2/6 07:06 a.m.

「陽太!」


 唐突に、出入り口の扉のほうから若い女の声が聞こえてきた。フローリングを駆ける音とともに姿を現したのは、一組の生徒であり、中井の彼女でもある同級生・鶴見杏菜さんだった。


「杏菜……」

「陽太!?」


 鶴見さんは迷わず中井に駆け寄った。俺も中井も止めるつもりが、そんなひまさえ与えられない。


「大丈夫?」

「う、うん……」


 出入り口には柏木が変わらず不安そうな顔つきで立っていた。あいつが鶴見さんに中井が見つかったことを伝えたのだろう。

 やがて鶴見さんは、瀧田さんの遺体の存在に気がついて目を見開いた。しかし、彼女が驚きを露わにしたのは一瞬で、すぐさますくっと立ち上がり、ゆっくりと遺体に近づいた。


「お、おい……杏菜……!?」


 鶴見さんの突然の行動に、中井だけでなく俺や美大生たちも息をのむ。そんな俺たちには目もくれず、鶴見さんは瀧田さんのすぐ右脇――さっきまで沢代さんがへたり込んでいた場所に片膝をついた。


「刺殺」


 遺体のそばに落ちていた刃物、そして瀧田さんの腹部あるいは胸部から流れ出す血液を見て、鶴見さんはそう一言だけつぶやいてから立ち上がる。ぐるりと部屋の中を見回すと、扉からもっとも遠い南側の窓に歩み寄った。

 身につけていた濃紺のジャージの袖を引っ張り、指紋が残らないようにカーテンを開ける。外はすっかり明るくなっていた。鶴見さんは景色を眺めたかったわけではなく、すべての窓に鍵がかかっていることを確認しているようだった。


 まもなくしてホテルの従業員が数名、殺人現場となったここ――719号室にやってきた。改めて緊迫した空気が室内を漂い出したかと思えば、救急隊員、警察と次々に臨場し、あっという間に物々しい雰囲気に包まれていった。




 遺体発見から、およそ三十分が過ぎた。

 大きな怪我はないように見えた中井だったが、念のため検査をするということで病院に搬送されることになった。遺体発見現場で倒れていたという事実を知った警察は、刑事をひとり中井の乗った救急車に同乗させた。学校側からは、中井の担任である坂野先生が付き添いで中井とともに病院へ向かった。


 俺、柏木、そして鶴見さんは一度自分たち部屋に戻り、制服に着替えたのち、刑事さんの指示で再び現場となった719号室の前を訪れた。未だに手は震え、心臓がばくばくと大きな音を立てている。背中にはヘンな汗をかいていた。


「大変な目に遭ったな、君たち」


 対応してくれた刑事さんは河畠かわばたと名乗った。よわい五十を超えていることは確実で、まもなく定年を迎える先生たちと同じ、どこか悟りを開いたような穏やかさを醸し出している。


「修学旅行中なんだろう?」

「そうっす」柏木が答えると、河畠さんは「気の毒になぁ」と肩をすくめた。


「気分が悪いって子はいないかな? いくつか質問に答えてもらいたいんだが」


 俺たちは三人で顔を見合わせ、「大丈夫です」と鶴見さんが代表して答えた。河畠さんはうなずくと、俺たちを事件現場の隣――718号室へといざなった。落とし物名人さんが『女子部屋』と言っていた、理沙子さんたちの泊まっている部屋だ。


 しんと冷たい静謐の中に、ゆかりさんが啜り泣く声だけが響いていた。膝を抱える彼女の隣で、マスクの女性が俺にしてくれたのと同じようにゆかりさんの背中をさすっている。


「よろしいですか、皆さん」


 後輩刑事をひとり引き連れて部屋に入った河畠さんが声をかけると、全員の視線が熟年刑事に集まった。落とし物名人さん、理沙子さん、沢代さん、ゆかりさん、マスクさん、柏木、鶴見さん、そして俺……みんな畳の上に座っている。これだけの注目を浴びてもなお、河畠さんはまるで動じる様子はない。


「それじゃ、まずは被害者について確認させてもらいましょうか」


 河畠さんは手のひらより少し大きいくらいのノートを片手に、書かれた内容を丁寧に読み上げ始めた。


「瀧田要さん、二十一歳。中園なかぞの美術大学環境デザイン学科の三年生。……えーと、あなた方は『心霊スポット愛好会』というサークルのメンバーで、瀧田さんとともに心霊スポット巡りのため広島を訪れていた……ということで間違いありませんか?」


 はい、と答えたのは落とし物名人さんだ。ひょっとして彼がサークルのトップなのだろうか。


「こいつは個人的な興味ですがね」と河畠さんは前置きして、「環境デザイン学科ってのは、具体的に何を学ぶところなんですか?」

「瀧田は主に建築の勉強をしていました」落とし物名人さんが答える。「要するに、空間デザインを学ぶんです。都市環境デザインとか、インテリアデザインとか、いろいろあるんですが、中でも瀧田は建築士の資格取得を目指していて」

「ほう、建築士」


 河畠さんは心底感心した様子で眉を上げる。俺は俺で、怒った顔しか見たことのない瀧田さんがどんな表情で建築学と向き合っていたのだろう、なんてことを考えてみたけれど、うまく想像が膨らまなかった。


「失礼ですが、お名前を頂戴しても?」


 河畠さんが落とし物名人さんに問う。「西山にしやま修司です」と彼は漢字でどう書くのかまで丁寧に答えた。


「西山さんね。あなたが遺体の第一発見者だそうですが、具体的にはどういった状況だったんでしょう?」

「えぇと、説明すると長くなるんですが……」


 ぽりぽりと頭をかき、落とし物名人さんこと西山さんは、慎重に言葉を選びながら話し始めた。


「事の発端は、昨日の夜でした。瀧田がそこにいる少年と、ちょっとしたもめ事を起こしまして」


 西山さんが柏木に目を向けると、河畠さんも柏木を見る。


「きみ、名前は?」

「柏木です」

「柏木くん、もめ事っていうのは?」

「肩をぶつけられたんすよ」

「ほう、瀧田さんに?」

「そうっす。おれと中井が廊下に出たら、その人たちが正面から歩いてきて」柏木は顎で美大生たちを示す。「瀧田って人がすげー酔っ払ってて、あぶねーなーと思ったからおれらは廊下の端に寄ったんすよ。なのにあの人、わざわざおれのいるほうによろけてきて!」


 鮮明の思い出したのか、柏木の顔に赤みが挿した。


「おれが先に謝ったのに、めちゃくちゃに怒鳴りつけてきたんすよ、あの人! それでおれ、我慢できなくて。言い返したらもみ合いになって……」


 中井と西山さんたち美大生が仲裁に入り、どうにかその場は収まった、というところまでを柏木が興奮気味に語った。彼の言葉を継いだのは西山さんだ。


「そのあとも瀧田の怒りは収まらなくて、『部屋で飲み直す。誰も入ってくんな、おまえらの顔すら見たくねぇ』って言って、客室に閉じこもっちゃったんです」

「閉じこもった?」


 河畠さんが少し目を大きくして問う。


「瀧田さんが、おひとりで?」

「はい」

「それ、何時頃の話でしょう?」

「午後九時すぎだったと思います。ホテルの外で食事をして、戻ってきたところでしたから」

「九時ね」河畠さんはメモを取った。「それから、あなた方はどうされました? 部屋に入れなくなってしまったわけでしょう?」

「仕方がないので、ひとまず女子部屋――今いるこの部屋ですね――に上がらせてもらって、風呂に行きました」

「風呂?」

「一階に大浴場があるんですよ。瀧田が閉じこもっちゃったせいで荷物が取れなかったので、女子部屋に用意してあったホテルの部屋着を借りてね」

「皆さん、揃って行かれたんですか?」

「えーっと……」

美和みわちゃんだけ、部屋に残ったのよね」


 言いづらそうにした西山さんに代わって、理沙子さんが答えた。「そうです」とうなずいた美和さんというのは、マスクをつけた女性のことだった。


「一昨日から風邪気味で、昨日の観光で疲れてしまって……。大浴場まで降りていくのが億劫だったので、部屋のシャワーで済ませました」

「その間、あなたは……えぇっと……?」


 鳥飼とりかいです、と美和さんは名乗った。なるほど風邪気味というのは本当のようで、よく聞けば彼女の声は上ずって鼻にかかっている。しゃべることそれ自体が少ししんどそうだ。


「鳥飼さんは、ずっとお部屋に?」

「はい。九時四十分頃に西山さんと海斗かいとが戻ってくるまで、ずっとひとりでした」


 海斗というのは沢代さんのファーストネームだろう。彼はずっとうつむいていて、心ここにあらずといった様相だ。


「男性陣が戻ってくるまでの間に、瀧田さんとはお会いになりましたか?」

「いいえ。どうせ部屋に行っても開けてもらえないでしょうし、特別用事もありませんでしたから」

「瀧田さんからこちらの部屋を訪ねてくるといったことは?」

「さぁ、なかったと思いますけど……。わたしもシャワーを浴びていた時間がありますから、その間に部屋をノックされても気づけなかったでしょうね」

「ちなみに、シャワーにかかった時間はどのくらいでしょう?」

「そうですね……着替えまで含めて二十分程度だったと思います」


 答え終えると同時に美和さんは控えめに咳をした。河畠さんもそれ以上彼女に質問することをやめ、話を前に進めた。


「大浴場に向かわれたそちらの四人は、それぞれふたりずつ組みになって行動していたということでよろしいですね?」

「そういうことになるわね」と理沙子さんが言った。「私とゆかりちゃん、修司と海斗」

「結果的にさぁ」西山さんが言う。「美和ちゃんが部屋に残ってくれて正解だったよね。先に上がったぼくたちが、部屋の前で待たされずに済んだんだから」


 河畠さんはうなずきながらノートの上で手を動かしている。


「女性おふたりは、何時頃お戻りに?」

「九時五十分頃でした」河畠さんの問いに答えたのは、唯一部屋に残っていた美和さんだった。「それからはずっと、みんなで女子部屋にいましたよね」


 残る四人全員がうなずき、河畠さんも納得したように首を縦に振った。


「すると、昨夜の九時五十分以降、あなた方五人は朝までこの部屋にお揃いだった……ということになりますね。その間、どなたか瀧田さんとお会いになった方は?」

「大浴場から女子部屋に戻る前だったら」と西山さんが声を上げる。「一度、瀧田の閉じこもった男子部屋をノックしました。荷物や着替えを取りたかったんですが、返事すらしてもらえなかったな」


 ほう、と河畠さんは表情を変える。


「となると、その時点ですでに瀧田さんが殺されていた可能性も考えられるわけですな」


 ――ん?


 今の河畠さんの発言に、かすかだが違和感を覚えた。

 なんだろう。なにか引っかかる。

 西山さんと沢代さんが一階の大浴場から七階の客室に戻ってきたのは九時四十分頃。その時すでに瀧田さんが殺されていたとしたら?


 ――そうか。


「あの、刑事さん」


 おずおずと手を挙げた俺に、一同の視線が降り注ぐ。一気に心拍数が上がった。


「何かな?」

「あ、えっと……」


 ――ダメだ。


 言葉に詰まる。

 昔から俺は、こういう場面にすこぶる弱かった。大事な場面であればあるほど、口がうまく回らない。

 落ち着け。自分から手を挙げておいて、「やっぱりなんでもないです」じゃあまりにもかっこ悪すぎるだろ。

 ふぅ、と大きく息を吐き出し、俺はもう一度顔を上げた。


「あの……今の話、あり得ないと思います」


 緊張で少し声が震えてしまった。しかし、俺の意見は河畠さんの心を揺さぶったようで、彼の眉間にくっきりとしわが刻まれた。


「というと?」

「中井が……あの、瀧田さんと一緒に隣の部屋で倒れてた同級生のことですけど」


 うん、と河畠さんはわかっているという風にうなずいてくれた。


「あいつ、言ってました……十一時すぎに自分の部屋へ戻る途中で誰かに殴られて、部屋の中に引きずり込まれたって。その時あいつ、見てるんです……瀧田さんが、窓際に立っているところを」


 これは中井の証言と、柏木が鶴見さんから聞いた話とをすり合わせた結果、導かれる結論だ。

 中井は昨日、午後十一時まで鶴見さんと一緒にいた。エレベーター前で別れて部屋に戻る途中で襲われたのだから、中井が引きずり込まれた部屋の中で瀧田さんを見たのは午後十一時すぎ。つまり、少なくともその時間まで瀧田さんは生きていたということだ。さっきの河畠さんの見解では午後九時四十分の時点で瀧田さんは殺されていることになり、中井の証言と矛盾する。もちろん、中井が嘘をついていないというのが前提条件になるわけだが。


「なるほどね」


 俺が語り終えると、河畠さんは手にしていたボールペンで頭をかいた。


「きみの話はよくわかった。検視官が死亡推定時刻を判断してから、この点は改めて検証することにしましょう。中井くん、といったかな? 彼の話をどこまで信用していいのかも見極めなきゃならんし」

「陽太は嘘をつきません」


 鶴見さんが、毅然とした態度で言い切った。


「なんでこんなことになったのかわからないけど、陽太はただ巻き込まれただけ」

「どうしてそう言い切れるのよ!」


 やはりというべきか、反論したのは理沙子さんだった。


「あの子が殺したんじゃないって、何か証拠でもあるの!?」

「陽太には瀧田さんを殺す動機がない。直接肩をぶつけられた柏木くんならともかく、たまたま一緒にいただけの陽太がどうして瀧田さんを殺さなくちゃならないのか、それを説明するほうがずっと難しいはずです」

「そんなのわからないじゃない! 私たちの知らない間に、あの子と要の間に何か別のもめ事が起こった可能性だって否定できないわ!」

「だとしても、ほぼ初対面の人間を行き当たりばったりで殺したりしますか? そもそも、瀧田さんは刺殺されたんですよ? 陽太は修学旅行生です。刃物なんて持ってきているわけがない」

「それだってただの憶測じゃないの! たとえば刃物は要の私物で、先に手を出したのは要だったかもしれない。それでもみ合っているうちにあの子が要を刺しちゃって、まずいと思って被害者のフリをしたとか……!」

「ずいぶん具体的な例が出てきましたね」鶴見さんは少しも冷静さを失わずに返す。「まるでその現場を見ていたみたい」

「ふざけないでッ!」


 ついに理沙子さんが怒り心頭で立ち上がった。


「とにかく、証拠よ! あの男の子が犯人じゃないって言うなら、確たる証拠を持ってきなさい!」

「わかりました」


 顔を真っ赤にした理沙子さんの目の前に、鶴見さんはごく自然な立ち姿で歩み寄った。


「陽太の無実は、わたしが必ず証明します。もしも陽太が犯人ではないことがわかった時は、陽太への心からの謝罪を要求します」

「そうね、当然のことだわ。だったら、あの男の子が犯人だった場合は――わかるわね?」

「その可能性は考慮するに値しない」


 鶴見さんは、鋭い眼光をまっすぐ理沙子さんだけに向けた。


「陽太は、犯人じゃないから」


 く、と歯噛みした理沙子さん。鶴見さんの圧倒的な迫力に、外野の俺たちもこぞって小さく息をのむ。

 女子同士による新たな争いの火種がくすぶり始め、先行きに不安を覚えずにはいられなかった。せっかくの修学旅行が台無しだと、今になって思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます