えや漢字の読み書きよりも大事な、生きるための知恵だった。
「いいの?」
二人は同時に言った。三人でがりがりとチョコを食べた。
それからその二人に、妙に懐かれるようになった。次の日の放課後は、集落の砂利道の上で、空気の抜けたボールでサッカーをした。
双子は背格好がよく似ていて、同じサイズの男児用の服をいつも二人で着まわしていた。梓音のほうが少しだけ目つきが鋭く、常に周囲を警戒しているような空気感があった。それは、少しおっとりしている李音のほうが、家でも学校でもいじめられやすいことが影響しているようだった。
「女なのに男の子の服なんてかわいそうとか、キモいとか。よく言われるよ。もう慣れたけど」
廃材の上で足をぶらぶらと揺らしながら、李音は言った。「ぼくはこの格好が好きなんだけどなあ」
「なんで?」
悪意なく、ただただ疑問に思って、渋木は尋ねた。李音のことを馬鹿にしたいわけじゃないが、自分が女の子の服を着たいとか、そんなことを思ったことはなかったから。
その瞬間、梓音が警戒心をもってこちらを見たのにも気がついた。兄らしく弟を守る、という勇んだ面持ち。
「だって、服は梓音とおんなじの着れるし、髪だって短い方がシャンプーも少なくていいし。こっちのほうがゴーリテキなの」
父親に切られたという短い髪を掻きながら、李音はそう言っていた。大人に言われたことをそのまま繰り返しているような口調だった。はにかんだ口元の隙間から、抜けた前歯の隙間が見えた。
それからも、双子とは持ちつ持たれつの関係が続いた。必要な学用品は三人で回しあい、彼らの父親が暴れて家に戻れない時は、誰もいない渋木の家に入れてやった。三人でひとつの菓子パンは少なく、ひもじかったけれど、心は寂しくなかった。万引きがバレて、きゃあきゃあと声をあげながら三人で逃げたこともあった。
小学校六年で、一度、渋木の母親が置手紙を残して消えた時は、彼らの父親にも世話になった。自販機でジュースを買ってくれたり、夕飯に塩辛い炒め物を作ってもらったりした。家で誰かと一緒に温かい食事をとったのは、ほとんど初めてのことだった。ガスが止められていたので、シャワーも借りた。
「蓮ちゃん、お母ちゃん逃げたって? 災難だったなあ、寂しいだろ、え?」
夕飯を食べている折、がさつな笑みを浮かべ、親父さんはグイっと酒を煽った。
「まあそのうち帰ってくらあ。子どもを心配しねえ親なんかいねえよ」
大柄で、赤ら顔の親父さんは、その日は上機嫌らしく、力任せに渋木の頭をなんども撫でた。大人の男の人は家にいなかったから、なんだか慣れなかった。酒と煙草と汗の混ざったにおいがした。
「蓮ちゃんも今のうちに勉強してなあ、こんな場所からはさっさと出て行きな。残ってたってなあんもいいことねえよ。ここにいるような大人は、皆ろくでもねえ奴ばっかだからよ」
自虐の混じったその言葉に、渋木はなんと反応していいかわからなかった。固まった渋木を見て、しばらくの間のあと、親父さんはかっかと快活に笑った。その笑った目じりが、双子にどことなく似ている気がした。
その晩遅く、隣の家からは、「生意気たれんなクソガキぁ!」という怒鳴り声と、「おやじ、やめろよ!」「んだとこの野郎ぉ!」ともみ合う声とが聞こえてきた。ガラスの割れるような音もした。静かになってから、心配になって外を覗くと、外では蹲って泣く李音と、頬に赤黒い痣をつけた梓音がいた。
「泣くなよ、バカ」
叱るように、小さく梓音が言った。
どこか遠くから、赤ん坊の泣く声がしていた。それを掻き消したくて、拾った音楽プレイヤーからでたらめに曲を流した。何者でもない俺たちは何にだってなれるはずだと、機械の中にいる神が歌った。いつもなら「うるさい」と飛んでくるはずの母親の声は、どこからも聞こえない。
はじめてピアスを空けたのは、高校をやめた次の日だった。全ての発端は母親の二度目の失踪だった。高校への一万五千円の納入金は、母親が払うと約束していたものだったのに、たった数千円を残して母親は消えた。前の日の晩に「蓮はもういい歳だから、一人でも大丈夫でしょ」と言われたことを、なんとなく思い出していた。その時に「ああ、うん」と気のない返事をしたことも。
何と言えばよかったのだろう。自分はまだ一人では生きていけないと、泣いて縋ればよかったのか。何度考えても答えは浮かばず、考えるのにも疲れて、そのうち考えるのをやめた。
母親は中卒で、風俗とスナックのダブルワークをしながら、不器用ながらに一生懸命自分を育ててくれた。たまに不安定になることはあったが、殴られたり怒鳴られたりすることは、数えるほどしかなかった。自身は十代半ばからほとんど一人の力で生きてきたような、強い人だった。だから息子にもそれを期待したという、それだけだったのかもしれない。
学校に行けば、真綿で首を絞めるような、うっすらとした嫌がらせがあった。万引き一つに気後れするほど頭を下げる、若いがひどく潔癖そうな担任が、自分のことを理解してくれるとも思えなかった。自分の居場所などまるでなかった。自分の金を切り崩してまで通う熱意もなく、高校は中退した。
外ではいつも通り、すぐ近くを流れる川の音と、赤ん坊の泣き声がしていた。
ドン・キホーテで安いニードルを買った。まずは両耳たぶに一ヶ所ずつ。穴をあけるのには多少の緊張と痛みを伴ったが、ざわざわとした心の落ち着かなさが、少しずつ凪いでいくような気がした。
毎日の中で降り積もる喪失感やストレスは、そのままピアスの穴の数に変わった。二つ目を空けたのは、それから数日後。母親が家に残していた数千円が、もうすぐ底を尽きようとしていた時だった。
高校をやめたのは、周囲の無理解な大人たちに対する復讐のつもりだった。教師なんて職に就こうと思うようなご立派な大人には、
高校をやめてからは、アルバイト先を二つ増やし、代わる代わる通った。一度に入れるシフトには限度があったし、自分で当面の生活を賄わなければならなかった。必要最低限の生活を維持するだけでも、かなりの金が必要だった。漫然と金を稼ぎ、生きることでそれを消費した。
唯一の家族に捨てられ、学校を捨てた渋木を縛るものなど何もなかった。夜勤の隙間でうとうとしながら、オレは死ぬまでこんな風に働くんだろうなと思った。何にも縛られない代わりに、彼は何も持っていなかった。自由と言えば聞こえはいいけれど、心の中にはすかすかとした風ばかりが抜けた。
言いようのないどす黒い感情が溜まって、溢れそうだった時は、決まってピアスの穴を一つ増やした。「ピアスすごいね」「痛くないの?」とぎょっとした顔をされると、少しだけ胸がすくような気持ちがした。それでも、心の中の寂しさまでもが埋まるわけではなかったけれど。
頭がよかった李音は、掃き溜めの大人たちを反面教師に勉強し、集落ではだれも行けなかったようなクラスの高校に受かった。彼の制服代や授業料を捻出するために、半身の梓音は中学を卒業する前から日雇いの仕事に出ていた。それ以外にも「割のいいバイトがある」と言い、ガラの悪そうな連中の使いパシリのようなこともやっていた。全ては自分の生活と、李音のためだ。そう思うと苦ではないと言っていた。
「李音はうんと勉強すればいいんだよ。あいつは、おれと違って頭がいいから」
何もかもを諦めきったような、いつかの梓音の言葉。声変りが終わったばかりの、がらがらとした声だった。
「大学に行って、ちゃんとした仕事に就きたい。それで、ぼくのためによくしてくれた梓音と蓮ちゃんに、うんと楽をさせてあげたい」
真新しいシャツとスラックスに居心地悪そうに身を包み、李音は言った。彼の制服代は、渋木のアルバイト代からも出資したが、ほとんどは梓音の稼ぎから出した。当の梓音は「ばーか、そんなのいいんだよ」と照れくさそうに言っていた。二次性徴を終えた彼らは、元の性差もあって、以前ほど似た兄弟ではなくなっていた。それでも笑った目元がそっくりだった。
ほとんどの生徒が大学進学をする高校に通う李音。掃き溜めの子どもの半数が行き、その半数が中退する高校をやめた渋木。受験する金があったら李音に回すと、端から高校進学をあきらめていた梓音。
兄弟のようだった三人は、どこからか、違う方向を向き始めていた。
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