善人なをもて往生とぐ、況んや悪人をや ――親鸞 (5)
第一志望には落ちた。
滑り止めで受かっていた私立大学に行くか、浪人してもう一度受験するかで両親がもめた。どちらも相応に金がかかるのは変わりない。母親は「浪人なんて経歴に傷をつけるようなもの」と嫌がり、父親は「あの大学なら浪人なんていくらでもいる。初志貫徹するべきだ」と言い張った。
結局「あなたに響哉の何がわかるの」「ずっとあの子を見てきてサポートしてきたのは私の方なのよ」と押し切り、軍配は母親の方に上がった。
「あの大学だって相当レベル高いんだし、有名な人だってたくさん出てるんだから。響哉は何も気にしなくていいのよ」
口ではそう言っていたが、大学のことを何より気にしていたのは、おそらく母親当人だっただろう。
大学進学を機に、親元を離れた。
狭いが生活には事足りるアパートで、たどたどしく一人暮らしを始めた。家事などは母親に任せきりだった分、大変だと思うことも多かったが、家からの開放感は多少あった。
新居に越してほどなく、立川がギターを届けにきた。
「持ってきたよ」
立川がケースを渡してくる。外はまだ寒いらしく、鼻の頭がうっすらと赤かった。
立川の進路は、センター利用で受かった私大だったはずだ。理系教科が弱い代わりに、文系教科には憎たらしいほど強い奴だった。倫理だけはついに一度も勝てなかった。学校の方針とは対照的に、最初から国立大学は視野に入れなかった立川は、何かと追い詰められがちな受験期も悠々としていた。
立川のそういう器用さや、何にも縛られていないような身軽さが、羨ましく――時には恨めしくなったこともある。
それでも、寒空の下わざわざギターを届けに来てくれた。そのことが嬉しかった。
「じゃあね」
ギターを私終わるや否や、立川はあっさりと身を翻す。
「立川」
思わず呼び止めた。立川は顔だけで振り返る。
「ありがとう」
ステージの上のあの時みたいに、立川はにっと口角を上げ、再び歩き出した。空っぽになった狭い背中はみるみるうちに遠くなった。それ以来立川に会うことはなかった。
立川が行方不明らしいという噂を聞いたのは数年後のことだ。同窓会の幹事を務めた同級生いわく、「いくら連絡を取ろうと思っても通じない」「誰に尋ねても行方がわからない」ということだった。日野も「何か知らないか」と訊かれたが、生憎なにひとつ知るところはなく、知っていたはずの連絡先もとっくに音信不通になっていた。
大学生になってからも親の干渉が終わったわけではなかった。段ボールいっぱいの仕送りは有難がったが、頻繁に電話がかかってくるのは、正直に言って負担だった。
幸い、家に押し掛けてくるようなことはなかった。音楽をやめるように言われていながら、ギターを弾くためにこっそり音楽サークルに入ったこと、貯めたバイト代でギターを買ったこと。サークルを引退してからは、息継ぎをするみたいに煙草を吸いだしたこと。その全てが露見してしまうことが怖かった。
大学では英語の教職課程を採った。最初は単なる保険にすぎなかったが、家庭教師のアルバイトをするうちに、教師という職を真剣に検討するようになった。一応容認されてはいたものの、親にはあまりいい顔をされなかった。
教職課程は、取らなければいけない授業が多い。ひとり、またひとりと、学年が進むにつれ、教職を望む同級生は櫛の歯が欠けるように少なくなった。引き際がわからないまま、母校で教育実習を終え、教員採用試験を受けた。
縁あって母校に勤めだしたが、教員は覚悟していたよりもずっと激務だった。仕事の山が文字通りの「山」だというのを、デスクに積み上げられた大量のノートとプリントを見て、日野は初めて知った。部活の顧問も任せられたから、朝はまだ薄暗いうちから起き出し、学校へと向かった。保護者の対応やテストの採点で、学校を出る頃には日をまたぐことも少なくなかった。
睡眠時間は削れていくばかりだった。古い校舎の職員室には暖房がなく、冬は石油ストーブで暖を取るしかなかった。自分のために入れたコーヒーを飲み切る暇さえなかった。絶え間なく続く頭痛に、強めの鎮痛剤を飲みながらしのいだ。
ひどく疲れているはずなのに、床についてもなかなか寝付けなくなった。音楽は頭痛を強めるばかりで、とても聞けたものではなかった。ストレスに比例するように酒と煙草の量が増えた。胃はますます荒れ、鎮痛剤と共に胃薬も手放せなくなった。
それでも手に職があるだけましだ。教員免許を取った同級生の中には、アルバイトをしながら非常勤講師をしている人もいる。そんな風に自分を慰めながら仕事を続けた。
授業と雑務の隙間の中。生徒が万引きをしたコンビニまで出向き、拗ねる生徒の頭を無理やり下げさせながら、謝罪したこともある。
「あんた先生でしょ? 教育のプロでしょ? 困るんだよ、ちゃんと躾してもらわなきゃ。学校で何教えてんの?」
店主は八つ当たりのように言った。「申し訳ありません」と繰り返しながら、言いたいことはいくらでもあったはずなのに、言葉にならなかった。
「いじめが起こったのは、日野先生がはっきりとした態度をとらないからでしょう?」
万引きをしたあの生徒がいじめられているとわかった時、誰かが言った。
「いつも聞くんですよ。日野先生の道徳の授業は、結局何が正解なのかわからないんだって。そういう授業のやり方をしているから、生徒も、何が良くて何がダメなのかすら、わからなくなっちゃうんじゃないの?」
詰る声を、まあまあ、とねっとりした声が取りなす。
「とにかく、日野先生は若いんだから、もっと頑張ってもらわないと」と、日野に顧問を押し付けた年配教師が、日野の背中を力強く叩いた。
その瞬間に、何かがぷつり、と切れた。
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