第6話
体育館の裏の陽だまり。それは、外掃除をするための道具が入っている倉庫と空まで伸びているかのような大きな楠の木の間にあった。体育館の裏というだけあって、どうしても日陰が多くなるのだが、僅かなスペースに明るい陽の光りが降り注いでいた。
俺は影を作る木の幹によりかかると、足を投げ出して座り込んだ。上を見上げると、雲一つない真っ青なキャンバスに楠の木の緑が映える。広々とした空の下に座り込んでいる自分がひどくちっぽけなもののように思え、俺は「はぁ……」とため息を吐いた。
気分はかなり高揚していると思うのに、ひどく疲れを感じる。
キーンコーンカーンコーン キーンコーンカーンコーン
予鈴に続いて、昼休み終了のチャイムが鳴った。高い音と低い音が交互にならされるチャイムを聞き、俺は生まれて初めての「サボり」を体験するべく、持ってきた弁当の蓋を開けた。考えることなく走ってきたために、弁当の中身は右側に偏り、甘辛く味付けされた肉巻の汁が、表情が無くなり形だけとなったクマとウサギを茶色に染めている。
俺はとりあえず弁当を食べることにし、陽射しに目を細めながら、せっせと箸で弁当の中身を口に運んだ。まずくはないが、茶色い汁を吸いこんだクマとウサギは微妙な味だ。最後の一口を食べ終え、弁当箱を放り出すと、俺は幹に背を預けたまま目を閉じた。微かに聞こえる鳥の声。ゆるやかに吹く風の音。
授業をサボるときって、みんなどんなことをして時間を潰しているんだろう? そんなことを考えていると、ドッドッドッドと響く重低音が遠くから近づいてきた。こちらに近づいてくるにつれ、その音が耳障りだと感じ、心の中で密かに悪態をついていると、俺の近くで音がピタリと止んだ。
「ヨッシー!」
目を閉じていた俺の耳に聞きなれた声が聞こえ、続いてガシャガシャと柵が揺れる金属音。俺はその音の方を向き、今まさに柵を乗り越え、こちら側に下りてきている人物を見つけた。
この陽だまりは、外部から見えないように位置づけられている。楠の木が植えられているのも、道路に面しているこの場所が、外から見えないよう意識されてのものに他ならない。その道路と学校を隔てているのは、学校をぐるりと取り囲んでいる鉄製の柵のみ。けれど、鉄柵は、足をかけて上りやすいように配慮されているかのような構造をしているので、乗り越えようと思えば、いつだって誰だって侵入できるだろう。この学校内に、鉄柵を乗り越えて出入りしようという生徒はいないとは思うけれど。
工事現場での仕事で鍛えているせいもあるだろう。タカはヘルメットを被ったまま鉄柵を難なくひょいっと乗り越えて、俺が寄りかかっている楠の木まで歩いて来た。グレーのツナギを着ていることからしても、タカは仕事中のはずだった。今日は雨も降っていない。
そこで俺は、さっきの音がタカの原チャリだったのだと気づいた。少し背筋を伸ばして柵の方を窺うと、藍ちゃんが「タカちゃん号」と呼んでいる真っ赤な原チャリが止めてあるのが見えた。
「どうしたんだよ? 仕事は?」
タカは俺が通うこの高校に来たことはない。帰りに近くの公園で待ち合わせたり、俺がタカのアパートに立ち寄ることはよくあるが。
タカはヘルメットを外し、それを地面に転がすと、俺の横に並んで座った。
「お前休んでるんじゃないかと思って家に行ってみたんだけど、叔母さんから学校行ったって聞いたからさ。もしかしてどっかでサボってんじゃないかと思って、町を回ってきた」
マジか……? 言葉にならない呟きが俺の口の中で弾けた。タカは面倒見がいい。でも、ここまで心配されるのは予想外だった。タカは中学生の頃から髪の毛を染めているし、俺が髪の毛を染めるくらいどうってことない。そう考えると思っていた。
「昨日の今日だろ? 気になるって。俺が手伝ったなんて、叔母さんにも顔向けできねぇし。それにさっき、琴葉から『ヨッシーを悪の道に誘ったのはタカ?』っていうラインが来た。鬼がすっごい顔で怒ってるスタンプまで送られてきたんだぜ? ヤバいだろ? それで親方に事情話して、昼休みの後一時間休憩もらって様子見に来た」
なんだ。純粋に俺の心配をしてくれた訳ではなく、琴葉が怖かったからか……と納得する。
「琴葉を怒らせたら……琴葉を藍には絶対会わせらんねぇ」
一見ヤンキーで怖そうなのに、琴葉に頭が上がらないところなんて、タカも普通の思春期男子だ。まぁ、確かに琴葉を怒らせたら怖いけど。
「大丈夫だって。俺なりに納得したら、ちゃんと今後のことも考えるし。タカは心配しなくていいよ。琴葉のことも俺がどうにかする」
俺の言葉を、タカはまるっきり信用していないようだった。
「お前に琴葉がどうにか出来るとは思えねぇ。大体、どうにか出来ているなら、既にお前ら……」
言いかけるタカの言葉を俺は「わああああああ」と大声を出して、もみ消した。
「そんなにしてまで金髪ピアスにしたかった理由って何なんだよ?」
タカは琴葉が怖いというのももちろんあるのだろうが、それ以上に本当に心配してくれているのだろう。
俺の心の中で、葛藤が始まる。タカになら話してみてもいいんじゃないだろうか? タカなら、笑ったりしないんじゃないだろうか? 俺なりの「理由」を打ち明けても……?
そう悩んでいた時だった。
「こら! お前、どこの生徒だ!」
突如として現れた生徒指導の高塚。俺とタカはあまりに驚きすぎて、その場にシャキン! と立ち上がってしまった。高塚が俺たちに近づいてくる。
「毛利、お前、サボりか?」
そう言いながら、緑色のジャージのオッサンは、タカを上から下まで執拗に眺め、その目に侮蔑の表情を浮かべた。
「派手な音が聞こえたから来てみれば、お前が毛利をそそのかしている犯人か? その恰好からして学生ではないな。どうせどこぞの高校を中退でもしたんだろう。毛利、お前は友達を選ぶべきだ。お前は優秀な生徒だ。こんなヤツと付き合うと、お前の人生まで狂って行くぞ?」
俺は意識していたわけではなかったが、両方の拳を握りしめていた。自分の爪が手のひらに食い込むほどに。
「毛利、よく考えろ。一時の気の迷いが、これからの人生に一生関わってくるんだ。こんな低レベルなヤツとお前は同じじゃない」
ふざけるなよ? お前がタカの何を知ってるっていうんだ? タカは低レベルなんかじゃない。タカはタカで、俺と比べるものでもないんだ!
一瞬にしてカッと頭に血が上った。こんなに感情的になったのは初めてかもしれない。これまで出すことすらなかった、俺の内に秘めた怒りに一気に火が点いた。
「うるせぇ! お前なんかに、俺の何が分かるんだ! タカの何が分かるんだよ!」
俺はこれまでに出したこともない大声を出して叫び、高塚へ自分の拳を繰り出した。いや、繰り出そうとした。高塚にヒットする前に俺の右腕がタカにしっかと掴まれ、俺はそのまま後ろへ放り出され、地面へ転がされてしまったけれど。
俺が反撃してくるとは思ってもいなかったらしい高塚は、恐怖で顔が歪んでいた。それもそのはず。高塚は一人。俺たちは二人。俺たちが二人で殴り掛かれば、高塚なんて目ではない。しかもタカはがっちりとした体形をしている。高塚はそのことに気づいたのだ。
「お、お前ら、暴力は許されることじゃないんだぞ」
緊張で言葉を噛みながら、それでも気丈に対応しようとしている高塚だが、先程までの威勢はなく、目が泳いでいる。まぁタカなら、俺の手助けなど必要ともしないだろう。高塚ごとき、すぐに一ひねり。ざまーみろ!
俺が事の成り行きを見守っていると、地面に転がった俺を庇うようにして、俺の前にタカが立ちふさがった。そして背筋をシャキンと伸ばし、九十度の角度でタカは高塚に向かって頭を下げた。
「校内に勝手に入ったのは俺が悪いっす。すみません。義臣には、俺からも言って聞かせますんで」
俺はあ然として、タカの背中を見つめた。
どうして? どうしてタカが謝る必要があるんだよ? あれだけ高塚に侮辱されたのに、どうして殴り返さないんだ? タカは少しも悪くないじゃないか! 俺の髪の毛だって、授業をサボったのだって、全部俺が悪いのに、どうしてタカは……。
俺は何も言えず、ただ唇を噛む。口内に鉄錆びの味がし、強く噛みしめすぎたことに気づいた。でも、それでも力の加減は出来なかった。悔しいのと悲しいのと、自分が歯がゆいのと……。
「まぁいいだろう……」
高塚は形勢が逆転したことに安堵し、また強気な態度に出始めた。
「お前ら、ここで煙草吸ったりしてないだろうな?」
高塚は俺とタカのまわりを歩き回った。煙草の残骸でも落ちていないかと思ったのだろう。
「先生? 最近の不良は健康第一で、煙草なんて吸わないっすよ? 」
タカの返しに、俺は噛んでいた唇を緩め、吹き出していた。確かにタカが煙草を吸っているところを見たことはない。そうか、タカなりに健康に気を使ってたワケか。変に納得した俺だったけれど、そのタカの発言がおもしろくなかったらしい高塚は、また態度を硬化させた。
「とにかく、お前はこの学校の生徒ではないから、即刻出て行きなさい。毛利はこのまま生徒指導室に来ること! 逃げたら相応の処分があることを覚悟しろ! 五分以内に来るんだ! いいな!」
高塚は俺の方を指さし、命令的にそう言うと校舎の方へ消えた。引きずっていかれるのかと思ったけれど、そこまではしないらしい。
俺は地面に座り込んだままタカを見上げた。タカは高塚の背中を見ていたが、俺の視線を感じたのだろう。俺の方へ振り向き、ほんの少し微笑んだ。そして「生徒指導室、ちゃんと行けよ?」とだけ言うと、来たときと同じようにヘルメットを被り、鉄柵に足をかけて軽々と道路へと飛び降りた。
ドルン! 原チャリのエンジンがかかる。
俺は立ちあがると、遠ざかっていくタカの姿をただ見送った。
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