第二幕 店 3.海へ魚を釣りに行く

 ある日、釣りに行くことになった。釣りなんてものは、親父が生きていた頃に近くの池や湖に二、三回連れて行ってもらったくらいで、特に興味があったわけではない。しかし、常連客のオサムちゃんが「絶対に釣れるから行こう」と言い出し、それに乗せられたチーフが「よっしゃ、カワムラ君の内定祝いや」となった。

 行き先は神戸西方にある瀬戸内海に面した舞子という地区だ。今は世界一デカイという明石海峡大橋が架かかっている場所である。午後三時頃、原っぱのようなところにオサムちゃんのワゴン車は止まった。

 そして、あれこれと仕度をして、テトラポットの上からえいやっと投げる。が、今まで糸がたれた簡単なものしか触ったことのない僕にとって、リールなるものに触るのも投げるのも初めてのこと。

 道具はすべてオサムちゃんが用意してくれた。リールには糸が巻かれていて、そのガイドを外して人差し指で糸を抑えながら、投げると同時に指を離すのだと言う。釣り針にその辺で拾ったミミズを刺して垂らすだけの釣りとはえらい違いだ。

 何度もオサムちゃんが教えてくれるが、これがなかなかうまく行かない。指を離すタイミングがつかめず、前に飛んだかと思ったら背後に落ちたり、上にあがっただけで釣り針がテトラに引っかかったり、横に飛んで隣の人の糸ともつれたりでもう大変。仕掛けは野球のボールくらいもありそうな大きな浮きと、大きな鉛、籠。エサはアミエビといわれる臭い小さなエビの塊をおもちゃみたいなスコップで籠の中に詰め込むのである。

 オサムちゃんというのはチーフと同じ歳くらいの人で、常連客の中では珍しく酒、女、賭け事は一切なし。釣りやゴルフなどアウトドアが趣味である。肌は小麦色で体系は細マッチョ。さらりとしたストレートヘアーのセンターわけという実にナイスなスポーツマンで、とにかく女性からもてまくっているという噂だった。

 たまにうまく投げられるとそのたびに「よっしゃー!それそれ、いい感じ~」などと誉めてくれるものだからこちらは段々やる気がわいてくる。

 チーフはどうかというと、中華しかできないかと思えばこれが驚くほどに上手である。

「チーフって釣りできるんですね」

「まぁな。わしは淡路島の出や。海の近くで生まれ育ったもんやからよう釣りはやったで」

すぐ目の前に淡路島がくっきりと見えている。距離は三キロほどしかない。

「えっーそうやったんですか。だったら実家に帰って遊んだほうが楽しいんちゃいますの?」

「わしは五人兄弟の末っ子やし。親も歳がはなれてて、帰ったって何の話をしたらええかようわからん。こうやってオサムちゃんなんかと釣りしているほうがはるかに楽しいわ」

「へぇ~家族がぎょうさんいてもそういうもんですか」

 しばらくが経ち、オサムちゃんの浮きが沈んだ。みんなではしゃぎしながらリールを巻き上げていく。

「おおっ!これはいい引きや。サバかな、なかなか大きいかもっ!」

 釣り上げると三〇センチほどもある大きなサバであった。茨木から車で一時間半ほどの海で、このような立派なサバが釣れてしまうことに驚くばかり。

「これ、売ってるのんと変わりませんやん! 塩焼にして食べたら最高なんとちゃいますか!」

 そう言うとオサムちゃんは濃い眉毛の片方をくいっと上げて「ノンノンノン、それやから素人は困る。サバは脂が乗っててなんぼや。これを見てみ、サイズは大きいかも知れんけど痩せてるやろ?」と言ってサバを掴んで見せる。

「ほんまやな。えらい貧相な身体つきしとるわ」とチーフは覗き込みながら言うが、魚の体系のことなど考えたこともない僕にはなんにも感じない。

「それにな、サバの生き腐れと言ってこいつらはすぐに傷むねん。希に生きてるのに腐ってるやつもいるから要注意や」

 そういってオサムちゃんは小さなまな板と包丁を取り出して、暴れるサバをぐいっと鷲づかみにしてエラの裏側に刃をずぶっと入れた。そしてすぐに指を突っ込み縦にへし折り、血がぷっしゅと吹き出たかと思うとエラを取り去って海へ投げ捨て、バケツに汲んでおいた海水でじゃぶじゃぶじゃぶ。最後に氷の入ったクーラーボックスに入れた。

「これでもまだ安心はできへん。サバは死んでも寄生虫が生きとるからな」

「おぇっ~気色悪ぅ」

「そうや、他の魚にもいることがあるけど特にサバには多いんや。うまいもんには何でもそれなりの代償があるっちゅうことやな。サバの食中毒はキツイいんやで。ほんまはワタ(内臓)もだしておいたほうがええねんけどそろそろ時合(釣れる時間帯)やから急ごう」

 ギーギーという鳴声と共に、刃を入れた時とへし折った時の鈍い音が耳についてはなれない。その生々しさを目の当たりにした僕はなぜだかめらめらと闘志のようなものが湧き上がってきた。

「よぉ~し、俺もやったるで~!」

「その調子や!!」

 次にチーフの浮きが沈んだ。

「おっ、きたで~!」

 オサムちゃんと大騒ぎしながら竿を立ててリールを巻く。今度は先よりもやや小さめのアジだった。そしてチーフもまたアジのエラに刃を立てて、ずぶっと一押ししてからバケツの海水で洗い、クーラーボックスの中に入れた。

「やっぱり食中毒ですか?」

「というよりアジは生で食べることも多いから臭みを取ってる感覚やな。後で持って帰ってから食べようか」

「やっほーい! 食べたい、釣りたい」

 またオサムちゃんの竿が大きくしなる。

「おおーっし、きた! これはまたサバか。うぐ、なかなか引きよる」

 釣り上げるとサバだった。再び先と同じ処理をしてクーラーボックスへ一丁あがり。その後もオサムちゃんは殆どがサバを、チーフは大半がアジを釣り、一時間ほどの間に何十もの魚を釣り上げた。聞けば深さによって釣れる魚が変わるらしい。

 しかし、悲しいことに僕の浮きはなかなか沈まない。オサムちゃんに助けを求めるとこんな答えが返ってきた。

「想像力が足らんねん。勢いだけではあかんのや。魚が今どのへんを泳いでて、どんな気分なのかをよう想像してみ。どうやイメージ沸いてきたか? ほら見てみ。自分のはそんな手前やん。そこは水も澱んでて魚は入ってこんのとちゃうか。もうちょっと沖の方へ飛ばしてやらんと」

 オサムちゃんやチーフの浮きの位置と比べると僕の浮きはかなり手前である。引き戻して、オサムちゃんが言うように、竿をしならせるイメージで投げてみた。

「おおっとー、ちゃんと飛んだやんか! いいぞ、そこなら魚が泳いでくるかも」

なんだかわからないがドキドキわくわく。来る気がする。うまそうな匂いにつられて集まってくる気が。と、その瞬間ズボッと大きな浮きが消えた。

「おおおおおぅ! ついに来たっ!」

「よっしゃー! 来た来た」とオサムちゃんが目を丸くする。

「カワムラ君っ、焦らず待たず、竿を立ててリールを巻き上げるんや」

 チーフが自分の竿を置いて僕の横にかけつける。

「へぇっ! うぐぐっ、重たい。ぐいぐい引っ張られる!」

「自分で釣るのは気持ちええやろ!?」とオサムちゃん。

「はいっ~最高です!」

 釣れたのはなかなか大きなサバであった。やった! 生まれて初めて海の魚を釣り上げた。オサムちゃんが手際よく〆てくれて無事にクーラーボックスへ。

夕方の六時頃、帰路に着く。

「しかしチーフが淡路島の出身だったとは。魚がめっちゃうまいのとちゃいますの?」

「そうや。海だけやのうて淡路島は山も豊かなんやで。山芋を掘ったり山菜をとったり。今日は久しぶりに瀬戸内海を見て気持ちよかったわ」

「海といえばデートに来るだけで魚釣りなんてやろうとも思ってなかった。でも今日でめっちゃ好きになりました。オサムちゃんが格好ええ理由もわかった気するし、チーフが淡路島出身で魚に精通していることも知ったし」

 こうして二時間ほどをかけて我々が店に戻ってくると社長と娘さんが待っていた。オサムちゃんがクーラーボックスの中の魚を別け、チーフは自分が釣った分をさっと流水で洗いバットの中へ放り込む。いったい今から何が始まるのか。僕は厨房でチーフの横について興味津々に手元に目を凝らす。

 シンクの上に小さなまな板を置き、何尾かのアジの腹にナイフを入れてワタを取り出していく。寄生虫がいるかもしれないと聞いていたサバからは一際大きなワタが出てきて気持ちが悪かった。これらを再び流水で洗い、今度はアジのゼンゴと呼ばれる側面の骨のような部分をそぎ落とし、半身ずつに切り分けた。三枚卸というやつだ。その後薄い皮を手で剥きとり、身を細かく切り、たっぷりのネギのみじん切りや生姜、醤油、ごま油を少しだけ垂らしてよく混ぜ出来上がり。スプーンで食べてみるとちょっと生臭いがおいしい。これは「アジのたたき」というらしい。茗荷や大羽の刻みを入れると臭みが消えてより美味しくなるのだとか。なんだかワンカップ大関を飲みたい気分だ。

 次にサバ。こちらも三枚卸にした後、五センチ幅くらいにぶつ切りにして、塩と胡椒、卵少しと片栗粉をいれ油で揚げた。山椒塩をつけて食べる。鶏の天ぷらやエビの天ぷらを食べる時につける香り塩だ。と、これがいくらでも食べられるほどおいしい。

 残りのアジ数尾は姿揚げに。油はいつも以上にばちばちと弾け、黄金色の泡が吹き出す。何度か火を弱めたり強めたりしながらけっこう長い時間をかけて揚げた。その後、熱したフライパンに油と豆板醤、潰したニンニク、千切りしたネギやピーマン、ニンジンなどをいれ、鶏がらスープを注ぎ、醤油と酢、砂糖などを入れて水どき片栗粉を加えごま油を少し垂らす。これを先ほど揚げた魚の上からちゅわーっとかけるのだ。

「ほい、アジのあんかけ。小さいのんは骨ごといけるから!」

 みんなで取り分けて食べる。小さなアジはこんがりとせんべいみたいでたまらない。大きな身はさくさくだ。それにしてもチーフがこんな料理を作れるなんてまったく想定外だった。なぜメニューに入れないのか。というか、そもそもこれは中華料理なのか。

「中華料理は魚もよく使うんや。特に淡水魚が多いけどな。同じような料理をサバでやってもおいしいし。でも、ここは小さな店やから鮮度が大事な魚はなかなか使いにくいわ」

 いやはや、今日はとても充実した一日だった。高校はつくづくつまらないところだ。

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