第四幕 お客さん 3.やっぱりあのおっさんは疫病神

 いつのまにか店の二階に住み着いた、あの松田のおっさんはやっぱりどうしようもないチンピラだった。そう、例の僕の親友である空本のおかんの愛人である。体系は中肉中背、顔はなかなかの男前なのだが、とにかくやることなすことすべてが屑きわまりない。

 まず、アルミサッシの扉を開けるときの音が日に日にうるさくなっていく。

「バシッーーーン」

 そして「ほんまにすべりの悪い入口やのぅ。客を歓迎する気があるんかね」などと必ず余計な一言をつけるのだ。

 そのたびにチーフは「ちっ」と舌打ちしたり、たまに「もうちょっとやさしく開けられへんか」と注意するのだが、いっこうに聞く気配がない。他のお客が驚いて入口に目をやるのが、松田のおっさんはぶっ飛んだ充血した目でチーフの顔を凝視している。どんな反応をするか試しているような動物的な目つきだ。

 一応、注文は餃子と焼きそばなどと人並みのものを食べる。そして食べ終わったら他の常連客とコンタクトすることなくさっさと出て行くのだが、最近はトイレへ行って、客席側に戻ることなく勝手口から出て行くことが増えてきた。そして、店の外へ出て行ったかと思うと、今度は外から小窓越しに鶏の足を見せてくるのである。この鶏はもちろん『新大蓮』のもので、わざわざゴミ箱から探し出しているということになる。

 トイレ前の小窓は一七〇センチくらいの高さ。まるで人形劇のように延々とちょこちょこと動かしている。なぜ松田のおっさんの仕業であることがわかるかというと、最初の頃に僕とチーフが追いかけたことがあり、その際二階へ通じる扉を開けて走り去る松田のおっさんの後姿を見たからである。何度注意をしても、このおっさんは懲りないどころかますますエスカレートしていくのであった。

 我々が無視しだすと、今度は小窓からこちらへ向かって放り投げてくるようになってしまった。どうしてそこまでちょっかいばかりかけてくるのか。いい大人がしょうもない幼稚なことを繰り返していることにうんざりしてくる。

「チーフ、いい加減あのおっさんを追い出しましょうよ。紳士ぶった顔をしてるけど実際には相当に気持ち悪い。完全にイカレテますよ。そのうちもっと悪いことが起こるような気がしてなりませんわ」

「そうやな…。しかし出て行けとも言えんし、空本くんのお母さんの頼みやし、いやぁほんまにまいるわ…」

 しばらくしてから本当にもっと悪いことが起こる。なんと二階でエッチをしだしたのである。実は前からやっていたが、それは夕方の休憩時間や店を閉めた深夜に限られていた。が、いつのまにやら一般客が食事をしている平日の夜の八時頃から、かまわずに始めるようになってしまった。

 厨房の換気扇の音が大きいため忙しいときは気付かないが、途切れた瞬間にどこからともなく「ぎしぎし、みしみし…」と軋んだ音が聞こえてくる。地震か」と言わんばかりに上をきょろきょろと見回すお客もいるほど。

 そして耳を澄ましたら最後。「あ、あん、あ~ん」と低いおばはんの声が聞こえてくるのである。五分か一〇分で終わってしまうのだが、困ったことに1時間後くらいにまた始まる。

「みしみしみしみし…あっあんっあぁぁぁぁ~」

おい、誰か料理を注文してくれ、と切望の思いだが、それにしてもこの世から抹殺してしまいたいほど気持ちが悪い人たちだ。ダチの母親が自分の勤め先の二階に毎晩やってきては、週に三、四回低いあえぎ声でエッチしているというのは、なかなか耐え難いものがある。あのピグモン婆め。

「チーフ、なんであんな変態を住まわせたんですか。空本のおかんは昔から男遊びが酷くて、まともに家に帰ってこないような人ですよ。自分の欲求を満たすためにここの二階を借りさせただけですやん。こんなんやったら宴会場のままでよかったのに」

「まぁな、わしもここまで酷いとは思わなんだ。でも、なかなか宴会は入らんし」

「やっぱりあんな急階段でくっさいトイレで揺れる部屋、誰も借りませんね。あんな気色悪い人らに住まれるんやったら、僕らが雀荘としてずっと使わせてもらったのに」

 今まで何度か徹夜麻雀に使わせてもらったことがある。もちろん収益は上がらないが、魔除けにはなったじゃないかと思う。

「よっしゃ、近いうち出て行ってもらうように言うわ。なんやったら嫁はんに言ってもらおう。松田のおっさんは、うちの嫁はん(通称社長)にだけはよう文句言わんみたいやし」

 松田のおっさんに限ったことではなかったが、もうひとつ気になっていたのがたまりまくったツケだった。ツケとは毎月末や十日など決められた支払日に利用分をまとめて払うことを言う。通常は街のクラブやスナックなどでよくあるシステムで、『新大蓮』のような裏町の中華屋では聞いたことがない。壁に貼ってあるメモには、常連客に限らずめったと見ない人のツケもあったりする。客の顔を見て、思い出したようにチーフが督促するのを何度か見たことはあるが、どう見ても支払日を決めて徴収しているようには見えなかった。が、これについては僕がとやかく言うわけにもいかない。でも、気になって仕方ない。

「こんなこと言うのもなんですけど、ツケもいい加減に払ってもらったほうがええのとちゃいますか。あそこに張ってあるやつは、ちゃんと支払日とか決まってるんですか。中にはどう見てもとりっぱぐれたとしか思えないような古臭い伝票もあります。払おうとしないのなら僕が取り立てに行きますよ」

「いいや、特に支払日を決めてるわけやないねん。ある時払いというやつや」

 この緩さが甞められる要因ではないかと思ってしまう。

「マジですか? あいつら絶対食い逃げしますよ。チーフに甘えてるだけですやん」

「そうかもしれん。でも、まぁ大丈夫や。誰も逃げん。死なんかったらそれでええがな」

「いやいや、そんなことを言ってるから…」

 つい口が滑り過ぎた。チーフはロンピーに火をつけ大きく一服する。

「ふぅぅぅ~。わしが育った淡路島の村にも昔はいくつか飲食店があってな、そこには金のない人もぎょうさん食べに来てた。その人らが何の仕事をしてたか知らんけど、とにかく町から面倒見てもらって生きてやった。みんなちゃんとお金払ったんかわからんけど、別にもらいそこねてもええやん。新地のクラブみたいに何十万円の桁やったら別やで。でも、しょせん食事代なんかたかがしれてるわ。それでその人が一時的にでも食えたんやったらええやんか」

 まさかの斬新過ぎるその応答に僕は絶句してしまった。この人はいったいどこまでやさしい人なのか、と思うとちょっと胸が熱くなってきた。

 払わなきゃ督促して払わせるだけ。なんであれ、常に道理の通った理屈を用意して、「正論」を武器にしようとする自分が小さな人間に思えてくる。この世には言葉では言い切れない、不条理と矛盾の中で揉まれながら生きている人がわんさかといる。もしかしたら松田のおっさんもそうかもしれない。まぁ、どっちにしてもキモイけど。

「まぁ、深いことまではわからんけど、わしはいつでも持ちつ持たれつやと思ってる。今はこうしてお客さんもぎょうさん来てくれるようになった。けど、わしかてまたいつ凹むかわからんしな。お互い様や。ある時払いでかまへんねん」

 チーフはたまらなくやさしいのだ。



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