第86話 賢者は選択を突きつけられる

 耳を澄まさなければ分からないほど僅かな呼吸の音。喉に刺さった棘の隙間より漏れ出た息が、口内に溜まった血液と絡まって、ぽつぽつと音を立てている。


 カナリナはまだ生きていた。おそらくは魔物化の影響なのだろう。消えかけている命を魔物の生命力が繋ぎ止めている。本来なら、既に事切れてもおかしくない激しい流血。


「…………っ」


 すぐ後ろにいたはずなのに全く気づけなかった。いったいどうして、こんなことになってしまってるのかとバリエラは呆然と、その凄惨な姿を直視する。小さな結界でも張っておけば、あるいはもっと背後に注意を払っていれば防げていたかもしれなかった。


「みじめですねぇ。治療もしないのですか?」


「――っ!」


 あろうことか魔人に諭される形で、賢者は我に返った。


 まずは棘を除去しなければならない。だが、身体を貫く棘を引き抜けば、カナリナが失血死するかもしれない。悩む暇なくバリエラは風魔法で刺さった黒棘を切り刻む。


 串刺しから解放された少女の身体が力を床へと落ちる。バリエラは手に治癒の光を灯して、カナリナの身体を支えた。同時に、体内に残った棘を力魔法で除去する準備をする。


「まだ、……まだ、間に合うから」


 止め処なく流れる血液に、焦燥ばかりが募っていく。タイミングが重要だった。棘を引き抜いたら、すぐに癒しの光を傷口に流し込まなければならない。少しでも遅れれば、抜いた箇所から血が一気に溢れだしてしまう。必然と作業には集中が必要だった。


「さて、どうなるでしょう。もっとも、このままでは魔物として覚醒するだけかもしれませんが」


「うるさい!」


 しかし、魔人の言うことは事実だった。このままではカナリナの魔物化が進んでしまう。それを防ぐためには浄化の奇跡を併用するしかない。だが、浄化を施した途端、死にかけの少女は口から鮮血を吐いた。


「そういうこと、ね……」


 苦しい選択を迫られていた。よりにもよって、魔物化による変異が命を繋ぎ止めている。浄化の奇跡による魔物化の阻害すら危ういほどの不安定な状態で、カナリナは生と死の天秤に掛けられていた。


 元凶である魔人は、こちらの苦悩を楽しむように手は出さずに悠々と観察している。さっきの助言は、誘導の為にわざと口にしたに違いなかった。あまりの性悪さに思わず奥歯に力が入りそうになったが、今は治療中、自分の感情にかまけている暇は無い。


 こうなれば止血と回復を優先する。全ての傷を把握して、埋まった異物を魔法で除去、それから即座に癒しの光を流し込んで、肉体の損傷を最後まで塞ぐ。失われた血液は戻らないが、治癒の奇跡によって活性した回復力があれば、すぐに体内で補充されるだろう。


 それでもカナリナの肌は若干、蒼白い。だが、半分は元からの色だった。どうにか辛うじて処置は終了した。極度の集中と力の消耗で、さっきから全身が鉛のように重い。だが、黒い魔人へ向ける視線には、怒りをにじまさずにはいられなかった。


「奇跡というのは起こせるものなんですねぇ。思わず感動してしまいました」


「感動? どの口が言っているのよ。元凶が……!」


 展開した魔法陣から閃光を放つ。消滅魔法が魔人の上半身を撃ち抜いた。しかし、顔面を巻き込まれたにもかかわらず、広間には魔人の笑い声が響き渡る。残された下半身の表面が波立って再生し続けていた。


「ちょっと手がせこいんじゃない? レイガルランを襲った魔人は、もっと堂々と戦ったわよ」


「いえいえ、戦うも何も、そのつもりはありませんよ。私は交渉をしているだけです。先ほどは単なる戯れ、悪ふざけ、そう思って頂けると幸いです」


「人を何だと思ってるのよ!」


 憤怒したバリエラに対して笑い声が響いた。魔人の肉体が再生するのに数分も掛かっていない。


「しかし、お分かりでしょう。貴女と私にはこれほど絶望的な差があるのです。踏みにじる者と踏みにじられる者。貴女は間違いなく私に対して成す術はない。無駄と分かって抗い続ける気力はありますか?」


 黒い魔人は、いつの間にか用意した椅子に座って、その場で手を叩く。すると、広間の隅に置かれた黒蓑のうち一つが滑るようにバリエラの前に移動する。異臭を漂わせながら、黒蓑は唸りを上げて微動している。中に何かが入っている。


「やろうと思えば、無理矢理あなたをこのような姿にもできるのですよ? もちろん、私の気分次第では……」


 突然に、黒蓑が割けて中から蒼白な肢体が現れた。溶けた黒肉と破れた服に包まれたのは、死体同然に焦点の合わない目と、穴のように口を開けた冒険者。この人もどこかの街から拉致されていたに違いない。


「このように元に戻せるわけです。まあ、人格が返ってくる保証はないですが」


 用が済めば目障りだとばかりに、黒い床から触手のような何かが飛び出し、廃人と化した冒険者を呑みこんだ。それから、床の下へと消えて行った。


「実のところ、私はあなたの力を頂けたなら充分なのですよ。賢者として与えられた権能。それを得ることができたなら、そちらの少女はここから解放して差し上げてもいい」


「……賢者としての権能? なに訳が分かんないこと言ってるの?」


「この世界の神たちから賜った貴女の奇跡のことですよ。私は傀儡にした者から力を奪える。捕らえた人間や魔物は勿論のこと、同じく生まれた同族魔人であろうと奪えるよう魔王様に創造されました。一つ試してみましょうか?」


 研究者然としていた風貌が、突然ぐにゃりと形が歪む。変容した黒い魔人の姿に賢者は息を呑んだ。思い起こされるのは、忘れたくても忘れられない恐怖。生まれて初めて、死を覚悟してまで戦った難敵だった。


 そこにあったのは鬼の姿。三本の角を生やした仮面を見て、バリエラは息を詰まらせた。レイガルランを襲った灰色の魔人の姿だった。あの魔人は竜の勇者との戦いで散っている。


「原形を留めないほど哀れな姿で、徘徊しているのを見つけましてねぇ。そっくり能力を奪わせて頂きました。まだ私の中で生きているんじゃないでしょうか」


 見覚えのある黒霧が漂い出す。触れるものを硬化させる呪いの霧を、バリエラは浄化の奇跡で振り払った。魔人は研究者の姿に戻りつつ、賢者への話を続ける。


「そして、私は更なる力が欲しい。この世界に生まれて勇者や賢者の存在を知ったとき、これほど格好の獲物はいないんじゃないかと思いました。水の勇者のときは失敗してしまいましたが、今回はそうはいきません。だから、交渉しているのです。貴女が私の条件を受け入れてくれれば、そちらの少女については、人間のままに留めて外へ解放することを約束いたします」


「――っ!」


「既に魔物となった人間は無理ですが、そちらの少女は幸か不幸か魔物に至ってない。それならば、変異を消し去ることは実に簡単なこと。あくまで私にとっての話ですが」


「…………。本当にその条件で呑みこむと思ってるの?」


 本当にやろうと思えば、できるのだろう。しかし、ただの口約束。それを守る保証は無い。だが、自分が犠牲になればカナリナだけでも助かる。そんな誘惑が脳裏で浮かび上がっていた。


 当然、罠だ。だが、いくら自分に警鐘を鳴らしても選択肢から捨てられない。それくらい選択肢が無かった。


「ええ、貴女はこの条件を呑みこんででも、そちらの少女を助けようとすると私は思っています。先ほど治療していましたが、可能性としては魔物としての目覚めのほうが高い。貴女もそう思っているのではないですか?」


「…………」


「図星ですかね」


 反論はせずに黙って、一切の表情が変わらない魔人の鉄仮面をにらみつける。視線だけで殺せればいいのにと思わずにはいられない。カナリナの命を繋ぎ止めたのは魔物としての生命力。最後の最後で、いくら後付けで浄化の奇跡を注いだとしても、進んでしまった魔物化は元へ戻らない。それは治療を施したバリエラが一番自覚している。


 だからこそ、賢者は提案に揺れていた。真っ向から拒否できない。


「…………でも、あんたが本当に約束を果たすとも限らないわ」


「そうですねぇ。信頼がありませんから、そういう考えも当然です。ですが、他に選択肢などあるのですか? 私に挑んで散っても、それはそれで構いませんよ?」


 黒い魔人が再び手を叩く。今度は何も起こらない。だが、代わりにずっと広間に響いていた黒蓑たちの唸り声が急に途絶える。訪れた静けさにバリエラは周囲を見渡しつつ困惑する。


「魔王様の瘴気をこの周囲から消しました。今であれば、そちらの少女の魔物化が進むことはない。さあ、時間は与えました。あとは貴女が選択するだけです」


 少なくとも、ここで戦闘になってもバリエラに勝ち目はない。となると、選択肢は二つ。カナリナを見捨て自身も果てて共倒れする道と、魔人の提案を呑んでカナリナだけが救われるかもしれない道。どちらを選んだとしても自分には破滅が待っていた。


 広間の中央で鎮座する巨大な黒杯。ご丁寧にも階段まで用意されたあの黒い器へ身を投じれば、少なくとも一人は助かることができる。もちろん、約束が実行される保証はない。


 ながいながい長考を経て、バリエラはついに結論を下した。


「…………分かったわ。話に乗ってあげる」


 どちらを選んだとしても最悪が待っている。ならば、一人でも助かる可能性がある道を選ぶ。


「そうですか、やっと賢明な答えに辿りついたのですね。では、あの階段を上ってください。あそこから黒杯に身を投じれば、そちらの少女は無事に外へ出すことを約束しましょう」


 鉄仮面の内側で朗らかな声を上げながら、魔人が黒杯への階段を指し示す。あそこから飛び込めば、二度と王都には帰れないだろう。その前にバリエラは眠ったままの少女のほうを振り向いた。


「ごめん。だけど、あなたは諦めないで」


 もはや気休め程度にしかならない浄化の奇跡を掛けておく。これが最後の奇跡かもしれなかった。最後だと思うと急に胸が悲しくなる。


 ルーイッドにも勿論そうだが、最期くらいはレイラ様と再会したかった。エベラネクトでの戦いは全員無事に終わったというのだから、王都に帰れば、また恩師の顔を見ることができたはずだった。


(…………?)


 そのとき、バリエラは不思議に思った。気になったのはエベラネクトでの魔人の失敗。ここまで能力を欲し、相手に対しては絶望を与えてくる敵が、なぜ水の奇跡という貴重な能力を手に入れられなかったのか。


 最初に遭遇した時、水の勇者では実験を行っていたというようなことを魔人は口にしていた。だが、本当に実験のつもりだったのだろうか? 素体なら既に失踪した冒険者たちで事足りる。


 本気で手に入れる算段だったが失敗した。それならば、ただの実験だったということで割り切ったのではないだろうか。そして、失敗の原因にはノルソンの妨害もあるだろうが、この魔人は理由を自ら口にしていたはずだった。


(人格を壊しきれなかった、か……)


 改めて思えば、黒い魔人はレイガルランでの灰色の魔人とはだいぶやり方が違う。灰色の魔人は勿論、戦略にも長けた敵だったが、基本的には圧倒的な暴力で蹂躙しようとしてきた。


 だが、この敵は違う。見せつけるのは暴力でなく、打開しようのない非情な現実を突きつけ、身体ではなく先に心を殺しにかかってくる。最初は単なる性格ゆえの差異と思っていたが、魔人に必ずそうしなければならない理由があるのだとすれば。


「カナリナ……、本当に諦めちゃ駄目」


 眠ったままのカナリナにもう一度囁いた。そして、バリエラは広間の中央に立った巨大な黒杯へと向き直る。ここまで来れば、本当に賭けるしかない。


「最後のお別れは済みましたか?」


「ええ、勿論、この上ないくらいにね」


 本当に勝算の低い賭けだった。そもそもの予想が正しいとも分からない。しかし、ほんの少しだけ見えた光明を今は信じるしかなかった。


 迷いはありながらも、決して退かない足取りでバリエラは階段を上る。もっとも高い位置からは黒杯の中身がはっきりと目に映った。ぷつぷつと気泡を放つ黒い液体が器の中を満たしている。この中に飛び込むのか、と躊躇いそうになった。


 だが、決意した手前、行かないわけには絶対いかない。


(どうせ、向かってきているんでしょ? ルーイッド。さっさと私を助け出しなさいよ)


 最後にバリエラはまだ効力が発動していないはずの耳飾りに手を触れる。そして、そのまま黒い液体に向けて落下していった。



 ◇ ◇ ◇



「メキ、予定変更だ」


「何かあった? ノルソン」


 バリエラが黒杯へと飛び込んで、ほぼ時間を経てずに戦闘中のノルソンは反応する。赤褐色の広間で無限に湧き出る復魔兵、そして奥で構える黒い魔人との戦闘を繰り広げていたが二人は途中で背中を突き合わせて、刹那に会話した。


「賢者の反応が消失した。だから、計画を当初のものに戻す。まずは多少、強引でもこの塔から脱出する。用意してくれ、メキ」


「……そっか。賢者、死んじゃったんだ。それなら仕方ないね」


 ひとまず魔導人形の勇者は、群がってきた敵たちの中へと突入し、破壊の光で覆われた拳で頭部を吹き飛ばしていく。即座に青年の元に戻った勇者は、催促するかのように片手を差し出した。


「ノルソン、足りないから補給」


「あまり数は無いからな」


 ノルソンは軍服の内側から赤い筒状の物体を取り出す。それは彼がエベラネクトで黒化した水の勇者との交戦で使用したのと同一のものだった。魔導人形の勇者は受け取ると、片手で握り潰すように手で包む。


 その瞬間に、勇者の身体から消滅の光がにじみ出る。異世界の技術を変換して、強引に魔力を抽出したメキは、ノルソンが指し示した方向に従って、離れた位置から拳を放った。


 飛び出した破壊の閃光が直線状にあった全てのものをことごとく撃滅及び消失させていく。その一番奥の穴の先にあったのは、今も灰を降らせ続けている魔領特有の雲で覆われた空の景色だった。



 ◇ ◇ ◇



 一方の魔人は、賢者が黒杯へと身を投じたのを確認して、腹を抱えて笑っていた。変幻自在に姿を変えられる肉体を、文字通り腹がじ切れそうになるくらい巻き上げて、一人で大笑いしている。


「いやぁ、追い詰められると人は弱いですね。簡単に呆気なく命を投げ捨ててくれる。やはりというか、最後に選んだのは自己犠牲ですか、ただの無駄死にですねえ。私が約束を守ると思うのでしょうか」


 ひとしきり、身体を歪めて遊び終えた魔人は、ふと気づいたように黒い床で倒れている少女のほうに鉄仮面の目を向ける。このゴミをどう捨てたものかと少し悩んでいた。


「適当に外へ出しときますか。これから私には大変な作業が待っています。置いておいても邪魔なだけでしょう」


 未だに目を閉ざした少女の周りを覆うように黒い触手が次々と現れる。それから少女は床の下へと引きりこまれていった。肉体に染み渡った魔物化の予兆は残されたままだった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る