トラック3
私は何を知るか? ――モンテーニュ (1)
*
紙幣が舞う。冷たい色の月光を浴びながら。
地面に倒れた人影を尻目に、立川は曲がったパイプを放り捨てる。クリーニングに出さなくっちゃな。砕けた錠剤をまたぎながら、手に付いたものをズボンの裾で拭う。
真っ黒な革靴。濃いグレーのワイシャツ。ネクタイは締めていない。喪服のような一揃いのスーツは、夜闇とアスファルトに簡単に溶け込んでしまう。ビビッドピンクのピアスだけが、鮮やかに光を返す。
視界が少しぐらつくのは、先ほどの
悟られないように彼は歩く。行く先はすぐ傍のビルの階下。足取りに迷いはない。
「調子こいてんじゃ、ねえぞ……」
影の一つが這うようにしながら、声も枯れがれに言う。
「柳沢さんが……テメェを許すと思ってんのか。インディーズを、好き勝手に掻き回しやがって……ッ」
「どっちが」
立川は鼻白む。
「クスリ漬けになる以外にもやり方はある。俺はそれを証明しようってだけだよ。あの人だって了承してる」
「ほざけ、そんな筈が」
「しつこい男は嫌われるぜ?」
冷やかに言い、立川は踵を返す。これ以上、こんなところで足踏みはしていられない。
若者たちを置き去りに、立川は割れた看板をくぐる。急な階段を下り、バーを模したような重い木戸を開けた。からん、と軽快な音。香のようなにおいが鼻をつく。
まず目に入るのは、壁にかけられたエレキギター。ストラトキャスターからレスポール、ムスタングに至るまで、実によりどりみどりだ。とっくに廃盤になったデザイン、著名人のシグネチャー・モデル。自分が買ったのと同じものもある。
――アングラな楽器屋だ。今日び街中では品薄気味の、ギターやアンプやエフェクターの類が、ここぞとばかりにひしめき合っている。その隙間を縫うようにしながら歩く。通い詰めているだけあって、その所作は馴れたものだ。
店主は奥でギターの整備をしていた。弦を取られて丸裸にされたネックに、またひとつひとつ、弦が差し込まれていく。
「オレの子供たちを、ずいぶん可愛がってくれたみてえだなあ、陽介」
店主――柳沢は、顔も上げずに言った。彼はベーシストだったが、その声もまた地を這うように低い。もっとも、今はとっくに引退した身だが。
立川はドラム用の丸椅子に腰かける。しなやかに足を組みながら、
「子供なんてよく言うぜ。そっちこそちゃんとしつけておけよ。話が違う」
「悪いな。あいつらはどうも反抗期らしい」
ぱちん。弦の端を切る音が静寂を断った。
男はホームレスのような風情だった。歳の程は初老を過ぎた程度。髭も髪も伸び放題で、目にどろりとした影がある。何枚も重ねた煤けた古着が、いかにも世捨て人といった佇まい。
「泥棒猫らしく人の女をつまみ食いした気分はどうだ?」
仄暗い眼差しの奥に、鋭い眼光が覗く。
相変わらず早耳なことだ。立川は肩をそびやかす。
「言ったろ、悪くなかった」
「――クソガキが」
「けしかけてきたのはそっちだろ。俺だって本意じゃない」
「お薬は苦くて飲めないか? とんだお子ちゃまだな」
「性に合わないだけさ」
はん、と鼻で笑う声。チューニング・ペグを回しながら、柳沢は眉根を寄せる。
「寂しいこと言いやがる。ロックンロールとドラッグとは昔から不可分だっただろ? 天から降ってきたリリックが何人の人間を熱狂させた?」
「薬をやらずにいい曲書いてたヤツなんてそれ以上にいる」
「タカトとかか?」
立川は不愉快そうに舌打ちをした。「あいつはロックンローラーじゃない」
「つまらねえ揚げ足とるなよ。――わかってくれよ陽介、俺だってどこぞの野良猫野郎のせいで商売あがったりなんだ」
「誰だろお、全く見当もつかないね」
立川は椅子から立ち上がる。色とりどりの四角が並ぶ棚へ、自然と足は引き寄せられる。
「ひとつ訂正。俺はもう野良猫じゃない。生憎首輪つきなんだ」
そうかよ、と興味がなさそうな返答。チューニングを終えたギターは、今度はクロスで磨かれているところだ。かすかに残った指紋の跡が、布地に拭い去られていく。
「じゃあオレの猫にはなってくれないわけ。いつでも歓迎するぜ?」
「悪趣味な冗談はやめてくれよ」
拒否感を露わにし、立川は告げた。ジョークの通じないヤツだ、と柳沢は愉快そうに笑う。
まったくここにいると調子が狂う。それでも来てしまうのは、ここが立川の知りうる限り一番の品ぞろえだからだ。音楽に対して妥協することは、彼の信条に真っ向から反する。
「エフェクターか。これ以上そろえてどうするつもりだ?」
コンパクトエフェクターに見入る立川に、見かねたように柳沢が言う。
「どうもこうも、俺は最高の音ってヤツを追い求めてんのさ」
わざと軽薄な声音で答える立川。手はエフェクターを持ってみたり、つまみを捻ったり。
店頭に並ぶものは、どれも持っているものばかりだ。かけた金は数えるのも憚れるほど。それでも、まだ足りない。届かない。いくつそろえても、組み合わせても、彼の理想はちっとも近づいてはくれない。
喉が潰れそうなほど歌の練習を重ねても、ある一点で壁を超えられないのに似ている。何が足りないのだろうと自問するうちに、足はいつもこの店に向かってしまう。
「“神“でも蘇らせる気か?」
立川はタカトを引き合いに出されるのが嫌いだ。それをわかっていて、柳沢は立川を揶揄う。
「神は一人で十分だ」
「唯一神ってヤツか? お前も存外、根っからのクリスチャンなのかもな」
「アンタには関係ないだろ」
ふてくされた口調。手に取っていたものをもとに戻した時。
「オイオイオイ。その言い方はないんじゃねえの?」
――ぞっとするほど平淡な声が、立川の鼓膜を震わせた。
思わず振り返る。
覇気を宿した目だ。先程までの、どろりとした倦怠感など伺えないほど。
「調子に乗んなよ、小僧。誰のおかげで“金曜日のミサ”ができてると思ってる。誰のおかげで楽器が、アンプが、スピーカーが、
鼓動が早くなる。かすかな震えごと、汗を握り込む。それでも何も言えなかった。
うすら笑いの消えた柳沢の表情。目を合わせていられなかった。動揺した自分に見て見ぬふりをして、立川は無言でその場を後にする。
「いつでも恩に報いてくれていいんだぜ? 子猫ちゃんよお」
けらけらと乾いた笑いが、立川の背中を追いかける。楽器の間を器用に縫い歩き、重いドアに手をかけようとした時。
「お前にはタカトは超えられねえよ」
追い打ちのように柳沢が言った。
「ぬるすぎるんだ。約束の一年どころか、一生があっという間に終わるぜ」
「……ほざけよ。いつかそれを訂正する日が来る」
立川は柳沢を鋭く睨み返した。一握りの焦燥感に、じりじりと焦がされながら。
返事が聞こえるよりも先に、立川は店を後にする。
*
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます