第5話
結局、時間以内にトイレ掃除終わることなど出来なかった。
そりゃ、そうだ。
どこにどの掃除道具があるのか分からない。どれをどう磨けばいいのか分からない。それを考えるだけで10分は無駄にした。
しばらくして、佐野さんがトイレにやってきて私に掃除の仕方を教えてくれた。
どうせ教えるのならもっと早く教えてよと思う。
トイレの中をブラシで磨く。雑巾で乾拭きをする。トイレットペーパーがちゃんとあるかを確認。なければ、トイレットペーパーの補充。
手を洗う。それからトイレットペーパーの先端を三角折にする。これは感染症の恐れがあるから。
飲食店から発生するノロウイルスの主たる感染源は従業員であるから。ノロウイルスを持っているだけでは症状はでない。だから従業員でも無意識にそのウイルスを持っている可能性がある。
手の洗いかたもついでに教えてもらった。
手の甲の奥……手首まで洗う。指の先まで洗う。爪の先まで洗う。とにかく細かく時間をかけて洗う。
これも飲食店では重要な仕事である。そう佐野さんは語る。
ちなみにノロウイルスに仮にかかったとしたら、一般的な次亜塩素系の消毒剤では対処できない。
感染者が吐いた場所にキッチンハイターをかける。これしかもう方法はないらしい。
ちなみにどうして三角折にするのかということを聞いたら佐野さんは首をかしげた。
「これは無駄な仕事じゃ……」
と私が小さく呟いたら、佐野さんは太ももを叩いて大笑いをした。
「ま、人生無駄なことばかりだよ」
そして彼女は言う。
その意味を深く考えることは出来なかった。
佐野さんの笑みを見ると、どうもその言葉がそこまでの意味がないようにも思えた。
それからトイレ掃除が終わったのは結局開店から10分過ぎた頃だった。
既にお客さんが一人、テーブル席に座っている。
いらっしゃいませというべきなのか。
いや、ここはラーメン屋とかとは違う。
飲食を提供する。美味しさを届ける。ここまではラーメン屋と変わらない。
ただそれ以外にも、居場所を提供する。それが喫茶店の役目だと私は思う。
時として、居場所のない人の逃げ道になる。それが喫茶店。事実、私がそうであった。
白髪の眼鏡をかけた初老の男性は、珈琲を片手に新聞を読んでいる。
すでにこの喫茶店が居場所になっている。もう自分の世界に入っている。
珈琲の香り、木の香り。融合する。流れるクラリネットのゆったりとした曲。ムーンライトセレナーデ。
豊かである。もうこの空間が彼の一部になっている。
そのような人にたいして、改めていらっしゃいませと言って現実に戻すのも酷なものだろう。
それを考えると、何も言わないのが正解のような気がしてきた。
だから私は何も言わないことにした。
私が思う暖かい眼差しをそのお客さんにぶつける。軽く会釈をする。
静かな空間。確実に流れる時。止まることを知らない時。でもその流れをゆっくりにすることはできる。
「おい」
と諏訪さんに呼ばれる。
私はそちらへいく。トイレ掃除に時間をかけすぎてしまったのか。怒られるのか。
彼女の顔を見る。
元々無愛想だから、それだけでは表情を読み取ることなどできない。
「フラットホワイトが出来たからこれを届けるちゃ」
「フラットホワイトですか?」
「そう。カプチーノ、カフェラテ、フラットホワイトの違い分かるけ?」
私は静かに首を横に振った。
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