第二幕 店 6.出前の帰りにバチがあたる

 ここだけの話だが、十八歳になる前から僕はたまに車を使って出前や皿下げに出ていた。運転するのはもちろんチーフの軽自動車。そろそろ自動車教習所へ行こうとしていた頃で、今のうちに運転に慣れておけば少しでも楽に試験にパスできるのではないか、というまったく浅はかな理由である。

 大人のチーフがよくも高校生に車を貸すものだと思われるだろうが、実はチーフは気付いていない。車の鍵は小物を置く棚の上に置かれていて、いつだって自由に持ち出せるのである。チーフが忙しい時はチャンスだと思って、バイクではなく車の鍵を手にする。出て行ってから気づくということが何度かあったが、殆どは帰ってきてもバレない。

 チーフの軽自動車はカナブンみたいな形をしたかわいいものだった。後部座席は常に倒したまま。アルミやプラスティックの大きなバットなどが詰まれていて、テイクアウトの折り箱や割り箸など店の道具が入っていた。チーフが出前に出る時はスクーターとこの車を使い分けていたようである。

 一九八〇年代の自動車はまだオートマティックではなく殆どがマニュアルである。運転席の左側にシフトレバーがついていて、左足でクラッチペダルを踏みながら、アクセルを開けると同時に左足のペダルを離していくのだ。そしてスピードを上げるほどにギヤを上げていく。両足両手がずっと忙しい。ま、それが楽しいといえばそうなのだが、公道を走るとなるとやっぱり緊張が走る。

 交通量の多いイナイチだけに、まずスタートを切るのがもっともびびる。運転の下手くそな人の最大の特長である、まずは発進時にエンストを恐れ、執拗な空吹かし。そして、道路に出る際、迫り来る車に不安なものだから今度は一速ギアのまま思いっきりペダルを踏み込んでしまう。エンジンを唸らせながら二速、三速へシフトアップ。

 交差点の手前でウィンカーを出し、ブレーキを踏みながらクラッチも踏んで、ギアを三速二速へと落としていきハンドルを切る。坂道発進などは毎回ドキドキだ。アクセルとクラッチの加減を間違うとバックしてしまい、後続車がいるとぶつかってしまう。何とか耐えることが出来ても、殆どはエンジンが唸る状態で発信してしまうのであった。こうして出前や皿下げに出かけるのだが、ちょっと慣れてくるとこれがもう自分でも嫌になるほど有頂天になってしまう。

 その日も左ペダルの右ペダル、はい、左シフトの右ハンドル!などと調子にノリまくっていた。さらに、店に居ついていた子猫を、この日は膝の上に載せ撫ぜながら出かけていたのだ。

 出前を済ませ、さて店へ戻ろうという段階になり、ふといつもと違う路地を通ってみたくなった。そこはバイクでしか通ったことのないS字カーブが続く細道。右手には鉄工所があり、左手は田んぼになっている。

 右へ左へと気持ちよくハンドルを切っていたら、いきなり鉄工所から何か大きな物音が聞こえた。

「グァッキーーーーン!」と、同時に僕の太ももの上にくるまっていた子猫が驚いて、そのまま太ももの内側に思いっきり爪を立ててズレ落ちたのだ。

「ぎゃぁぁぁああああ!」

 股間に目が覚めるような痛みが走った。と、その瞬間ハンドルを切り誤り、ノーブレーキでまっすぐ田んぼへダイブ。道路から五〇センチほど低くなっていて、土が軟らかだったからそれほど衝撃はなかったが、子猫は「うぎゃっーーーオギャっァア」とパニック状態で車の中を飛び跳ねている。

 車は前につんのめったまま。バックギアを入れても何をしても抜け出すことが出来ず、ついに僕は外へ出た。するとすぐに鉄工所のおっちゃんが出てきて「おいおい、大丈夫か? 何でこんなところに突っ込んだんや~」と心配そうに車を覗き込む。

「いやっ、あのっ、ね、猫が」

 僕は慌ててしまって言葉にならない。おっちゃんは僕の白衣の胸元を見て「あれ、そこの中華屋さんかいな。料理がひっくりかえっとんのとちゃうか?」などと言って、パンチパーマで低い声の僕をどうやら高校生とは思っていない模様。

「おっちゃん、すんませんけどちょっと電話を貸してもらえますか」

 当時は携帯電話なんてものがなく、工場の黒電話をお借りする。固唾を呑みながら電話のコールに耳を澄ます。

「はい! タイレンですっ」とチーフがいつものように勢いよく出た。

「あっ、チーフ? ごめんなさい、車で田んぼに突っ込んじゃいました。子猫を膝に載せてて、ぎゃーって股間を引っかいて、痛くてうわーってなって、そのまま突っ込んだ」

「なんやまた車に乗ったんかい! なんでパッソルを使わんのや! もうしょうがないな。怪我はないのか?!」

「怪我はないんですけど車がつんのめってどうにもならない。今○○鉄工所と言うところの電話を借りてます。す、すんません!」

 情けなくて、もう泣きそうだった。この後、すぐにチーフはパッソルに乗って駆けつけてくれた。そして鉄工所の人たちも助けてくれて総勢五、六人の男たちに車を道路まで引き上げてもらい、なんとか復活出来たのだった。見るとバンパーがへこんでいるだけで機能的には問題がなさそうだった。

「えらいすんませんっ。ほんまに助かりました」とチーフが頭を下げ、僕もぺこり。

「ほれ、車はわしが運転して帰るから、カワムラ君はパッソルで戻り!」

 パッソルにまたがりヘルメットをかぶる。と、そこでふと子猫はどこに行ったかと思い出し周囲を見渡す。しかし、どこにも見あたらない。落ち着いて暮らせそうもないことを悟って逃げたのだろうか。

 それにしても鉄工所のおっちゃんたちのおかげで助かった。チーフにも頭が上がらない。自分が単なるイチビリ(関西弁で調子乗りの意味)であることを痛感した。

 この一件以来、無謀なことはやめて僕は真面目に教習所へ通った。まぁ当たり前やね。

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