第108話 塩レモンクッキー
まさかアルフォンスとテレージアとの歓談の輪の中に自分が招かれるとは思っていなかった。
(本当は別に急ぎの用事なんてないけど……)
早くあの場を離れたくて適当な嘘を吐いてしまった。いつまでこんな気持ちのまま過ごさなければいけないのだろう
きっとアルフォンスはジークベルトと話す機会をなかなか得られないのだろう。なぜなら最近学園内でジークベルトのことを全く見かけないからだ。
テレージアの話によると、どうやら王都の街でいろんなお店を見て回っているらしい。前世でいうところの、マーケティングリサーチでもしているのではないだろうか。
ジークベルトの知識が理工学系に偏っているのは容易に想像できる。マインハイム王国に足りない文化的な要素を補うために、衣食住の情報を集めているのかもしれない。
もしそうだとしたら、ジークベルトはジークベルトなりに自力で自国の問題を改善したいと苦慮しているのかも。
§
アルフォンスとテレージアとの歓談の日から数日後のことだった。屋敷に戻ったオスカーによってアルフォンスからの伝言が伝えられる。
「明日の放課後、第二資料室で会談をする約束をジークベルト殿下と取り付けたそうです。これで一歩前進できそうですね」
そう言ってオスカーが嬉しそうに笑った。オスカーが応援してくれていたのだと思うと嬉しい。きっとやきもきさせてしまったのだろうなと思う。
「ありがとう、オスカー。それにしてもジークベルト様はなかなか捕まらないって聞いていたけれど、一体どうやって捕まえたのかしら」
「学園で待ってても埒が明かないと思って、殿下が護衛騎士と一緒に街に探しに行ったらしいですよ」
――そう、捜査は足で稼ぐのが基本よね。地道な努力が実を結んだわけね。アルフォンス様、グッジョブ!
「それで、どこで発見したの?」
「……なんだか珍獣探しみたいな言い方ですね。ジークベルト殿下がいらっしゃったのは意外な場所で、殿下から聞いたときは僕も驚きました」
「え、どこ?」
「ロイのパン屋です」
「なんですって……」
ロイのパン屋にはクリームパンと芋アンパンの他に、あれから何種類かレシピを提供していた。クロワッサン、チョコクリームパン、カボチャアンパン、ウィンナーロール、各種蒸しパンなどなど。
あの店のパンを目にしたら、ジークベルトはきっとルイーゼのレシピだと気付くだろう。日本でしか目にしなかったパンが多いのだから。まあ、クリームパンとカボチャアンパンはすでに模擬戦のときに露見済みだけれど。
若干驚いてしまったルイーゼを見て、オスカーが首を傾げながら顔を覗き込む。
「何か問題が?」
「あ、ううん。ロイのパン屋は私の前世の知識がかなり反映されているから、ジークベルト様は多分驚いただろうなと思って」
「あー、そうかもしれませんね。姉上のレシピは独特ですから、姉上とパン屋に関係があると思われたかもしれませんね」
ジークベルトはすでにルイーゼが転生者であることを知っているのだ。今さらパン屋との関わりがばれたところで、特に影響はないだろう。
突然オスカーが俯いて、お腹を押さえながら呟く。
「あれ、夕食が少し足らなかったのかな……。お腹が空いてきました」
夜も更けて夕食からは随分時間が経っている。育ち盛りの少年の小腹が空いてもおかしくない時間帯だ。
「まあ。じゃあ私がこの間作った塩レモンでクッキーでも作りましょうか」
「え、塩、何ですか? クッキー、ですか?」
「塩レモンよ」
塩レモン――所謂レモンの塩漬けだ。皮ごと使うので前世ではワックスが使われていない国産レモンを使っていたのだけれど、この国では普通に売っているレモンで大丈夫だ。塩はレモンの重量の二割弱程度でいい。
煮沸消毒した瓶に、適当な大きさに切ったレモンと塩を、交互に何層かに分けて入れていく。塩とレモン汁が混ざるように、一日一回瓶を振る。こうして一週間ほどで出来上がるのだ。レモンから出た汁にとろみが出てきたら完成だ。
肉炒めに使ってもよし、ドレッシングに使ってもよし、いろんな用途に使える調味料なのだ。
「へぇ、そんなものがあるんですね」
「ええ、そうなの。これならすぐに作れるから待っててね」
ルイーゼは調理場へ行って、予め漬けておいた塩レモンの瓶を取り出した。サクサククッキーとほぼ同じ作り方だ。
室温に戻したバターに砂糖を入れながらホイッパーで擦り混ぜる。卵をいつもより少なめにして、塩レモンの汁と果実の微塵切りを入れてさらに混ぜる。最後に小麦粉を奮い入れてさっくりと混ぜる。
出来上がった生地をスプーンで天板に並べて、オーブンで焼成する。バターの香ばしい香りに柑橘系の爽やかな香りが混ざって漂ってくる。
「うーん、いい匂い……」
「本当だ……。いい匂いですね」
「オスカー、いつの間にっ」
「たまには姉上がお菓子作りをするところを見てみようと思って」
「何なら今度教えてあげようか?」
「……僕は不器用なので食べる専門でいいです」
オスカーが恥ずかしそうに俯くので、ルイーゼはそんなオスカーが可愛らしくて笑ってしまった。オスカーもルイーゼに釣られて、少し照れたように笑った。
ようやく出来上がったクッキーをダイニングへ持っていって、エマの入れてくれた紅茶と一緒に二人でいただく。
「美味しい……。甘じょっぱさに酸味もあってお菓子なのにさっぱりしてる」
クッキーを一口齧ったオスカーが驚いたように目を丸くする。
「そうでしょう、そうでしょう」
オスカーの美味しそうに食べる顔が何よりのご褒美だ。オスカーの笑顔に密かに萌えていると、突然調理場の入口から声をかけられる。
「なんだか美味そうな匂いがするな」
「お父さま」
「父上」
なんと調理場に現れたのはテオパルトだった。この時間は部屋で一杯やっているはずなのに、一体どうしたのだろう。
「甘い匂いに釣られてな」
「まあ! よかったらお父さまもいかがですか?」
「では、遠慮なくいただこうかな」
「どうぞ」
ルイーゼが差し出した皿から、テオパルトが塩レモンクッキーを手に取って一口齧った。あまりお菓子を好んでは食べない人だと思っていたのに、テオパルトからは予想外の反応が返ってくる。
「これは美味いな……。ウイスキーとも合いそうだ」
「フフッ。よかったらいくつか持っていってください」
「ああ、いただくよ。ありがとう、ルイーゼ」
三人だけでお菓子を摘むのなんて、どれくらいぶりだろう。しかもルイーゼが作ったお菓子を、オスカーとテオパルトが揃って食べてくれるなんて。
母がいないのが残念だけれど、家族の団らんみたいで胸に温かい気持ちが溢れてくる。
ここにコタツがあったら完璧なのに。そんなことを想像しながら、長くなってきた冬の夜をほんわりとした温かい幸福感に包まれながら過ごした。
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