2/6 09:27 a.m.

 723号室の畳の上に座り込み、四人で小さな輪を作った俺たちは、中井の要望に従う形でもう一度事件について振り返る作業に取りかかった。

 俺が河畠刑事から訊き出した瀧田さんの死亡推定時刻について報告すると、やはりというべきか、中井は険しい表情を浮かべた。


「おれの見間違いだったのかなぁ……」


 検視官の見立てでは、瀧田さんの死亡推定時刻は午後九時から十時の間。中井が瀧田さんらしき人物を目撃したのは午後十一時すぎ。法医学の世界において一時間を誤差の範囲とするかどうかは定かではないけれど、〝推定〟という言葉のとおり、検視官は実際に事件が起きたであろう時間に見当をつけただけだ。間違っている可能性は否定できない。


「視点を変えてみましょう」


 鶴見さんが言った。


「そもそも、どうして陽太は犯人に襲われなくちゃならなかったのか……そこから事件をたどってみない?」

「そりゃあ鶴見ちゃん、あれだろ」


 柏木がピンと人差し指を立てた。


「事件の直前に、おれたちが瀧田さんともめ事を起こしたからじゃん?」

「違うよ、柏木くん。そういうことを言ってるんじゃないの」


 鶴見さんは即座に首を振って否定した。


「もし今の柏木くんの見解を採用するなら、犯人は陽太に対して殺人の罪を着せたかったという話になる。でも、さっき言ったでしょ? 瀧田さんの遺体と一緒に発見された陽太のからだには、それらしい細工が一切されていなかった。つまり、犯人が陽太を事件に巻き込んだのは、陽太に疑いをかけるためじゃなかったってこと。なにか別の目的があったんだよ」

「じゃあ、こういうのはどうだ?」


 今度は中井が声を上げた。


「犯人は、午後十一時の時点で瀧田さんが生きている姿を誰かに目撃させたかった。そこで、その時刻にたまたま719号室の前を通りかかったおれを襲い、部屋の中へと引きずり込んだ」

「いいね」鶴見さんがうなずく。「可能性としては十分考えられる」

「けど杏菜、この見解を採用するとしたら、犯人にとって目撃者は誰でもよかったってことにならないか? 生きている瀧田さんの姿を見せたいだけなら、なにもおれじゃなくたっていいわけだろ?」

「そうね。陽太と柏木くんが事件の前に瀧田さんともめ事を起こしたこととはなんの関係もなかったのかもしれない」

「ちょっと待てよ、ふたりとも」


 俺も議論に割って入る。


「今の話、ちょっとおかしくないか?」

「おかしいって?」


 鶴見さんが尋ねてくる。俺は慎重に言葉を選びながら答えた。


「どうして犯人は、中井に瀧田さんの生きている姿を見せる必要があったんだ? これから人を殺そうと思ってる時に第三者を介入させるなんて、むしろリスキーな気がするんだけど……」

「なるほどな、言われてみれば」


 中井が声を上げるが、考え込むばかりでそれ以上言葉が続かない。確かにね、と鶴見さんが代わりに中井の発言を引き継いだ。


「犯人はもしかして、死亡推定時刻が午後十一時よりも早く計算されることを知っていたのかな? ……いや、さすがにそれはないか。仮に瀧田さんが殺されたのが午後十一時以降だったとするなら、死亡時刻の推定がズレることは犯人にとって好都合なはずだもんね」

「えっ、どうして?」


 柏木がわかっていない顔をする。だってそうでしょ、と鶴見さんが丁寧に解説た。


「事件が起こった時刻を警察が勘違いしてくれるんだよ? それだけ捜査は難航するってことじゃない」

「いや、違う違う」


 柏木がふるふると手を振った。


「おれ、聞いたもん。昨日の十一時から今日の朝まで、みんなぐっすり眠ってたって。祥太朗も言ってたぜ? 物音一つ聞いてないのなら、誰かが部屋を抜け出したってきっと気づかなかっただろうって」


 な? と柏木に同意を求められ、「あぁ」と俺はうなずき返す。


「瀧田さん以外の五人は、風呂上がりに揃って部屋のポットでいれたお茶を飲んでる。そのあと、全員が朝までぐっすり眠り込んでしまった……」

「はぁ、なるほどね」中井が言った。「おれだけじゃなく、あの大学生たちも犯人に一服盛られたんじゃないかって話だな?」

「あぁ。瀧田さんが睡眠薬を持ってきてたらしいし、まったくあり得ないとは言い切れないだろ?」

「……そっか、そういうこと」


 柏木の指摘と俺の見解を受け、鶴見さんはなにかに気づいたらしい。


「柏木くんが言いたいのは、アリバイの話ね?」

「アリバイ? うーん……なんかよくわかんないけど、瀧田さんが死んだのが十一時より後なら、犯人は誰にも気づかれずに瀧田さんを殺したんだろうなーって思っただけ」

「とってもいい意見だよ、柏木くん。要するに、瀧田さんが殺されたのが午後十一時以降だった場合、睡眠薬を飲まされて熟睡していた五人の関係者には誰ひとりアリバイがないということになる。つまり、犯人にとって本当に好都合なのは、警察が死亡推定時刻を午後十一時以降だと思ってくれることだよね」

「でも実際には」俺が言った。「警察の見立てはそうなってない」


 そう、と鶴見さんは腕組みをした。


「ただ、捜査が難航する展開になっているのは間違いない。警察の見立てと陽太の証言が噛み合っていないんだから。そういう意味では、犯人の狙いどおりだと考えていいのかもしれない」

「ちょっと待てよ、杏菜」


 中井がすかさず疑義を挟む。


「杏菜の言う〝犯人の狙い〟って、つまるところ何なんだ? おれを事件に巻き込んで、瀧田さんの生きている姿を見せることか?」


 やや言い淀みながら鶴見さんは答える。


「待って……そうだとすると、実際に瀧田さんが亡くなったのは、警察の見立てどおり午後九時から十時の間ってこと……?」

「意味わかんねぇ」中井が声を荒げる。「だったら、おれがあの部屋で見たのは一体誰だったんだよ? やっぱり見間違いだったってことか?」


 珍しく苛立ちを隠しきれていない中井の姿に、俺たちは揃って口を噤む。議論は堂々巡りの様相を呈してきた。


「論点を変えましょう」


 軽く息をついてから、鶴見さんが淀み始めた場の空気を一掃する。


「わたしが訊いてきた話も報告するね。百瀬くんがどういう意図で調べるように言ったのかはわからないけど、事件の起きた719号室で誰かが飲酒したような形跡はなかったって」

「えっ」思わず声を上げてしまった。「鶴見さん、それ本当?」

「うん、刑事さんがそう言ってた。というか、あの部屋の様子ならわたしたちも見ているよね。すごく綺麗だった」


 確かに。ホテルの人が敷いてくれた布団が整然と並べられているだけで、荷物を広げている風でもなかった。

 しかし、その状況こそ俺が抱いている違和感の正体だった。

 事件発覚後、河畠刑事が昨夜起こった柏木と瀧田さんのもめ事について西山さんに尋ねた時、彼はこう答えている。


 ――そのあとも瀧田の怒りは収まらなくて、『部屋で飲み直す。誰も入ってくんな、おまえらの顔すら見たくねぇ』って言って、客室に閉じこもっちゃったんです。


 瀧田さんは『部屋で飲み直す』と言って719号室に閉じこもった。実際、瀧田さんはよくお酒を飲む人だったという証言もある。

 瀧田さんが部屋に閉じこもり始めたのは午後九時すぎ。たとえば殺されたのが午後十一時以降だった場合、酒好きの彼が『飲み直す』と言いながら二時間以上も酒に手を出さなかったというのは不自然じゃないだろうか。

 そう考えると、彼が死亡したのは午後九時から十時の間……それも、午後九時に限りなく近い時刻だったと仮定するほうがしっくりくる。酒をのむひまも与えられないまま命を奪われたということだ。

 ただし、そうなると中井が目撃したのは誰かという話が再浮上することになる。結局のところ、議論は巡るばかりで一向に結論へとたどり着けないままなのだ。


 なにかが足りない。

 この状況を打開する一手を導いてくれる、重要なピースが行方不明だ。

 それさえ見つかれば、あるいは俺たちの力だけでも――。


「なぁ、祥太朗」


 自らの思考にふけっていると、柏木がふと声をかけてきた。


「ん?」

「鳴ってる」

「え?」

「ケータイ」


 はっ、と俺はズボンのポケットに手を触れた。おしりに入れていたはずのスマホはいつの間にかぽろりと畳の上に転がっていて、ブーブーと規則的な振動音を上げていた。

 即座に心臓が早鐘を打ち始める。スマホを拾い上げる手が震えた。


 画面の上で、〈百瀬龍輝〉の四文字が躍る。

 うまく動かない指を必死に滑らせ、俺は着信に応答した。

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