第四幕 お客さん 1.常連客の道山さんヘヴィ級劇場

 道山さんという常連客がいた。初めて会ったのは僕が高校二年か三年の頃。当時は上場企業の工場に勤めており、いつもきっちりとスーツにネクタイ姿で店に来ていた。若い頃に何かの事故に遭い、顔半分に火傷の痕があってその部分だけ髪の毛がない。パチンコ屋で台を譲ってもらったり、その辺のスナックに連れて行ってもらったこともある。バイクレーサーを目指していた時代には、道山さんが勤める工場のFRP成形部門でバイトもさせてもらうなど、なにかとお世話になった方だ。

 が、ここのところ、ネクタイをせず、よれよれのシャツ姿で来ることが増えた。元々酒癖はいいほうではなかったが、最近はより屈折しだしており、他の常連客と口論も起こしている。会社も休むことが増えているようで、昼間は顔のささない駅前のパチンコ屋に行ってるようだった。

 夜の十一時頃、ボーっとした表情で現れ「おぅ、いつもの。それと叉焼」

 専門は冷蔵庫に入った一升瓶の酒である。一杯三五〇円。料理は常に何か一品のみで、餃子か焼きそばか、たまに鶏天や肉団子などの揚げ物などを注文する。しばしば揚げ物につける山椒塩を指につけては「ちゅっちゅっ」と舐めながら飲む。そして酔うほどに他の客がいようがいまいが、遠慮もなく大きな声で絡んでくるくるのであった。

「おいカワムラっ、お前はええよな、高校は卒業するのもやっとやったくせに、いつもそんな幸せそうな顔をしてやがる。ほんまお前が羨ましいわ」

「いい大人が何を言うてますの。道山さんは立派な企業に勤めてはるやないですか」

「立派かどうかは関係ない。俺はしょせんサラリーマンや。給料をもらうかわりに企業に利用されて生きてるんや。だから黒いもんでも白といわれたら白になる。でもお前は自分のやりたいようにやって生きてる。黒いもんは黒のままや」

 道山さんはチーフよりも少しだけ年が上だった。看護士の奥さんと小学生になる子供さんがひとりいる。

「ようそんなこといいますね。僕が目指した道が他にあったことを、誰よりもよく知ってはるくせに。僕みたいな雑草育ちは、人の何倍も頑張らんと生きていけないんですわ」

「お前はアホやから気づくのが遅いんや。そんなマッチョな体格と頭のヤツが、バイクレーサーなんぞなれるわけがないやないか。最初からお前の進むべき道はここに用意されてたんや。素直に料理の道へ進んでたらよかったものを、わざわざ寄り道しやがって」

「よくもそんなこと言いますね。自分だってなにかやりたいことやればいいじゃないですか。挑戦するのが怖いのとちゃいますか」

「ボケッ。普通の人間は何をやったらいいのかなんて考える暇もなく生きとんじゃ。お前は苦労人やけど育ちがええねん。お袋さんやチーフがええ人やから、そうやって生き方を考えたりできるねん。世の中には生活もままならん人のほうがはるかに多いんや。夢や希望なんて言葉とはまったく縁はない。お前はみんなに愛されて、ほんまにめでたいヤツやのぅ。俺が言うんや、おべんちゃらやない。有難くこのまま中華料理屋になっとけ」

「僕はなにも好きで料理の道を歩いてるわけやないです。挫折の末の偶然ですわ。僕かて夢や希望はなくなりました。せやからまた新たな道を探してるんですよ」

 ふと亡くなった親父のことを思い出した。親父は道山さんと同じようにサラリーマンとして生きて、道半ばで過労死している。でも、親父本人が実際はどう考えていたかは知るよしもないが、直感的に親父は仕事を愛していたのだとそう感じるのだ。雇われているかそうでないか、ではない。自分で決めたことを全力でやっているか、だと思う。

 なんだか目の前の道山さんがしょぼいおっさんに見えてきた。

「道山さん、何でそんなにグレてるんですか? 最近は仕事をさぼって駅前のパチンコ屋に行ってるという噂ですやん。酒を飲んではいつも愚痴ってばっかり。僕かて自分の思い通りにやれてるわけとちゃいます。でも今やれることを必死でやってるんですわ。道山さんも自分の道を力いっぱい突き進んでください」

「ふん、お前はまだまだ青い。そのうちわかるわ」

 社会の大先輩だし、お世話になったことは間違いないので何を言われてもいいのだが、自分より一回り以上も年上の人からやっかまれることほど気持ちの悪いものはないし、なによりも寂しい。自分で選んで今の会社に就職したのだろうし、奥さんも子供も元気で、なぜそこまで自分を不幸だと思うのか。道山さんのことについてはチーフも心配していた。客席から厨房に戻ってくると、チーフがロンピーをふかしながらひそひそと話す。

「たぶん嫁はんのほうが稼ぎがええんやと思うわ。奥さんは大きな病院の看護士で、最近は副看護婦長になったという噂や。やり手な上に気が強い人やいうから大変なんやで。嫁はんのほうがえらくなってしまうと、何かとややこしいのとちゃうかな」

「ええっそうなんですか、嫁はんの稼ぎがええんやったら逆に楽なんちゃいますの」

「カワムラ君は母子家庭やからピンとこんかもしれんけど、やっぱり男には男のプライドゆもんがあるやろ。男は家庭を背負ってるっていう、女に頼られてなんぼの。男が外で稼いで女が家を守る。これが昔からの慣わしや」

「わからんでもないですけど、それで男が過労で死んだら、残された家族の全員が不幸になりますやん。女が稼げるんやったら、それでいいと思ってしまいます。男が甘えてなんもせんようではあかんけど」

 一九八〇年代後半は、確実に女性の社会進出が増えていた時代だったと、体感的にそう思う。とはいえ今のように女性が社会保険や福利厚生のついた正社員になれるのはかなり限定的だったはず。僕の母親もまたパートを掛け持ちをしながら生活費を稼いでいた。母親は昭和一〇年生まれで、この世代は多くの人が結婚、子育て、マイホームというのが幸せの価値感であったにもかかわらず、離婚や死別も少なからずあり、古いままの男性優先の社会体制と現実の間で、苦しんだ女性がきっと多くいたに違いない。だから女性が正規雇用で働けるなんて聞くととてもラッキーなこと、としか思えない。

 道山さんは、男のプライドを守れないという理由だけでここまでグレているのだろうか。

叉焼をひとかじりしては酒のお代わりを求めてくる道山さん。

「おい、カワムラっ! 酒や、酒を注げ」

「道山さん、もうそれ以上はやめといてください!」

「なんやとっ? いつから俺に指図するようになったんや? 俺はお前の恩人やろ。ま、ちょっとだけかもしれんけど。酒入れへんのやったら自分で注ぐぞ」と言ってコップを片手に冷蔵庫へ向かおうとする。

「こらっおっさんっ、ええ加減にせぇよ。勝手に注いだら二杯分つけるぞ!」と遮るようにチーフの声が飛ぶ。しかたなく僕が客席側へ向かい、道山さんのコップに酒を注ぐ。

「はい、今日はこれまで。道山さんにはたくさんお世話になりました。だからもう酒はこの辺でやめといてください。できればパチンコもやめたほうがいい」

すると道山さんは僕の腕をぎゅっと握って引っ張る。

「なにこらっ、ちょっとここに座れ!」

「嫌ですっ。仕事中やし。他のお客さんにも迷惑です」

「なんやとっ~。ほんまにどいつもこいつも俺を馬鹿にしよってから。もう俺の居場所はどこにもないやないかっ」

 そんなことを言いながら顔を紅潮させるのであった。今までは酔っても切りのいいところで引き上げていたのだが、最近は他に客がいても、このように居座る。せめてエロ漫画でも読んで過ごしてくれたらいいのだが、道山さんはますます泥臭くなっていくのであった。

「ようわかった! もう誰のことも信じへん。俺なんかどうなってもええわ。仕事を辞めて嫁はんとも別れたる。それでも足らんかったら死ぬ。これが今の俺にできる最大の行動や。嫁はんにこれ以上馬鹿にされてたまるか」

「仕事を辞めるなんて、何を言うてますの。あんなええ会社、誰でも入れるわけじゃないでしょ? それに奥さんがうっとおしいんやったら離婚したらええですやん。死ぬ必要なんかどこにもあらへん」

「俺なんかおらんほうがマシらしいわ。そこまで言われたらもう仕事をする意味はない。働いても働かんでも同じことや。ほら、酒もう一杯!」

 チーフも呆れた表情でため息をついている。我々は数ヶ月間に及んで、この道山ヘヴィ級劇場につき合わされ、ただただ我慢し続けた。そして最終的に道山さんは本当に仕事を辞め、しばらくしてから離婚してしまったのである。

 高校時代に会ったときは未知の大きな人だと思い、後にお世話になるようになってから心強い大先輩だと感じ、ちょびっとは尊敬していた人だけに、その急な没落ぶりがとても気の毒であり、腑甲斐なく見えた。

 それにしてもチーフは精神的にもタフである。これほどにどろどろの道山さんを前にしても、客から注文が入ればスパッと動くし、注文がなくても翌日の仕込みや掃除をしたりと、すぐにいつものリズムに戻れるのである。僕は道山さんが店に入ってきた瞬間に重苦しくなってしまう。血流がどろどろとなって、身体が粘土のようになってしまうのだ。

 常連客の負のパワーは想像以上にしんどい。まてよ、もしかしたらチーフはただの鈍感だったのかもしれないなぁ。





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