第三幕 男になれるか 1.憧れの女性の一言でアホになる

 新しく勤めだした店はこてこての『新大蓮』とは正反対で、気持ちいいくらいに何もかもすっきりさっぱりとしていた。ユニフォームは純白のシャツに黒いスラックス、夜は蝶ネクタイをする。男は髭禁止でショートヘアー限定。基本的な言葉使いも教育される。

 営業時間は午前十一時から夜十一時まで。売りは神戸の名門コーヒー店が焙煎するコーヒーで、注文ごとに豆を挽いてペーパードリップするという当時では稀少な本格スタイルだった。

 他にもミックスジュースやフレッシュ一〇〇%のレモンスカッシュなどのソフトドリンク。ドイツ系のワイン各種。クロックムッシュや焼きたて卵のサンドウィッチ、手造りケーキ、国内産を使ったビーフピラフ、ドライカレーなどフードメニューもひと手間が利いていてどれも人気があった。

 週末は二階で定期的にフラメンコパーティを、テニスクラブに通う有閑マダムがワインパーティなど、何かと派手に開催されていた。そのたびに特別料理を準備するわけだが、最初はバイトだったので先輩の手伝いをするにとどまっていた。が、途中から僕がリードをとることになり、内容もピンチョスやカナッペ、キッシュや魚料理などとどんどん広がり、パーティごとに色合いや盛り付けもアレンジしていくようになった。やがて評判を呼び、ある時に支配人からお呼がかかる。

「あなたはこれから正社員として働きなさい。ボーナスもだすわ。それで夜間にプロ育成の学校へ行っていちから学ぶのよ。それを終えたら店長にしてあげるから」

 決して社員や店長を目指していたわけではないが、仕事をするほど気がつけばいつのまにかその流れに乗っていて、二年めから本当に社員となった。店を経営していたのは大阪に本社を置くけっこう有名な商社で、下にいくつものグループ会社が存在し、この店は一応飲食事業部という位置づけだったようだ。ということで夕方からは支配人が申し込んだ学校に通う。数あるコースのうち、喫茶、洋食、中華の各コースを取らせてもらった。

 こんな暮らしの中で僕はひそかにバイトスタッフのある女性に憧れていた。彼女はひとつ年上。いつでも眩しい笑顔で、振り返るたびに腰までの長いストレートヘアーが靡くのを見るとドキドキしてしまう。

 ある夕方、僕は夜のパーティの仕込みに追われ、汗だくになってフライパンを振っていた。すると、彼女はワイングラスをきゅっきゅっと吹きながら、いきなりこんな言葉をぼそっ。

「ケンちゃんて料理しているときが格好いいよね」

 とんでもない発言に心臓が飛び出そうになりつつも、なんとか平静を装い料理の手を動かし続ける。が、彼女は天使のようなスマイルのまま、さらに続ける。

「いや、ほんまよ。料理している姿が素敵やと思う」

 胸が高鳴り、目が泳ぎだした僕は、おどおどしながら声を搾り出す。

「そ、そんなアホなこと言わんといて。こんなもんオカマの仕事やから」

 すると彼女はグラスを置いて、真顔でこちらへ振り向いた。長い髪が窓からの木漏れ日できらきらと輝き、マブシイ。

「あれ、ケンちゃんはわかってないのね。女は男の汗に惚れるもんよ。一所懸命に料理をしている姿は絶対に格好いいって」

 一気に頭の中がぐっちゃぐちゃになった。思わず火を切り、手を拭きながら言う。

「あのぅ、嘘いうたらアカンよ。男が料理してて格好いいわけがないやん。料理の仕事なんて男の仕事やないし。俺、ずっと恥ずかしいもん」

「ケンちゃんはほんまに女のことをわかってないんやね~」

「そんなんわかるか。素敵って、それは男として言ってるわけやないでしょ?」

「ふんっ、男としてよ。女としてそう思うって話よ」

「ええっ、うっそやん、そうやったんか……」

 この瞬間、小学四年生くらいから積み上げてきた僕の中の薄っぺらい“男とはこうあるべきだ像!”がパラパラリンと音を立てて崩れ落ちた。その像とは、男たるものは蟹股で歩き、喧嘩が強く、スポーツ万能で、体脂肪が少なくて、何事もタフで、そして大人になったら金持ちで、というマッチョオンリーだ。女は男の筋肉に惚れるはずだから、狭い厨房でちょこまかと動いているようでは男とはいえないのだ、というわけだ。

 ひと呼吸おいて彼女は再びグラスを拭きだし、僕も鍋を振り出し、しばらく無言の時間が続いた。そして夕方六時に彼女はいつものスマイルに戻って「お疲れ様!」とだけ言ってバイトを終了し、店を出て行った。七時からのパーティに向けてさらに追い込みをかける僕は、頭の中が彼女の革命的爆弾発言で見事なまでに壊滅状態となっていた。

「料理をしている男が格好いいなんて話、生まれて初めて聞いた。まったく知らなかった。そんなことに女は惚れるのか……」

 それまでの日本は「男厨房に入るべからず」の考えがまだ色濃く残る時代で、男性はホテルや有名なレストランの厨房ならいるけども、基本的に料理は女性の世界でごく希に男性もいるけども、といった感じ。ましてや僕は、レーサー&整備士挫折の落ちこぼれ男という屈辱からまだ抜け切れていない時のことだ。

 しかし、これは恥じなくてもいいのか、いや、それどころか格好いいのか。そうか、そうなのか、あの人が男として格好いいと言ったのだからそうなのだ。よし、俺は今日から料理の鬼になる!

 おっしゃ、もっともっと勉強するでっ。そして、とことんうまい料理を作って、そして、いつの日か彼女とチューを・・・・・。

 覚醒してしまった僕はこれ以来、貪るようにして店の仕事とプロ育成料理学校に情熱を注ぐ。学校では和菓子と洋菓子、日本料理、経営学、衛生法規などのコースも追加。そしてある時、学校の特別講師であった尊敬する先生にこんな相談をする。

「あらためて一から料理を勉強したいのですが、なにからやればいいのでしょうか?」

その先生は当時テレビにもよく出演しており、大阪で台湾料理店を営んでいた方。

「そうやね~、贔屓するわけやないけど、やっぱり中華がいいと思うね。中華は火や包丁の使い方がとことん多彩で、使う素材の幅もすごく広くて深い。ここから進めばどんな料理にも通用すると思うよ」

 なななんと中華だって!? と、その瞬間びびびっと頭に『新大蓮』の名前がスパーク。「そうだ、あらためてチーフに弟子として修業をお願いできないだろうか!?」

 高校卒業以来、殆ど顔を出していなかった僕は久しぶりにチーフと再会する。そして怪我をきっかけにレースの道を断念したこと、通りがかりの見知らぬ店に就職したこと、プロ育成の学校のことなど堰を切ったように話しまくった。黙っていたのは女性への欲望のことだけ。

「そこで、あらためて料理を学びたいなと思うんです。お願いです、なんでもやります。給料は要りません。だから僕にとことん教えてください!」

 そう言うとチーフは腕を組んで一瞬考え込み、昔と変わらぬロンピーをふかす。

「ほほぅ……レースを辞めたか。やっぱりカワムラ君は料理の道なんやな。よし、うちでよかったらもう一度おいで」

 以来、学校のある週四日ほどの夜十時頃から深夜二時くらいまで、また休みの日は通しで、再び、いや今度は弟子として『新大蓮』に通いだしたのだった。

 僕の心はオーバーヒート寸前、アクセル全開で突き進む。

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