03 天使は、天使。

 電車内にざわめきが広がる。この不可解な現象は紛れもなく現実リアルだと、そう。――頭では理解しきれていないのに、なぜかような――今までに経験したことのない、不思議な感覚だ。普段なら焦ったりヒステリックになったりするものかもしれないが、なぜか車内の人々は誰も口を開かない。こんなに多くの人が乗っているのに、だ。

 

 奇妙な、静けさ。

 

 ――“皆さん、初めまして”――


 「声」が聞こえた。

 


 ――“私は、天使です”――



 次の瞬間、頭を鈍器で殴られたような衝撃を僕は受けた。


 「天使」


 たった漢字二文字のその言葉が、科学の常識を根底から破壊する。


 ――“誤解の無いように申し上げておきますが、一口に天使と言っても、私という存在は、この惑星上において信仰されているいかなる宗教の概念にも当てはまり得ません。あなたがたの暮らすこの宇宙に存在する天使は、私ただ一人。私の他に天使たる存在はありません。天使とはこの宇宙におけるあらゆる事象に対して万能であり、この世界において天使が天使であることは、天使である私によってのみ定められることなのです”――


 ゆっくりと、柔らかな話し方なのに、僕は彼女が何を言っているのかほとんど理解できなかった。とりあえずこの人(?)の話を信じるならば、彼女は特別な唯一無二の存在で、要は、天使だということらしい。ただ、彼女の話す内容――というより天使の存在そのものが現実離れしているというのに、その声を聞くとなんだか落ち着くのが不思議だ。


 おそらく全く同じ話を、この10両編成の満員電車に乗っているおよそ2500人の人たちも頭の中で聞いたのだろう。天使とやらがどこにいるのか、窓の外をきょろきょろと眺めている。僕もドアの外を見て、ふと気づいた。


 どうして電車は止まったのか?


 ――。 


 すると線路上だというのに、僕の目の前の自動ドアが、開いた。


 まるで僕に、


 ――“降りて”――


 と言っているかのように。


 降りずにはいられなかった。僕の全身が高揚感に満たされていく。からだが勝手に動いて背中に背負った鞄をおろす。どうした少年、と言わんばかりの周囲の目線が、今は不思議と気にならない。


 ドアの前に広がる空はどこまでも青く、ふわふわと浮かんでいる雲たちは僕に笑いかけているような気がする。左上から差す朝の陽の光は、眩しく線路を輝かせている。


 電車の床から線路までの高さは1.1m。意外に高いはずなのに足がすくんでためらったりすることもなく、僕は飛び降りる。特に身軽なわけでもないのにふわりと着地できたことに、何の違和感も感じない。複線なんだから前から電車が走ってきて轢かれるんじゃないか、なんてことは頭の片隅にもなかった。


 今、僕の全身を支配している感情は、


 “天使を見たい”


 それだけだ。

 

 僕が今いるのは4両目。


 僕は使躊躇ためらうことなく先頭車両の前を目指して駆け出した。

 

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