善人なをもて往生とぐ、況んや悪人をや ――親鸞 (3)


 それから、立川の友達や有志のメンバーを入れ、「倫理観」という名前のバンドを結成した。命名は、「お前はもっと倫理観を持った行動をしろ」と教師にたしなめられた立川だ。彼なりの皮肉だったらしい。

 ある日は、他のメンバーと共に、楽器屋へと連れていかれた。ごみごみとした路地の奥、どこか怪しげな楽器屋は、店主の胡乱さこそ苦手だったが、品ぞろえは見事なものだった。壁じゅう、床じゅうに並べられた楽器が目にも鮮やかだった。

 選ぼうにも何を基準にしたらいいのかわからない。「好きなのを選べばいい」と言われたものの、目は自然となるべく無難なものをと探してしまう。これいいな、と思ったものは値札を見たら二十五万円だった。思わずぎょっとした。

「せっかくなんだからパッとした色選べば? 学祭でやるときはどうせ制服なんだしさ。ほら、これとか」

 いつまでも悩む日野に見かね、立川が示したのは、赤く光沢のあるストラトキャスターだった。ピックガードはボディよりも少し深い臙脂。

「ちょっと派手すぎないか」

「いんじゃね?」

「そーそー、日野自体が地味なんだから」

 ドラムなので手持無沙汰なシンと、既にベースを選び終わっていた松本が、そう口を挟んだ。返す言葉もない。

「赤、か……」

 日野は顎に手を当てる。

 件のギターは鮮やかだが、指板とピックガードの渋い色もあって、どことなく落ち着きのある風体だった。正直なところかなり気に入ってはいたし、値段も――予算より少し値は張ったが――良心的な部類だ。だが、自分には似合ったものか。なにしろ、何を選ぶにも黒や紺といった無難な色ばかりだった。

 考え込んでいる隙に、眼鏡をひょいと取られた。視界がぼやけて何も見えない日野は、眉間に深く皺を寄せた。不満からではなく。

 眼鏡の度が案外強かったものらしく、立川は「うわっ」と声を漏らす。

「ここんとこの色がさ」

 指でフレームを示す立川。

「ピックガードのとこの赤と一緒だなって思って。ヒノちゃんっぽいなって思ったんだけど」

 臙脂のフレームの眼鏡は、どうしてそれを選んだのかも忘れるくらい、ずっと昔からかけている。

 立川のその一言が、最後の一押しになった。戻ってきた眼鏡をかけなおし、日野は一言呟いた。「決めた」と。

 半ば無意識に、日野は自分の眼鏡を押し上げた。

 貯めたお年玉を崩してギターを買った。気前のいい店主はいくらか値引きをしてくれたが、それでも決して安い買い物ではなかった。黒いギターケースを背負いながら、日野は言い知れぬ高揚感に包まれていた。基礎練は今日から始めるつもりだった。毎日のように弾いて大事にしようと決めていた。

 帰る頃にはいつもよりも遅くなっていた。母親は風呂に入っているようだった。ギターを自室のクローゼットにしまってから、ラップのかけられた夕飯を温め直して、かき込むように食べた。

 タカトのベストを聞きながら、手早く課題を片付けた。両親が寝静まっているのを確認して、そっとギターを取り出す。丁寧にチューニングをし、おにぎり型のピックをじゃらりと下ろした。アンプを通さないエレキギターは、きらきらと澄んだ音を奏でた。愛おしい気持ちで満たされながら、何度かコードを鳴らしているうちに、気づくと夜が更けていた。布で丁寧に磨き、きちんとペグを緩めて、日野はギターをケースにしまった。

 生まれて初めてできた宝物だった。

 翌日学校から帰ると、日野の宝物は近所のゴミ捨て場に置かれていた。

 横を車が通り抜け、もろに排ガスを浴びた。日野はしばらく立ち尽くしていた。血の気が引くような思いだった。日野の母親は掃除のためにたびたび自分の部屋に入る。見つかったのだ、と思った。混乱と、血の湧くような怒りとに同時に襲われた。

 自分の聖域を踏みにじられたというおぞましさと、忌まわしさ。親に対してこんな気持ちを覚えたのは初めてだった。自分にとってあのギターがどれほど大切だったか。それを問答無用で捨てられることがどれほどショックなのか。そんなことを何とも思っていなさそうな母親の態度は容易に想像がついたし、実際にその通りだった。

「ギターだか何だか知らないけど、そんなことしてる場合じゃないでしょう。少しでも勉強時間を作らなきゃ、生半可な覚悟じゃ合格しないんだから。大学受験には人生がかかってるのよ」

 問いただした日野に対して、母親は言い聞かせるように言った。ギターを無断で捨てたことなんて全く悪びれない様子で。

 せっかくいい高校に行ったんだから、いい大学にいって、いい職業に就いて、いい人生を送るべき。いつもと全く同じ調子で、母親は日野を説き伏せる。反駁しようとした日野を凍りつかせたのは、呆れたように溜息をついた母の一言だった。

「第一、音楽なんてやって何になるの。もっと役に立つことをすればいいのに」

 なくても生きていけるものには存在価値がない、とでも言わんばかりの口調。道端のゴミでも見るような冷たい目。頭に流れ込んできた感情を処理するのには、しばらく時間がかかった。

「役に立つってなんだよ」

 日野は生まれて初めて、母親の前で声を張った。

「俺は音楽に何度も救われてきたんだよ」

 必死だった。自分を唯一守ってくれるものを失いたくない一心で、日野は声を振り絞り、続けざまに言葉を紡いだ。半ば口論に近いやりとり。母親は「わかってちょうだい」と日野を諭そうとしたが、日野はぎゅっと拳を握り込めたまま、決して退かなかった。言葉を重ねれば重ねるほど、言いたいことは伝わらない。空回りする自転車を必死にこいでいるような虚しさに襲われた。

 夕飯も食べないまま、母親と言い合っているうちに、父親が帰宅した。すぐさま母親から告げ口をされた父親は、露骨に顔をしかめたけれど、母親に加勢はしなかった。日野はそれに安堵し、母親は悲しそうな悔しそうな顔を浮かべていた。

「別に、いいんじゃないか」という父親の鶴の一声で、日野はギターを続けられることになった。「成績が下がったらすぐに捨てる」という条件付きで。

 夕飯を食べる気にはなれなかった。自室に戻ろうとした時、母親が日野を引き留め、念を押すように言った。

「お母さんは心配してるのよ。口うるさいと思うかもしれないけど、ぜんぶ響哉のためなんだからね」

 その縋るような眼差しに、日野は何も言えなかった。




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