第8話
誰もいない下駄箱で靴を履きかえ、俺は学校規定のビニール製のカバンを左肩にかけ、昇降口を後にした。今日一日、新しい何かが芽生える気がしていたけれど、なんだか疲れただけのような気がする。
そのまま家に帰ろうと思ったが、今朝、母さんに望くんのお土産をもらってくるように言われたことを思い出した。この無駄な記憶力、どうにかしてぇ。
運動場で行われている野球部の練習を見ながら、俺は歩き出した。吹奏楽部の音も風に乗って聞こえてくる。まだ部活は始まって間もないから、それぞれのパート練習をしているところだ。その為に、まだ「音楽」ではなく、ただの雑音のような音ばかり。
一年は真面目に参加しているだろうか?
今の俺が気にしてもしょうがないことが頭に浮かび、俺は頭を振ると校門を出た。
淑子おばさんの家は、俺の家とは学校を挟んで反対方向になる。門から出て、俺の家は左。淑子おばさんの家は右。だから、自分の家からは遠ざかることになる。正直に言えば、かなり面倒だ。でも、俺が真っ直ぐ家に帰ったら、母さんが怒り狂うだろうことは予想できた。俺の金髪は怒らないくせに、そういうどうでもいいことには怒る人なのだ。それも、そういう時の母さんはかなりしつこい。
俺は諦めて、淑子おばさんの家を目指した。
学校から徒歩十五分。淑子おばさんの家に到着する。純和風の家で、瓦屋根が光っている。ぐるりと家を囲む塀の中には、立派な日本庭園が広がっていた。いつ来ても草一本ない庭だ。庭の奥には池があって、そこには一匹が相当な値段の錦鯉がけっこうな数泳いでいる。小さい頃は、ここで鯉に餌をやるのが大好きだった。
俺が立派な門の前に立ち、そこに備え付けられたチャイムを鳴らそうとしていると、俺の頭上の方から声が降ってきた。
「義臣なのか? マジ?」
上を見上げると、光る瓦の上に寝転んだ従兄の望くんが俺を見下ろし、ニヤニヤと笑っていた。屋根の上は望くんのお気に入りの場所だ。
「入れよ! 俺もすぐに行く」
俺は頷くと、敵を迎え撃つ城並みの分厚い木製の門を開け、庭の石畳の上を通って玄関へと向かった。玄関の横開きの引き戸には、檜が惜しみなく使われ、凝った彫刻が施されている。俺はもう声をかけることなく中に入ると、そのまま勝手知ったるよその家の廊下を進んだ。この廊下の先が、淑子おばさんの家のリビングだ。そのリビングに入る途中、二階から降りて来た望くんと出くわした。望くんは俺を見ると、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「うわー。マジかよ! 義臣、マジで染めたんだ! うわー、信じらんねぇ! 義臣が! うわああ」
驚いているのか、おもしろがっているのか分からない。
俺たちはそのままリビングに流れ込んだ。このリビングも相当の広さだ。そしてあちこちに、熊の彫刻だとか、壺とかが飾ってある。そのリビングで、淑子おばさんはテレビを見ながら洗濯物を畳んでいた。廊下で騒いでいたので、俺が来たことに気づいていると思う。でも、おばさんはテレビの方を向いているため、まだ俺の金髪は見ていない。
「義臣くん、わざわざごめんね。望のお土産なんて、いつも同じ……」
そう言って振り返った淑子おばさんの目が、冗談ではなく、本当に点になった。そしてそのまま、おばさんはフリーズした。黙りこくってしまったおばさんと俺たちの間に会話はなく、チッチッチという時計の音だけがこだました。そんなおばさんと俺との間の静けさを破ったのは望くんだった。
「あはは。お前、今年最大の傑作!」
そう言って、望くんは笑う。望くんとは反対に、淑子おばさんは我に返ると眉を寄せ、俺の顔を厳しい顔をして見つめた。
「義臣くん! 何考えてるの! 望ならいざ知らず、あなたがこんなことするなんて!」
いやいやいや。淑子おばさん、あなた、自分の息子をけなしてますけど?
「景子は何も言わなかったの? どうしてこんなことしちゃったの? もしかして望の影響? 望、あんた、義臣くんに何か言ったの?」
この発言を聞いても分かるように、望くんは淑子おばさんに信用されていない。それもそのはず。望くんは現在大学三年生のはずだったのだが、大学へ入学して半年ほどすると勝手に休学届を出し、それ以来世界各国を旅行して回っている。望くん曰はく「世界を股にかける男になるため」だそうだが……。そして旅費の底がつくと日本に帰ってきてバイトに励み、お金が貯まったらまた外国へ。という生活を繰り返しているのだ。
「信用ねぇなぁ。俺、何にも言ってないからね。義臣が勝手にやったことじゃねぇの?」
望くんは白々しくもそう言ってのけた。まぁ、カラーリングもピアスも、俺が勝手にやったことには違いない。多少の影響は受けたけれども。
「嘆かわしいわ! うちはもう仕方がないとしても、義臣くんだけは真っ当に成長してくれると思ってたのに! あんたたち、一人っ子なんだから、いずれ家を継ぐ立場になるのよ? こんな状態でどうやって家長になるの!」
淑子おばさんは母さんより考えが古い。年齢的なものもあるかもしれないが、淑子おばさんの中では、いまだに長男は家を継ぎ、家族を養っていくものだという昔ながらの理念が生きている。望くんも俺も一人っ子な分、期待が大きいのかもしれない。
「いいんじゃねぇの? 義臣だってハメを外すときくらいあるって。早いうちに経験しておいた方が絶対後々のためになる」
望くんは、先週アメリカから帰ってきたばかりだ。そのせいなのかは分からないが、目の前の望くんは鼻ピアスをし、ドレットヘアと呼ばれる独特の髪型をしていた。この髪型、洗髪しにくいと聞いたことがあるけど、どうやって髪を洗ってるんだろう? 俺は目の前で怒りを露わにするおばさんよりも、望くんの髪型の方に気を取られてしまった。
「あんたに聞いてないわよ! 大体、あんたが悪影響を与え過ぎてるのよ! 義臣くんはあんたと違って頭脳明晰なのに! 望はもう仕方がないとしても、義臣くんにまで影響与えちゃダメじゃない!」
淑子おばさんは感情的になり、到底我慢できないというように、思ったこと全てが口に出てくる。こういうとき、母の景子とは違うなぁと思ってしまう。姉妹というだけあって、顔はそっくりなのだけども。
「あー、おばさん、望くんは関係ないんだ。俺が勝手にやったことで……」
間をとりなそうと思っても、おばさんは聞く耳を持たない。日頃のうっぷんが溜まっているらしく、その怒りはしばらく治まりそうになかった。
「義臣くん、いい子だから、望のようになっちゃダメよ? おばさん、景子に顔向けできない……」
淑子おばさんが今度は涙を流し始めた。畳んでいた洗濯物で涙を拭くおばさん。
俺は途方に暮れてしまい、望くんの様子を窺い見る。
「義臣、これお土産。ありきたりのチョコレートだけど、景子おばさん好きだろ?」
望くんはおばさんが泣いていることに触れることなく、リビングのテーブルに乗っていた箱を持ってくると俺に手渡した。さすがに外国のお土産だけあって、全てが英語で書かれている。その箱にはマカダミアナッツとチョコレートの写真が張りつけられていた。
「あ、ありがとう」
俺が受け取ると、望くんが俺の背中を押した。
「お袋メンドクサイから、もう帰れよ。な?」
望くんの勧めもあって、俺はそのまま帰ることにした。お土産はもらったし、用事は済んだ。
未だグズグズ泣いているおばさんが気になりはしたが、望くんが言うように、淑子おばさんのしつこさは俺もよく知っている。昔、この家の和室で、キャッチボールをしていた俺と望くんは、床の間に飾ってあった壺を割ってしまったことがある。その時のおばさんの権幕はそりゃあすごかった。そしてそれを今でも持ち出してチクチク言われることがあるのだ。
「じゃあ、また。おばさん、お邪魔しました」
ジットリとした目で見詰めてくるおばさんにとりあえず挨拶だけして、俺は玄関へ向かった。その後ろを望くんが付いて来る。
靴を履いて外に出ると、それまで黙っていた望くんが俺の背中をバン! と叩き、またゲラゲラと笑い出した。今日はやけに叩かれる日だ。
「義臣、お前、最高!」
日本家屋の前で大爆笑している鼻ピアスにドレットヘアの望くん。不釣り合いとしか言いようがない。純日本家屋の前に立つ望くんを見て、俺は自分の選択に疑問を持った。
「望くんが言ったんじゃないか! 金髪ピアスにしてみろよって。セカイが変わるぞ! って」
俺は爆笑している望くんに腹が立って、以前望くんに言われたことをぶつけた。望くんは笑いすぎて腹が痛いと言って、自分の両手で腹を押えている。
「いや、言ったけど。言ったけど、マジメが取り柄のお前が、本気で金髪ピアスにするなんて思ってなかったつーか」
「望くん、笑い過ぎだろ? 俺、マジメにやってんだからさ」
「だから、マジメに金髪ピアスっつーのがおかしいんだって!」
そう言って、望くんがまた笑う。
「あー、マジ今年最大級の爆弾だったわ」
望くんはようやく笑いが治まったらしく、笑いすぎて溜まった目元の涙を拭った。
「それにしても、お前、琴葉に会ったのか? 琴葉、怒るんじゃねぇの?」
再び耳に響く「琴葉」の名前。
琴葉は幼馴染だ。正式には、望くんの幼馴染。この純日本家屋の二軒隣にある白い洋館が琴葉の家で、琴葉は望くんにくっついて回る金魚のフンだった。こういう言い方をすると、琴葉は絶対怒ると思うけど。一人っ子同志だった俺と望くんは、母親同志に連れられてよくお互いの家を行き来した。そうして、お互いの金魚のフン同志も含めての四人、俺と望くんと琴葉とタカは遊び仲間となり、俺たちが中学に上がるくらいまではよく遊んだ。望くん以外の三人が同級生だったことも、遊び仲間としては都合が良かった。ただ、淑子おばさんがタカを拒絶するようになってからは、表立って四人で会うことは無くなったけど。
「あの頃から琴葉に勝てなかったもんなぁ。お前」
望くんがニヤニヤする。
「別に勝ちたいわけじゃないし」
「またまた~。お兄さんは分かってますよ~! お前が琴葉に吊りあうように勉強を頑張ってたことも、琴葉を追いかけて今の高校を選んだことも! お前って一途だねぇ」
小さな頃からのモロモロを知られている以上、俺の立場は弱い。だからといって、このままからかわれ続けるのは屈辱的だ。
「望くんだって、琴葉には頭が上がらないだろ?」そう言い返すと、望くんは「それを言うなら、義臣だってタカだってそうだろ?」と言いだした。
昔、俺たちの間で起きたある事件が思い出される。あの事件以来、俺たち三人は琴葉にいいように使われるようになったのだ。その時の恥ずかしさを思いだし、俺たちはお互いにそれ以上触れないようにしようと頷きあった。この件は、タカを含めた俺たち三人の、触れられたくない過去なのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます