第21話 見える娘が求めるもの
数日前に傷と穢れまみれで静真を保護した時は心臓が止まるかと思った。また自分の知らないところで大事な人がいなくなってしまうのかと。
どうしてここまで、あの妖に心を傾けてしまうのか、実は陽毬にもわかっていない。
だが、初めて出会ったとき、静真はうなされながら、つぶやいた言葉が耳に残っているのだ。
『一人は、いやだ』
一筋、こぼれた涙がとても悲しくて、見ほれてしまって。
この美しいひとを知りたいと思った。だから食事を理由に引き留めた。別れを考える前に誘っていたのだから、我ながら大胆だ。
少しずつ少しずつ気を許してくれているのがわかって、野良猫をなつかせているような気分になったのは内緒である。
静真というひとは、まったく素直じゃなくて、不器用で、自己評価が低くて、でも、とても優しいヒトだった。
来てくれることがうれしくて、同じ時間を過ごすことが幸福で、食べる姿がかわいくて。
できたら、陽毬がいる場所を安らぎにしてほしいといつでも願っていた。
だから、突然来なくなってしまったことに衝撃を受けた。彼が深く傷つき悲しみを抱えていることをわかっていたから、注意していたつもりだったのに。
陽毬から会いに行くことができないことが悔しくて、ようやく会えて、傷だらけの静真に言うつもりのなかった言葉まで告げてしまったのは今思い出しても顔が熱くなる。
首に手をかけられたとき、確かに苦しかったし怖くはあったのだ。
ただ妖に命を狙われることもあったため、静真が本当に陽毬を殺す気がないのが伝わってきて、それよりも静真が傷を見せてくれたことがうれしくも悲しかったのだ。
泣き疲れた陽毬が寝ている間に静真は出て行ってしまい、彼が陽毬の言葉をどう受け止めたか知ることはできなかった。
久次のご飯を食べて帰ったから大丈夫だという言葉を信じるしかない。
確かに、おにぎりも味噌汁も完食されていた。ご飯が食べられるうちはまだ立て直せるというのが陽毬の持論である。
また、静真は来てくれるだろうか。だが次会うときに陽毬は平静でいられるだろうか。
ひゅう、と寒風が吹きすさび、陽毬は身を縮める。
「お鍋がおいしい寒さです」
キムチ鍋や、豆乳鍋。もしくはもつ鍋などもいいだろうか。
いいや、彼はあっさりとしたものが好きだから、水炊きのほうがよいかもしれない。
だが、そろそろ正月だ。ケーキを食べる約束は無理そうだが、まだ年越しそばとおせちとお雑煮がある。静真はそれまでに来てくれるだろうか。
陽毬は渋郎の続報を待っているところだ。静真が来なかった間も、渋郎が消息を伝えに来てくれたから、落ち込まずにすんだ部分もある。
心が甘くうずかせながらも、今は大学の単位をとることに集中しようと、陽毬は気合いを入れる。
だが、人気の少ない森の近くで結い上げた長い髪を揺らし、ゆったりとした天狗装束を身にまとった青年の姿を見つけて、陽毬は思わず立ち止まった。
す、と指先が冷たくなっていく。
その姿は、陽毬が今まさに胸に思い描いていた天狗、静真そのものだった。
面をつけておらず、あらわになった顔で、陽毬を見つけると青年はずんずんと近づいてきた。
「お前が狙われている。安全な場所へいくぞ。俺にはお前が必要なんだ」
そのような言葉をかけられて、陽毬はぱちぱちと瞬きをした。
とられかけた手を引いて、数歩下がる。
「静真さんに、何をしましたか」
陽毬が固い声音で問いかければ、青年は驚いていたもののぎゅっと眉を寄せていぶかしげにする。
「陽毬、何を言っているんだ」
「だめですよ。静真さんは私のことを名で呼びません。リサーチ不足でしたね」
冷静に返せば、普段静真が浮かべないような傲慢な表情に変わった。
「ふん情婦の名を呼ばないなんて、あいつもずいぶんすかしたことをするもんだ」
とたん、怜悧で端正な静真の姿が揺らぎ、黒髪に赤い目をした青年天狗、佐徳の姿に変わる。年齢は静真と同じに見え顔立ちは男らしく整っているものの、陽毬は彼の表情の端々に卑屈さと尊大さを感じた。ばさりと背中に広がるのは静真の背にもある天狗の黒い翼だ。
短くなった髪を無造作に掻き上げた佐徳は、せいせいしたと言わんばかりに息をつくと陽毬をのぞき込んできた。
「しかし惜しかったなあ。名前はうかつだったが、ちゃんとあの陰気野郎の顔を再現したはずあだ。
「同じなの見た目だけですよね? 仕草も表情も別人じゃないですか」
素で驚いた陽毬が言えば、佐徳はあっけにとられたように目を見開いた。
「はあ?」
「というか静真さん言葉は高飛車ですけど、ものすごく優しいですし気遣い屋さんですよ? あと姿勢がそこまで悪くありませんし、私に何かお願いするときは一呼吸間が開きます。似ても似つきませんって!」
「お前気味悪ぃな」
陽毬が真顔で言いつのれば、佐徳は恐ろしく引いた顔をしていた。
が、陽毬にとっては当然のことだ。何せ相手は静真、こちらがなんとか読み取らないとわからないのだ。
それに見慣れれば静真の感情はとても豊かだ。おいしいときとそうでもないとき、気が休まっているときがきちんと顔に出る。まあ、それを久次に話したときは信じられない顔をされたが。
考えつつ陽毬は鞄を抱えて、眼前の天狗を見つめた。
「それで、天狗であるあなたは私を誘拐してどうしようとしていたんですか」
問いかければ、眼前の佐徳ははっと我に返ると、意外そうな顔をした。
「なんだ、状況わかっていたのか」
加虐的な顔を浮かべる佐徳に、陽毬は全身に緊張をみなぎらせる。
この天狗は無理に連れ出そうとしていたのだ。しかも静真を見ている通り、そして久次から言い聞かされていたから、上位に位置する妖であることは理解していた。
見えるだけのただの人間である陽毬が隙をついて逃げ出すことなどできるはずがない。
だが陽毬はこのような状況に慣れてもいた。
こっそりと、抱きしめた鞄のポケットに手を入れ、短縮ダイヤルをまわして久次に連絡を入れる。
「すぐに殺さなかったのですから、生きている私に用があるんですよね?」
これで時間を稼げば久次が駆けつけてくれる。ここ最近久次は陽毬の部屋に泊まっていたからすぐに気づくはずだ。
眼前の天狗は、陽毬がか弱い小娘であると大いに侮っているから、会話にも応じてくれている。陽毬にできることはなるべく時間を稼ぐことだ。
佐徳がけだるげな仕草で片手を上げれば、どこかからともなく天狗が数人、降りて陽毬を囲む。
「まあ、どうでもいい。おい女、お前に天狗の贄になる栄誉を与えてやる。静真の女なら喜べ」
そう内心決意していた陽毬だったが、その言葉に頭が真っ白になる。
「え……?」
吐息のような疑問に、佐徳は悦に入った用に高慢に続けた。
「あれは里が作った番犬なんだ。それをなつかせようだなんて片腹痛い。人間風情がどうこうしていいと思うなよ。番犬はただ飼い主である俺たちの言うことを聞いてりゃいいんだ。みすぼらしい半端なあれを仕込んでやったのは里だぜ? まだまだ死ぬまで働いてもらわなきゃいけないし、幸せになるなんて冗談じゃない。ほかのことに感情を動かさなくていいんだよ。そもそもあれは俺のおもちゃなんだからな。俺以外に感情を動かさなくていいんだよ」
鋭く威圧された陽毬が思わずひるんでいれば、にんまりと佐徳は笑った。
「この程度の殺気で恐れるなんて、やっぱりただの人間は弱いなあ。だが、貴様がいるおかげで静真が絶望に染まる顔が見えるからなそれだけは感謝してやろう。あれは幸せになる権利がないんだからな」
陽毬は人は本当に理解できないことを言われると思考が止まるのだな、と実感した。したくなかったが。
同時にすうと頭の芯が冷えていくのを覚えた。そうおびえからではない。
わき上がってくる熱は、そう。怒りだ。
「よく、よくわかりました」
静真という青年について、陽毬が知っていることは少ない。だが、愛情を注がれてこなかったのは言葉や態度の端々からひしひしと感じていた。周囲の関係に恵まれなかっただろうと想像がついていたが、これほどとは思わなかった。
このような輩にわずかでもおびえたことが許せなかった。陽毬の震えは収まっていた。
凜、と背筋を伸ばした陽毬は瞳に烈火の怒りを宿して佐徳を射貫いた。
「あなたがたがどれほどの仕打ちを静真さんにしてきたのか。あなたが、静真さんにふさわしくないことが」
「……は?」
佐徳の言葉が低く威圧的に響いたが、陽毬はもうひるまなかった。身のうちからこみ上げてくる怒りのまま、真正面からにらみ上げる。
「誇り高く高潔な静真さんの美しさも知らず、ただ利用しようとする醜さは見るに堪えません。あの人の心を縛り付けようとするのなら、私はあなた方を許しません」
静真のためになれば良いと思っていた。あの人が幸せでいれればよいと、ずっと思っていた。だがだめだ、これは私怨でしかない。何ができるわけでもない。だがこの天狗達から静真を引きはがしたくてたまらなかった。
自分にこれほどの怒りがあると思っていなかった。
烈火の怒りを見せる陽毬に、佐徳が無意識に足が下がる。
が、佐徳はそれを認めることができなかった。目の前にいるのは見れるだけの術も使えない戦うこともできないただの女なのだ。
そんな女に一瞬でも気圧されるなどあり得ない。あり得てはならない。劣等感が刺激された佐徳の胸の内に憎悪がわき上がる。
「は、人間風情が粋がるな! ……ところで、助けを待っているんだろう?」
陽毬は佐徳の言葉に顔色を変えなかったが、その通りだった。
しかも周囲が静かすぎることにようやく気づく。この大学の敷地はそれなりに広いが、ここはそこまで人が通らない通路ではない。
それなのに誰も通りかからないと言うことは。
「このあたりには人払いの結界を張っている。まあそもそも貴様ごときを捕まえるなんて雑作もないがな」
余裕たっぷりに言い放つ佐徳の自信は、あながち慢心というわけではない。
「抵抗してみるか? その威勢を完膚なきまでにへし折ってから贄にしてやるよ」
一歩佐徳がじりと、あおるようにゆっくりと踏み出してくるのに、陽毬は身を翻した。
すぐに背後に控えていた天狗に手首をとられたが、陽毬はポケットに携帯しているお守りを押しつけようとしたが、なぜかその前に天狗が弾かれたように手を離した。
「ギャッ!」
まるで熱した鍋にでも当たったように叫び声を上げて、陽毬は戸惑ったが後ずさる間に走った。
久次特製の破邪札入りのお守りを使おうとしたのだが、その前に何かに助けられた。ほのかに温かいのはコートのポケットに入れたものだ。
渋郎が、静真から託されたと言って渡してくれたその護符が弾いてくれたのだとわかって胸が泣きそうになるほど締め付けられた。だがまだ窮地は去っていない。
天狗から見えないとこで、かくれんぼ用の札を使ってやり過ごす。それで何度も窮地を乗り越えてきた。
しかし今回は相手が悪かった。
「遅いなぁ」
「ひゃっ」
いたぶるような声音とともに、陽毬は背中に強烈な痛みを覚えて地に転がった。
「あん? 腕の一本ぐらいはふっとばすつもりだったんだがな」
見れば佐徳は指先を陽毬に向けているだけだ。
ただ風のうねりを感じたことで、何か術を飛ばされたのだと陽毬は気づいた。
しかし、とっさに立ち上がることができず、咳き込んだ衝撃で涙がにじむ。
「そんなんで逃げているつもりだなんて、滑稽過ぎるぞ。さっきの術もなんだ? 子供の遊び程度で逃げられると思っているなんて、教育が必要そうだな。術って言うのはこういう、もんだよ」
嗜虐に満ちた声と共につぶてのような風が吹き荒れ、倒れる陽毬のすれすれに着弾する。
とっさに顔をかばった陽毬だったが、腕と服が切り裂かれた。
「佐徳様、弱らせては贄にさしつかえ……」
「うるせえ! この俺が馬鹿にされたんだぞ! 思い知らさねば親父の沽券にも関わるだろ!」
見かねたらしい、仲間の天狗に制された手を払った佐徳は、再び指先を陽毬に狙いを定めた。
「すべては混ざり物に関わったせいだ。せいぜい泣き叫んで後悔しろよ」
後悔なんかするものか、絶対に心は負けない。
そう思ってはいても、先の術の威力は肌身で覚えてしまっていて。
業風が接近する中、陽毬はとっさに目をつぶってしまう。
そのまぶたの裏で考えたのは、優しい天狗の青年のことだった。あのヒトを一人にしたくないな。と思った。
風が吹きすさぶ。陽毬は身を固める。
その、体が。なにかにさらわれた。
風ではない。優しく温かい、しっかりとした2本の腕だ。
軽い衝撃と共に、陽毬がまぶたを開ければ、目を見開くことになる。
わき上がるのは涙があふれそうになるような安堵と歓喜。
陽毬を抱えていたのは、柔らかい紅の瞳をもった、陽毬の大事な大事な人。
「静真さんっ」
これほどに心を揺さぶられる存在を、陽毬は知らない。
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