エピローグ ◆ 動かざる君/皇女ポラリス

 星剣会議が終わってすぐに俺は、第三皇子カストルに呼び出された。


 まだ個々の談合を控えている者。または自分の大公領地に帰還の一報を手配する者など、残った七星剣に軽く挨拶を済ませて、この破軍・アルテミスと武曲・カストルは剣の間を後にした。

 彼の案内のもと回廊を渡り向かうのは、剣の間より北——この帝都オリュンポスの城内のうち、最北にして最奥の塔、通称・北辰の塔。

 塔の真下に辿り着くや否や、カストルは真っ白に塗られた壁に手を翳す。そのすぐ間もなく、今まで何もなかった白壁に突如として、白金に光る点が四つ出現した。その点は金の線となって四方を繋ぎ、カストルの手のひらを囲うと正方形をかたち作る。

「……雷帝の子。大鷲の片翼。フェレトリウスの墓は、かの丘にありて。」

『——固定出力電磁波、感知。暗証唱文、確認。声紋、照合。第三皇子カストル、本体と認めます。……解錠を承認、開門します。』

 カストルの合言葉めいた微かな呟きに応答した、機械的な声。正方形の点滅に合わせて壁から発せられたその声は、ステラ・パンドラにどこか似た雰囲気でいながら、カストルと全く同じものだった。

 数秒と待たないうちに、正方形と同じように出現した金の光の点は弧を描く。やがてそれは高さのある細長い半円状の線となり、その内側が霧散して消失した。

 ……眼前に現れたのは、成人が一人通れるほどのぽっかりと空いた塔の口。

 カストルがゆっくりと一歩を踏み出した。彼に合わせて俺も入り口をくぐり抜け、ふと塔の暗い天を仰ぐ。

 そこには、淡く発光する長い階段が、上へ上へとどこまでも続いていた。

 金に光る階を数段ほど昇ったところ、ある違和感が目に入る。ある一段だけ、やけに面積が大きく平べったいのだ。

「……手すりを…握るがいい……。振り落とされたくなければな……。」

 カストルと共に上がったその白い段は、壁に設置された動く手すりと連動して、ゆっくりと螺旋の階段の上を通過——上階へ浮上移動する。

 以前よりも改造が増した絡繰り仕掛けの塔。ごうん、ごうんと駆動音を響かせるその様態は、胎動する生き物の腹の中にいるような錯覚を抱かせる。

「こりゃ、また便利になってまあ」

 ……ここへ訪れる度に、毎回苦しめられた超距離長階段。千切れる大腿直筋が痛みのあまり震えて悲鳴を上げずに済むようになったことに、俺はほっと胸をなでおろす。

 壁に沿って反時計回りに上昇し、目が回る寸前になった頃。俺たちは、最上階に到達していた。

 上昇中の微妙な時間、沈黙を続けていたカストルが、ようやくその口を開く。

「私は……これより皇帝と……文曲と共に…肉腫の成分調査を……控えている……。……しばらく…彼女に会って……いなかったのだろう…?」

「……どうやら気を遣わせてしまったようだな」

「違う。彼女がお前に会いたいと言ったのだ。」

 カストルの快舌に、俺は思わず驚嘆する。カストルは、ユピテルとポルックスの二人と外見ともに声が同じだ。そのため、ゆっくりな調子が基本のカストルのこの言動に、つい彼らをうっかり重ねてしまったのだ。

 またカストル自身も、自分のはっきりとした声調に驚きを隠せなかったようだった。

 ——普段ぼんやりしているくせに、珍しい。カストルは、中途半端に空いた口に伸ばした自分の手をそっと下ろして背を見せた。

「……お前こそ…彼女に……確認したいことが、あるのではないか。」

 ——胸の内を見透かされているというのは、正直いい気分じゃあねえな。

 移動階段を下降するカストルを見送ると、俺は目の前に構えるなんの変哲もない扉を叩く。

 この国の管理機構は、ガワはどんなに技巧を凝らしてあっても、こういうところで詰めが甘い。

「どうぞ。お入りになって」

 部屋の中から、女の細くて小さな声が聞こえた。部屋の主人の許可が通った俺は、古い木製の重たい扉に手をかける。

 扉を押した瞬間。その隙間から流れた古紙のかび臭い匂いが、俺の鼻腔を刺激した。

 そのはず。開けた視界には見渡す限り、本の世界が一面に広がっていたのだ。

 部屋の四方の壁に設置された、背の高い七つの段を持つ大きな規格の本棚。おそらくは特注品なのだろう。白塗りの本棚、その一段一段には分類こそされてあれど、縦に揃えられた、大きさ新古問わず雑多な本の背表紙がぞろりと並ぶ。そのほかには、少しでも余裕があるのなら横向きにしてでもと詰め、棚には本が隙間なくキツキツに埋め尽くされていた。

 それだけではない。本来なら上段の書物を取るために使う脚立にさえ、本が無造作に積み重ねられている。こんな配架をした奴は、相当面倒臭がりで、変にこだわりが強い偏屈な人物に違いない。……まあ、心当たりはあるのだけれど。

 部屋をぐるりと見渡した俺は、ようやく声の主を見つけることができた。——その広くて狭い、異様な部屋の中心。

 金細工が施された紺色の長椅子。そこに座していたのは、小柄な色白の女性だった。

「またこんな離宮にまでわざわざ足を運ぶなんて。……あなたって、そんなに律儀な人だったかしら」

「当ったり前だ。婚約者へ一言も挨拶せずにハイ帰りますと済ますほど、そこまで自分も無礼じゃない」

 ——第一皇女ポラリス。眼前の彼女こそが、オリュンポス帝国・皇帝ユピテルの娘。そして、この破軍・アルテミスの許婚だった。

 ……互いの本音には蓋を落としたまま、俺たちは半年ぶりの再会を噛み締める。

「そう。でも残念ね。ほんの数時分、わずかな時間のためだけに毎回息を切らしながら来てくれた、あなたの情けない陳腐な顔が拝めなくなるなんて。自動昇降機を設置したのは惜しかったですね。後でカストルお兄様に文句を言って差し上げましょう」

 ……あいも変わらずの憎たらしい嫌味に、俺は思わず取り繕うのも忘れて苦笑を漏らした。

 会話の最中だと言うのにも熱心に本を読んでいたポラリスは、ようやく俯いた顔を上げる。

 病的までとはいかないが、日焼けを知らぬ白い肌に細い体躯。来客を前にして寝巻きのままの小柄な金髪の女性は、緑碧の瞳を愉快そうに細めてみせた。

「……まさか。会議の時、ずっとその格好でいらしていたの?あなたなりの礼装にしては、洒落にもうつつに花が咲くのね」

 笑いをこらえるポラリスに、俺は自身の総躯を検める。急いで正装の用意する暇もなく、これでいいやと誤魔化して装着していた鈍銀色の対天士戦闘用甲冑。その隙間という隙間には、色とりどりの小さな花々が散りばめられていた。

 俺は正直、喜んだ。別に被虐趣味なわけじゃない。なぜなら、会議時において出席者の誰一人にも、花まみれだった自分の姿を突っ込んでもらえなかったからだ。

 ようやくポラリスに指摘されたことに気を良くした俺は、ウキウキと弾んで歩み寄ると、満面の笑みで彼女の隣に腰を下ろす。

「フェクダの子供たちに貰ったんだ。みんなでわいわい挿してくれたんだが、かわいいだろう。すんごくかわいい。ほおら、とってもかわいい。君もかわいいって思うだろ?」

「……いやだわ。反応に困ります。私、こんな圧しの強い『かわいい』は初めてよ」

 嗜虐的な微笑から一変、失笑するポラリスは前へ屈む。二房の、金の麦穂……三つ編みが気怠そうに揺れている。前方の長机に散らかったままだった本の回収に、俺は無言のままポラリスに手を貸した。

 卓上に目を遣ると、平積みにされた本で気づかなかったが、その他に端へ押しやったであろう手紙や書類が散乱していた。……つい先程まで作業をしていたのだろう。筆先がまだ生乾きの羽根筆に、蓋が開けっ放しの筆墨小瓶。いつもは訪ねるとそこそこ整頓されているのに、今日の彼女は余裕が無いように見える。

 手紙には目を通さぬよう裏面を上にしてどかしたところ、ステラ・実機連星アルテア——その金属板端末が現れた。

 それを手に取ろうとした直後。……俺の左手を掴んだのは、ポラリスの細い右手だった。

 彼女は強張った面持ちのまま端末を取り上げて立ち上がる。そして、書斎机に向かって引き出しに仕舞い、何食わぬ顔でこちらへ戻ると、長椅子にちょこんと座って背筋を伸ばす。

「さて。逢瀬を重ねにここに参じたわけではないのでしょう。本題はなんです?……それとも、本当に私に会いたかったの?」

「話が早くて助かるが、君が私に会いたいって言ったんだろう?すり替えるのは良くないと思いますぜ、皇女殿下」

「あら、言ってくれるじゃない。今回の星剣会議、その遅刻大将を私にすり替えようとしたのは一体どこのどなただったかしら」

 ポラリスはそう強気に言い捨てたものの、その顔色は未だ血の気が失せたままだ。

 先程ポラリスが仕舞った端末機に表示されていた画面——読みかけのままの、カストルが作成した電子議事録。

「単刀直入に言わせてもらおう。——ザウラク公の協力者は廉貞・ポラリス、君だ」

「……断定、するんですね。あなたが言うのです。それなりの根拠がおありなのでしょう?」

 動揺すら感じさせずに、ポラリスはけろっとして質問する。——当然だ。なぜなら彼女もまた、俺やカストルと等しく皇帝の剣であるからだ。

 七星剣が一振り、アリオトの大公領主にして冠名・廉貞。——それが、皇女ポラリスのもう一つの顔だった。

 彼女は唇を固く結ぶと、俺に臆することなく泰然と向き合った。顔は似なくとも、その凛とした佇まいから、あの白亜の男——その娘だという事実を思い知らされる。

「よくよく考えれば気づくことだったんだ。カストルのステラ・実機連星アルテアが、城からの脱走者を見逃すはずがない。身内を疑うことに疎すぎるとはいえども、あの慎重な皇帝に勘付かれなかったのは、カストル……君の兄もグルだったからだ」

 まさか此度の起こった不和招く叛逆の一端が、身内——しかも自分の娘から発生したと公に判明すれば、騒動は王宮内のみに留まらない。

 大方、カストルの奴が内密に痕跡や記録を改竄・隠蔽したのだろう。俺は、頭を掻いて嘆息をついた。

 加えて、ご丁寧にザウラク公は協力者の正体を「動かざる君」と表した。動かざる君とはつまり、何かと仮病を用いて万年この部屋に引きこもっているポラリスくらいしか該当しない。

 ……ユピテルの不和への断罪は、たとえ娘であっても容赦はない。そんな命の危険を冒してまで、どうしてザウラク公の叛逆に手を貸したのか。

 そして——。

「おまけにザウラク公へ、俺を『世界で一番信じられる人』と言ったそうだな?……その世界で一番信じられる人に、裏切られた気分はどうだ?」

 その瞬間、部屋に強烈な打撃音が響き渡る。肉のぶつかり合う道徳的によろしくない響音が鼓膜を叩いた。——軽い脳震盪を起こしたのか。その衝撃で視界にチカチカと星光が瞬いた。

「……あの人は、私と同じだった」

 ぽつりと溢れた、か細い呟き。その今にも泣きそうな声に続く怒りに満ちた叫びが、動かぬ無様な俺を責め立てた。

「あの人は、ザウラク公は……っ!家族を父に奪われたのです……‼︎私と同じ——たった一人の、唯一の家族を……天士、ユピテルに!」

 復活した視界に映ったのは、目を腫らして怒りに面相を歪ませるポラリスの姿。……どうやら、すでに消えた左頬の痛みと状況から察するに、俺の追及にプツンとキレたポラリスが勢いに任せてブン殴ったようだった。

 動体視力が結構良い方だと自負していただけに、戦闘経験皆無なポラリスの動きを一瞬も見えなかったとは——。慢心があったにせよ、今のはいろんな意味で非常に衝撃を覚えた。

 茫然と感心する俺を前に、ポラリスは呵責を積み重ねていく。

「あの人は私です……!父に母を奪われてなお、非力で、無力で、何もできなかった私なのです!……だから彼を匿いました。だから逃走の手引きをしました。私の名を出し、アルテミスに助力を貰うよう提案しました。……なのに、どうして——」

 わなわなと震える彼女の、美しく薄い肌。——その全身の白が、みるみるうちに朱に染まっていく。

「どうして彼を殺してしまったの?どうしてあの人を助けてくれなかったの?……お可哀そうなザウラク公。——あなたなら、ザウラク公を助けてくれると思っていた。在りし日の私に、手を差し伸べてくれると信じていた。……ただひたすらに、ずっと——ここでそう信じて、ずっとずっと待っていたのに……あなたというひとは‼︎」

 悲痛な叫びと共に振り下ろされた小さな拳。二度目のそれを、俺は簡単に止めてみせた。

 ——その呆気なさと言ったら、どう表現していいのか迷ってしまった。迷うほどに、一瞬だった。ポラリスは心ここに在らずと言わんばかりに数秒ほど呆けると、その朱顔は急激に青ざめていった。

「痛いだろ」

「あ……なんで、わた……し——あなたに、なんてこと……」

「そっちじゃない」

 我に返ったポラリスを、俺は力強く制止する。思った以上に大きな声を出してしまったことから、ほんの一瞬、痙攣した彼女の目は哀色に翳る。……怒ったように聞こえたのだろうか。怯えるポラリスを宥めるように。受け止めた小さな拳を、俺は優しく包み込んだ。

 ——白魚のような、美しい細指。人を、一度も殴ったことがなかった拳。その指関節は、白肌が擦り切れて赤い血を滲ませていた。

「……さぞや、痛むだろうに」

 人を傷つけるということは、自他共に痛みを伴うということだ。遥か昔、初めて人を手にかけた時の、忘れていたあの感覚を俺は想起する。——肉体的痛覚は、彼女の心も同時に傷つけたようだ。俺は、ショックから硬直した筋肉で動かなくなった彼女の右拳を解していく。ゆっくり、ゆっくりと一本ずつ指を開かせていくうち、革手袋をしたままの俺の手……その甲の上に、ぽたぽたと大粒の涙が数滴ほど零れ落ちる。それに気づいて顔を上げる間も無く、ポラリスは俺の胸へと飛び込んだ。

「……ずるいです。あなたはとても卑怯で、ずるいひとです。ずるすぎます、アルテミス——」

「うん。君が今すごく不安なのを知ってておいて、わざとこんな風に挑発するような真似をした。意地が悪かった。——ごめんな」

 本心からの謝罪。真に彼女を傷つけたのは、自分なのだ。

 先程の剣幕は何処へやら、すっかり弱々しくなって泣き崩れるポラリスを、俺はしっかりと抱きしめる。

 ——普段は冷たいこの甲冑。命を奪う我が身が纏いし戦衣装は、今この時ばかりだけ……火照った彼女の、命の熱を帯びていた。

 

 ひとしきり泣いた後、いつも通りに戻ったポラリスはザウラク公の始末とその処遇について俺に訊ねた。

 ……勿論、おおやけには存命のままってことになっている。そう伝えると、ポラリスは怪訝そうな顔をして反駁を重ねた。

「せめて病死とか他の理由を使うことはできなかったの?彼の妻は病死だったのだから、民たちも納得はできる辻褄合わせだってできたはずでしょう。あなたの土壇場の悪知恵はたらく脳みそは、どうやらおねむだったみたいね」

「……さっきの涙の訴えは何処へやら!そういう変に合理的で人の生死と政に関してきっぱり線引きしてるとこ、どっかのお父様とお兄様方にそっくり!」

「当然です。すでに決着が付いてしまったことに、ずっと執念しつこく文句は言っていられないもの」

 鼻声混じりとはいえ、本調子を取り戻したポラリスは冷然とそう言い放った。乱れた髪を搔き上げた所作には、皇族の気品さの中に親しみやすさが匂い立つ。

「……本題に戻りますが。長期間ずっと、民にザウラク公の姿を見せないわけにはいきません。いくらなんでも、国民たちが不審がります」

「いいや。その可能性はほぼ無いと言っていい」

 俺の否定に、ポラリスは目を見開いて首を傾げた。

「不審がらないよ。疑う発想すら取り上げられたのが、今の国民の現状だ。せいぜい疑問に思っても、むしろ『領主様は多忙なのだ』と自分たちで納得する程度だろうよ。……そうだ。要らぬ疑心を持たぬようにと、ユピテルや七星剣たちによって教育され、思考をそう調整されてきたのだから——」

 天士・ユピテルは、純真、そして無垢を尊び、それを善と見定めた。調整に調整を重ねて生み出した成果たる、不和という悪なる穢れなき民を見て、皇帝ユピテルは美しく微笑むのだ。

「……父は、人の命をたくさん奪っておいて、どうしてあんなに優しく微笑みになることができるのか——私にはとても理解できません」

 下を向いたポラリスは再び身体を傾けると、そのままゆったりと俺の右腕にもたれかかってきた。俺もまた、堅苦しい甲冑——ステラを解放して私服に戻る。……彼女の温もりを、直に感じたかったのだ。

 散って消える銀の光粒。その周囲にふわりと舞い上がったフェクダの花たちは、優しい花の雨となって二人の頭上に降り注いだ。

「私は、父を心から愛しています。……愛しているのに。——そんな父が、天士ユピテルが。……私は、心底おそろしい」

 耳元に寄せられた口からこぼれた、家族への愛と恐怖。長椅子に座したまま密着したポラリスは、するりと俺の背中に腕を回す。俺もまた、そのまま後ろに重心を倒して彼女の後頭部を優しく撫でた。

 ——軽い。とても軽すぎる。

 ほぼ自分へ覆い被さっているというのにも関わらず、彼女はあまりにも軽かった。家に残してきた息子と比較しても、やはりポラリスは軽い。子どもとまではいかないが、平均よりも細身の身体は、抱きしめ返した俺の両腕にすっぽりと納まって見えなくなるくらい小さかった。普段の憮然とした、物怖じしない印象からはそう感じさせないほどに……ガラス細工のような、美しい危うさと脆さをポラリスは持っていた。

 ……ここまで息遣いもはっきりと伝わるのだ。胸に顔を埋める彼女もまた、自分の心臓の鼓動を感じているのだろう。

 無防備に身を委ねてくれるほどの信頼を、ポラリスは自分に寄せてくれている。——それを。あの朝、あの荒野で彼女の信頼を裏切ったその事実が。錆ばかり浮いた、この心のまあるい箇所にちくりと刺さった。

 ふと、何気なく彼女に訊ねてみた。

「なあ、ポラリス。今年で君はいくつになった?」

「——十八よ」

「あれから九年か。……大きくなったな」

 心中とは真逆の感想を述べたものの、実際彼女は大きくなった。

 仰いだ先に映ったのは、満点の星が描かれた天井画。星々のすぐ隣には丁寧にひとつひとつ天体名が刻まれていた。その星空を眺めて、俺は感慨にふける。初めて会った彼女は落ち着いて大人びていてこそ、現在よりもまだ小さくて幼さが残っていた。だがしかし、今はどうだ。伸ばす手を拒んできた幼い少女は、今やすっかり大人となってこの腕の中だ。

「当たり前でしょう。……いつまでも、子どものままじゃいられないもの」

 顔を上げたポラリスの、可愛らしい膨れ面。少しばかり浮腫んだ、その頬についた俺の服皺と乾いた涙の跡に、そっと触れる。

「君は、ずっと大人だったよ」

 ——精神的に、大人にならざるを得なかった少女。……ポラリスは、スピカと同じ正真正銘ただの人間だ。ユピテルの実子では無い。天士と人間は、本来であれば両者の間に子を残すことはできないからだ。ベテルギウスの様な半天士は、特例中の特例だ。体が弱くまともな生活が送りにくい幼かった彼女を、ユピテルは養女として迎えたのだ。

 ごく普通だった少女が、人の皮を被った得体の知れぬ魑魅魍魎――天士たちが跋扈する王宮で何事も無いていを装って暮らす。その日々は、どれほどの苦労を重ねたのだろうか。

 ポラリスは頬に触れた俺の手を払い除けると、意地悪そうな微笑みを浮かべて身体を起こした。

「口説き文句としてはいまいちね」

「あらま。手厳しいことで」

「言葉選びと雰囲気づくりが足りないの。本を読んで、もっと教養と感性を養うことよ」

 ほぼ馬乗りになって俺に跨がる彼女は、ふと心得顔をして手を叩く。……にこにこと上機嫌なポラリス。先程の主張通り大人なはずの彼女の笑顔は、悪戯を思いついた子供のそれと同じだった。

「そうだわ。ここで今夜、一緒に読書会をするのはどうかしら。もちろん、泊まっていきますものね。いいえ泊まっていきなさい。あなたは今日ここに泊まるの」

「ワア~、君のこんな圧しの強いお誘いは初めて!……ってあのねえ皇女殿下。一応、こんなでも自分たちは婚前の身なのですが……」

「あら。でも私たち、一応こんなでも婚約者同士でしてよ?部屋で二人きり、一つの褥で一夜を共にしたって、だあれも文句は言わないわ」

「直球だなあ!」

 随分と開放的な彼女の貞操観念に待ったをかけてみたものの、ポラリスは渋る俺の意を介さずに話を進めていった。

 そんなこそばゆい彼女の強引な誘いに、眠れぬ夜の到来を心配して目眩を覚える。いくら成人したとはいえ、また知らぬ仲ではないとは言っても。警戒心を少しでも持って欲しいと願う俺の良心は、ポラリスにとってはいざ知らず。

「……明日朝発つ時、双子皇子やユピテルに一体どんな顔をして会えばいいんだろう」

 俺は喉元に迫りくる羞恥心と不安に嘔くと、がっくりと頭を項垂れた。


  *              *


「——と、柄にもなく挑戦的になってみましたのに。よこしまなこと何ひとつ起こらず朝を迎えてしまいました」

「まさかこの破軍が、皇女殿下と悲恋ものの絵本に夢中になった挙句に二人して寝落ちてしまったなんて……」

 ——随分と、我ながらド健全すぎやしないか?

 昨日の午後の艶っぽい様な、色事始まるギリギリの会話はどこへ行ったのやら。童心に返って絵本を読み漁り、そして恋バナで盛り上がっているうちに、あれよあれよという間に夜が更けた結果が今に至る。

 寝台の上でふたり、放心状態のまま同じ天蓋の布皺を黙して見つめる。……目が冴えていくうちに恥ずかしくなって両者ともに噴き出すと、俺とポラリスはとうとう状況のおかしさに堪えきれず、笑い転げてしまった。

 朝、と言ってもまだ日が昇る一歩手前だ。部屋に灯りを灯したポラリスの横で、俺は手早く身支度を済ませた。元々手荷物は少なくしていたこと。また生来のドジ——もとい抜け癖から、貴重品はスピカちゃんに預けていたのもあって準備にそれほど手間はかからなかった。一応指差して持ち物の確認を終えて振り返ると、ポラリスがすぐ隣に立っていた。……心なしか、前に組んだ手がわずかに震えている。

「行くのですね」

「おや。心配してくれるのか?」

 俯き気味のポラリスへ、目線を合わせようと覗き込む。俺のからかい半分の問いに彼女は困ったかの様に笑みを溢すと、俺の胸へと手を伸ばした。

「相手は人の信念、そして意思を捻じ曲げるおそるべき力を持っています。……人だけじゃありません。天士にさえも通用するその異能は、あなたがこれまで戦ってきた天士以上に手ごわいでしょう」

 冷たい鎧の胸に添えられた、小さく細い彼女の手。なまじ色白なだけに、ぶんず色になった内出血の痕が痛ましかった。

「アルテミス。……あなたは、強い。でも、それはこの肉体の話。——私は、あなたが心をズタズタに引き裂かれたところを一度目にしています」

 再び重なる彼女の体。……肩に手を回そうとしたのか。一度上げた両腕を、ポラリスは大人しく引っ込めた。めいいっぱいに背伸びしても、せいぜい彼女の頭頂が俺に届くのは鎖骨の位置までだ。埋まらぬ身長差に諦めて身を引くポラリスを、俺は逃さなかった。

 ……そうだ。俺は、強い。

 知識、そして武の心得を、一般的な定命の者たちと比べてはいやに長い年月の中で積み重ねた研鑽と経験。そして頑健な肉体は、自分の強さの大きな理由の一つとして認識してはいるつもりだ。

 ——しかし。その精神までは、どうだったか。

「優しいな、ポラリスは」

 ポラリスの腕を掴んで身を引き寄せると、俺はその細肩を抱きしめた。

 ……彼女の髪の毛の分け目、その地肌がみるみるうちに桃色に染まる。顔が見えずとも、赤面しているのが手に取るようにわかる。

「……っ!わ、私は、あなたが敵方に隙を突かれて廃人にされないか——あなたは、何かと少しばかり油断するきらいがあります。今度こそ言い訳がゆるされぬ、皇帝直々の任務。しっかりと遂行できるのか……そう案じるのは七星剣が一振り、アリオトを統括する廉貞として当然です」

 あまりにも必死そうなその様子が可愛らしくて。……あまりにも、彼女が愛おしくて。クックックと悪そうな笑声を漏らして、俺は抱きしめた腕の力を少し緩めてみせる。

 ……するりと前方へ流れた黒い髪。その一房の、俺の手入れ不足の傷んだ毛先を、ポラリスは抵抗の意を込めて掴んで引っ張った。

 ちくちくと頭皮に刺す痛みが、心地よい。

 しかしそんな安らぎは、ほんの一瞬。ポラリスは、悲哀の面相を上げて先程の言葉を改める。

「……噓。嘘です。ええ、だって私、あなたをゆるして——」

 そう言いかけたポラリスの口をそっと塞いだのは、俺の右親指だった。

 ……ああ、とても惜しいことをした。これが親指じゃなくて唇だったならば、昨日の挽回ができたというのに。

 きょとんとする彼女を見て俺は笑みを浮かべると、ありったけの想いを口にした。

「優しいよ、ポラリスは。そんな優しいポラリスが、私はとっても大好きだ」

「……ずいぶんと直球ですね、アルテミス」

「お互いさまだ」

 これも勿論、昨日の仕返しも込めていた。直球な挑発には直球な愛情を返す。よーし、やり返してやったぞう!これで彼女も懲りただろうと、心中ほくそ笑む俺をよそにポラリスは、俺の考えとは異なり、はにかみながらこう述べた。

「でも……。でも、そうですね。私も——この私の、人の短い一生を。……最期まで添い遂げたいと願った相手は、あなただけ。私の恋を、守ってくれたあなただけなのです」

 ——かつて、ポラリスには想いを寄せた一人の男がいた。その恋は無残にも傷つけられてしまったものの——俺は、彼女のその恋を失わせたくなかったのだ。その恋を、理不尽な結末を、どうしても許して欲しくなかったのだ。

 俺たちの間に、恋はない。こうしてどんなに触れ合っても、睦み合っても。俺たちの間に恋愛感情が芽生えるなんてことは、この先ありえないだろう。彼女の恋は、ただ一人の男に捧げられたものだからだ。

 ——だが、愛はある。決して誰にも侵されることのできぬ愛が、二人の中に確かにある。親愛を超えた、確固たる呪愛。

 それが、俺とポラリスを繋ぐ連理の枝だった。


 ……しかし、やっぱり。

 直球過ぎる愛の言語化は、どんな鋭利な剣よりも殺傷性が極めて高いと思うのだ。


  *              *


 未明にポラリスの部屋から出た俺は、塔を降りる。塔から薄暗い回廊を数歩ほど歩いたその先に、見慣れた人影を見つけてこっそりと手を振った。

 オリュンピア帝国第三皇子。武曲・カストルが、俺を迎えに来ていたのだ。

「……玉座で…皇帝陛下が……お待ちだ……。準備が……でき次第…すぐ……向かわれよ……。」

「おうよ」

 準備も何も、支度は万端。あと一つ足りないと言えば、万全のメンタルコンディションだけだ。

 ふと視線を感じて振り向くと、奴も何やら物足りなさそうな眼をこちらにむけていることに気づく。数秒後、俺は前日に交わしたカストルとの約束を思い出した。

「ああ、そうだったな。悪い悪い。——カストル、お前の心配は杞憂だ。確認した。ポラリスに、例の肉腫は無かったよ」

「……そう…か。」

 そう呟いたカストルは、「ふ、」と一息つくと、その金の瞳を細めた。滅多に感情を見せぬ鉄の面が、珍しくわずかに安心の色を見せた。

 ——のも束の間。再度じっと自分を見つめるカストルに、俺は何事かとたじろいだ。

「んだよ、さっきからじろじろと……。あ、誤解するなよ!?別に、ポラリスとはふしだらなことはびっくりするくらい一切起きなかったぞ……」

「……?そうか……。」

 妹と一夜を共にした相手に対し、まるで全く気にしていないカストル。その様子に、俺は思わず拍子抜ける。困惑する俺を放置したまま、カストルは報告の分析に思考を巡らせた。

「しかし…これで……軽度の…接触程度では……肉腫の増殖…および寄生先の……乗り換えは…無いことが…分かった……。」

 普段は冷静なポラリスがあそこまで取り乱したのは、肉腫の発生する瓦斯の影響が残っていたと考えて間違いはなさそうだ。

 彼女が起こした、ザウラク公への逃亡幇助といった軽率な行動も同様に。……全く、厄介な敵だと改めて言わざるを得ない。まわりの者への判断能力低下も促すその異能。別れ際に残した、彼女の危惧通り。

 ……大方、ポラリスは誘導に利用されたんだろう。

 未だ正体の掴めぬ天士の卑屈さに苛立つ俺は、ポラリスに打たれた方の頬を強めにつねる。

 彼女の怒りと痛みを、忘れぬように。即席ではあったが、痛痒の上書きは残っていた眠気を完全に吹き飛ばした。

「……こちらは…引き続き……肉腫の寄生経路と…アリオトに潜む…敵性天士の……拠点座標捕捉の調査を行う……。ポラリスにも……廉貞、そしてアリオトの…大公領地の領主として……私と…ステラ・実機連星アルテアを……通して…協力を……もらうつもりだ……。」

 下手にポラリスの行動を必要以上に制限しても、流石に警戒が厳しい第一皇子に嗅ぎ取られる。第一皇子シリウスと皇帝ユピテルに、ザウラク殿へのポラリスの関与を悟らせない。そのためにも、ここは積極性を見せるべきだとカストルは主張した。

 カストルの言うことに俺も賛成だ。しかしその前に、奴には訊いておかなきゃいけないことがある。

「カストル。あんたを今さら疑うつもりはない——が。今一度、確認させてもらう。今回のポラリスの件、ユピテルは本当に知らないってことでいいんだよな」

「……肯定しよう。今現在も…城の……情報管理機構部門の運営は……ステラ・実機連星アルテア本機に任せ…私自身との……通信も遮断している……。……以前から…膨大な……情報演算の際に…皇帝との通信を……切ることは…日常茶飯事な上……珍しいことでもない……。この会話も…当然……皇帝の他に……文曲にも届くことは…決してない……。」

 あっさりとこちら側の味方であることを認めたカストル。——これもいい機会だ。俺は、兼ねてからの疑問をたたみ掛けた。

「なあ、カストル。なぜお前はポラリスを庇う?なぜ皇帝に裏切りの情報を流さない?俺とポラリスは、皇帝……天士ユピテルを倒そうと画策しているんだぞ。なのにまた何故、お前は俺たちに協力をするんだ」

 俺の質問が意外だったのか。カストルは内容を反芻するように、少しばかり考え込んでいるような挙動を見せた。

「……私は…皇帝に『国を守れ』と命じられた……。……それを…活動原理として……この身は…動いている……。『民あってこその国である。』——民なくして国は成り立たないと……かつて、そう言い残し…自らを犠牲として……身を捧げた者がいた……。」 

 普段ならば、皇帝の命じるままに動く従順な第三皇子・カストル。だが、その内で巡る思案ゆえの沈黙こそが、奴自身の自意識と意思の芽生えなのだ。カストルもまた、皇帝の檻から一歩踏み出そうとしているのだと気づくのに、そう時間はかからなかった。

「……この国を守るということは…外敵たる天士の……脅威からだけでは…ない……。……民を…内側から食い潰さんとする……天士ユピテルから…守るという解に……私は至った。」

 カストルがポラリスを助けるのも、破軍・アルテミスに助力を惜しまぬのもつまりは同じことだ。俺とポラリスの叛逆への暗躍は、白亜に輝く大鷲の降臨者から国と民を守るための行動だ。皇帝の命令に反してはいない上に、敵対する必要もない。おまけに利害も一致しているときた。その行動理念の選択には、俺とカストルの間において何も矛盾はなかった。

「わかったよ。疑って悪かった。……カストル。俺は、あんたを信じる」

 納得した俺は、カストルの肩を叩いてこれまでの非礼を述べた。小首を傾げたカストルは、謝罪の理由をよく理解してない顔のまま、とりあえず頷いてみせた。

 その間抜けじみた様子に呆れて笑いつつ、玉座が鎮座する塔・聖樫の間へと二人で歩を進めたその時だった。

 ……春とは程遠い、生温い風が回廊を吹き渡る。風に混じる、嗅ぎ覚えのある甘い香り。その挑発とも言えるものの風を、俺たちは宣戦布告と受け取った。

「——うっし。腹は決まった。さっさとユピテルへの謁見済ませたら、アリオトまでちょいと天士ぶん殴りに行ってくるわ。……ポラリスを傀儡のように扱ったこと。ポラリスの決意を踏み躙ったこと——その身をもって後悔させてやる」


 城を発ち、東門を出た俺は、ベテルギウスとスピカの副官二人が待つフェクダに馬車を走らせた。

 ——目指すは南東。かの因縁の地・アリオトの荒野。


 すでに白け始めた東の空には、明けの明星が不気味に輝いていた。

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