2/6 09:35 a.m.

「百瀬!?」

『わりぃ、意識とんでた』


 上ずっているけれど、耳に押し当てた電話の向こうから聞こえた声は、確かに百瀬のものだった。ぷつん、と緊張の糸が切れ、からだから一気に力が抜ける。


 ――よかった。


 スマホを握りしめたまま、抱えた膝によろよろと顔をうずめる。


 本当によかった。

 電話の向こうに、まだ手の届くところにあいつがいる。


 ただそれだけで満たされた。失わずに済んだことで、また俺は、ちゃんと息をすることができる。


 怖いと思っていた気持ちを、遠くへ押しやることができて。

 閉じた瞼、瞳の奥から、熱いものが込み上げてきた。


 こんなにも大きな心からの安堵を感じたのはどのくらいぶりのことだろう。止まることなく膨張し続けていた不安がはじけた音がして、ろくに言葉も出てこない。


『もう九時半か。よく寝たな。おかげで頭がスッキリしたぜ』


 顔もろくに上げられない俺とは対照的に、百瀬はすこぶる暢気のんきなことを言っている。くそ、なにが『よく寝た』だ。人の気も知らないで。


『で? 調べはついてるんだろうな?』


 挨拶は終わりだとばかりに、百瀬は事件の話題を振ってきた。肝心な俺は言うまでもなく、全然気持ちが切り替えられないままだ。


『おい池月、聞いてんのか?』


 聞いている。聞いているけれど、吐息が震えるばかりで全然返事が声にならない。


『おい……』

「――バカ」


 ようやく絞り出したのは、精一杯の心の叫び。


「心配したんだぞ」


 紛れもない本心だった。

 みんなで事件の話をしている時も、俺だけはずっと、百瀬のことを頭の片隅で考え続けていたのだから。


 ――もう二度と、取り残されるのはイヤだ。


 美姫がいなくなった時のことを、いつまで経っても忘れることができずにいる。

 あの時感じた絶望を、もう二度と、味わいたくなんてなかった。


『なんだよ』


 涙声になってしまった俺を、百瀬はフンと鼻で笑う。


『オレが死ぬとでも思ったか?』


 ――あぁ、そうだよ。悪いか。

 美姫のことが頭をよぎったんだ。あいつだって、俺になにも言わずに逝っちまったから。

 怖かったんだよ。俺たちは今、おまえのいるその場所から遠く離れた広島にいるんだぞ?

 おまえだってわかってるだろ? 俺は生粋のビビりなんだ。目に見えないものを信じることが、どれだけ勇気のいることか――。


 言ってやりたい、ぶつけてやりたい言葉たちは、胸の中だけで渦を巻く。涙がにじみ、視界が歪んだ。


 少しの怒りと、大きな安堵。

 百瀬にはきっとわからないだろう。今の俺が、どんな気持ちでいるのかなんて。


『池月』


 やがて百瀬は、ほんの少しだけ悔しさのようなものをにじませた声で言った。


『悪かったよ、心配かけて』


 思いがけないその言葉を聞いてはじめて、俺はゆっくりと目を開けた。もしも目の前に百瀬がいたら、ジト、と睨みつけるように顔を上げる。


「……絶対思ってないだろ」

『あ?』

「悪いだなんて本当は思ってないんだろって言ってんだよ」

『はぁ!? てめえ池月……人がせっかく謝ってやってんのに……!』

「謝って『やってる』ってなんだよ。俺は本気で……」

『だーもうっ! 男のくせにいつまでもピーピーピーピーうるせぇんだよおまえはッ!』


 ついに百瀬が怒り出して、大きな舌打ちを響かせた。


『約束する! これからはもう心配かけたりしねえし、勝手にいなくなったりしねえから! ……ちくしょう、これで満足か!?』


 張り上げた声で紡がれたのは、およそ百瀬の口から飛び出した発言とは思えないような、優しくて、温かな言葉だった。

 どこまでも思いやりに満ちていて、ゆっくりと心が落ち着きを取り戻していくのがわかる。


 絶対なんて、この世にはきっとないのだろう。

 けれど、今の言葉だけは。

 今の言葉だけは、なにがあっても信じ続けていたいと思った。

 高慢で、自分勝手なあの百瀬が、俺のために一生懸命伝えてくれたものだから。


「あぁ」


 ようやくしっかりと顔を上げ、俺はしゃんとした声で答えた。


「満足した」


 今の俺が笑みを浮かべていることを、たぶん百瀬は知らないだろう。

 それでもよかった。

 これはただ、俺の問題にひとつのケリがついただけだ。


 チッ、と百瀬は不服そうに舌打ちをした。


『めんどくせえ』


 無理に声を張ったせいか、ゲホゲホと苦しそうに咳き込む百瀬。息をするだけでいっぱいいっぱいという感じだ。


「大丈夫?」

『あ? ……うっせぇな。オレのことはいいから、さっさと調べた結果を報告しやがれ』


 なんだよ、せっかく心配してやったのにと言ってしまいそうになるも、百瀬は他人に気遣われることを嫌うのだと思い至って口をつぐむ。

 結局俺は百瀬の要求どおり、みんなで手分けして調査した事件に関するすべての事実を報告した。


 俺たち四人の話し合いの中でもっとも大きな議論となったのは、瀧田さんの死亡推定時刻についてだ。中井が襲われた際に719号室で見たという瀧田さんらしき人影の問題も含め、百瀬はどういう結論を導き出すのか。


 議論した詳細な内容はひとまず脇に置いておき、検死結果や関係者の証言などに基づく確実な情報だけを報告すると、百瀬からは『なるほどな』と満足そうな声が返ってきた。なにが『なるほど』なのかは、この場で語られることはなかった。


『それで?』

「ん?」

『おまえらの見解は?』

「あぁ……」


 ぽりぽりと頭を掻きながら、俺は冴えない表情で答える。


「ずっと同じところをぐるぐる巡ってるっていうか、うまく前が見えてないっていうか……」

『はぁ?』


 呆れたように、百瀬は深いため息をついた。


『鶴見はなにやってんだよ? ピースはこれで綺麗に全部揃ったんだ。なんなら実際に関係者に当たってるおまえらのほうがオレよりもよっぽど多くの情報を持ってるはずだろ』

「いや、そんなこと言われても……」

「池月」


 俺が曖昧な相槌ばかり打っていると、中井が声をかけてきた。


「おれも百瀬と話したい」

「わかった。――百瀬、スピーカーにするぞ」

『あ?』


 百瀬の返事を待たず、俺は音声をスピーカーモードに切り替える。

 中井、柏木、鶴見さん、そして俺……四人の真ん中に画面を上向けた状態でスマホを掲げると、中井が一番に口を開いた。


「百瀬? 中井だけど」

『よぉ、殺人犯!』


 中井がこの場にいることを知りようがなかった百瀬は、やや驚いたような声で、早速中井を殺人犯呼ばわりした。俺たち四人のギョッとした顔が並ぶ。


『どうだ、人を殺した気分は? 爽快か?』


 とんでもなくブラックな歓迎を受けた中井だったが、すぐさま顔色をもとに戻してさらりと百瀬の冗談に答えた。


「そうでもないぞ。おまえを殺せばさぞ爽快なんだろうけどな」

『ハッ、そいつはいい! こっちへ戻ってきたら早速やってもらおうじゃねぇか』

「どの口が言ってんだよ。おれがわざわざ手を下してやらなくたって、今にも死にそうな声してるくせに」

『ちょいと死ぬまでに時間がかかりそうでな。サクッとやっちまってくれると助かるって話だ』

「そんなに死にたきゃ腹でも切ってみたらいいさ。おれがこの手を汚す理由はますますないね」

『おいおい、知らねえのか? 武士の切腹には介錯かいしゃく人が付きものだぜ?』

「知ってるよ。腹を切った武士の首を切り落とす役目の人だろ?」

『あぁ。どうだ、やりがいがありそうだと思わねぇか?』

「悪いけど、謹んで遠慮させてもらうよ。剣の腕には自信がないんだ。介錯の失敗は剣の扱いが下手っていう証で恥を晒すだけだし、おまえとしてもつたない介錯で無駄に痛い思いをするのはイヤだろ?」

『へぇ』


 クツクツと百瀬の楽しそうな笑い声が上がる。


『さすが、秀才は違うねぇ。池月なら「誰が武士だ」なんてつまんねえツッコミを入れてくるだけなのに』


 つまんなくて悪かったな、と心の中だけで悪態をつく。ムッと顔をしかめた俺をちらりと見て、中井は涼しげに肩をすくめた。


 中井と百瀬、互いに一歩も譲らない言葉の応酬に区切りが見えると、百瀬は再びつらそうに咳き込んだ。


『あー、くそ……マジで死んだほうがマシだ』

「わかるよ」中井が言った。「おれも昔罹ったことがある。大丈夫か?」

『大丈夫なわけねぇだろ。ちくしょう……息するのもめんどくせえ』

「すまん。おれが巻き込んだようなもんだよな」


 はぁ、と気持ち大きく息を吐き出した百瀬は、気を取り直したような声で言った。


『運が悪かったな、中井』

「え?」

『あと十分……いや、五分早く部屋に戻ってれば、おまえは誰に殴られることもなかったんだからよ』


 自信たっぷりに紡がれたその言葉に、俺たち四人はハッと息をのみ込んだ。


「百瀬!」


 黙っていられず、俺は身を乗り出した。


「おまえ、まさか……?」


 あぁ、と力強く言った百瀬は、俺たちを聴衆に、高らかな勝利宣言を掲げた。


『事件は解決だ――嘘つきが誰だったのか、きっちり証明してみせてやる』

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