第十章 たくさんの羽(4)会いたかったから

 その夜。リサは風呂に入り、パジャマ姿で髪をタオルで拭きながら廊下を歩いていると、電話が鳴っていた。


 母親が出る気はないらしいのを確認すると、リサは受話器を上げる。


「はい、逢川です」


『逢川さん?』


 電話の主は安喜少尉だった。


「安喜さん? どうしたんです? こんな遅い時間まで。いったい何かあったんですか?」


『大変なこと――いえ、大変なのはいつもね。でも、今回のは違う。聞いて、シデルーン総司令が亡くなりました』


「え?」


 それはあまりにも衝撃的な話だった。バールスト・ファルブ・シデルーン侯爵にしてオーリア帝国軍総司令という国家的要人が、この平和な日本を訪問中に亡くなるなどということは、普通、ありえない。


『まだニュースにはなってないけど、明日にも報道されるはず。海から遺体が上がったのよ。警察は事故死ということで決着を付けそう。でも、死亡推定日時がおかしいの。伊豆研修より前だって……』


 それは、確かにおかしい。伊豆研修は今月の前半だ。そのとき、ラミザは平然としていたではないか。それになにより、ラミザ本人が、シデルーン総司令の日本滞在が延びていると語っていたではないか。


「そんな、はずは……」


『私は状況だけ伝えました。……もどかしいけれど、気をつけて。判断は間違わないで、逢川さん。本当に、本当に気をつけて』


「は、はい……」


『じゃあ、切るわね。おやすみなさい』


「はい。おやすみなさい」


 向こう側でプツッという音がしてから、リサは受話器を置く。


 なにかが起こっている。


 これまでとは違う、得体の知れない何かが。


++++++++++


 気持ちのモヤモヤが晴れない。こういうときは夜のパトロールに限る。


 リサはパジャマからジャージの上下に着替えると、ダッフルコートを着込む。口元を覆うようにマフラーを巻く。そして、メガネを外し、星芒具の入った通学カバンを肩に掛ける。


 いつもの調子で玄関から出たところ、そこに人影があった。


 ラミザだ。


「あら、リサ。いつもの夜の巡視?」


「どうして、こんな時間に、こんなところに」


「こんな時間に、こんなところににいれば、リサに会えると思ったからよ」


「どうして、わたしに――」


「あなたに会いたかったから」


 どういった意図だろう。リサは警戒した。本能も物証も、あらゆるものがラミザには気をつけろと言っている。


 だが、ラミザを前にして、リサはまるで身動きがとれない。ラミザはただそこに立っているだけに見える。なのに、こちらの行動の一切の先手を取っているように、リサは感じた。


 リサは口元のマフラーを下げて、口を開く。


「シデルーン総司令が亡くなったそうだね」


「あら、そうなの」


「知らなかったの?」


「どうかしら」


「もうずっと前に亡くなっていたそうだけど」


「そうなのね」


「それだけ?」


「それだけよ」


 それだけで済むはずがない。ラミザは曲がりなりにも、シデルーン総司令の補佐として来日したはずだ。上司が謎の死を遂げて、それだけ、で済ませるとはどういうことだろう。


「どうして、そんなことを」


「あの方は、わたしをアーケモスに、オーリア帝国に帰そうと画策していたのだもの。わたしの意に反して、よ」


 それは――。


 それはまるで、「だから殺したのだ」と言っているようなものだった。


「いったい、どうして、そうまでして日本にいたいの?」


「あなたよ、リサ」


「わたし……?」


「なにがあっても、どんな邪魔が入っても、リサを渡さない。わたしだけが、あなたに可能性の向こう側を見せることができる」


「いったい、何の話?」


「逢川ミクラさん」


 また唐突に姉の名前が出てきて、リサは息を飲む。リサは、自分にとって姉は何なのだろうと思う。


 優しい姉。大好きな姉。そうだ。


 可愛い姉、まっすぐな姉。その通りだ。


 放っておくとどこまでも行ってしまう。重責を負わせておいて、決して追いつけないところまで行ってしまう姉――。


「……違う」


 自分自身の考えを否定しようとするリサに対し、ラミザは答える。


「違わないの。ミクラさんの日本出国の記録と、オーリア帝国入国の記録が確認できたの。


 リサは愕然とする。


「いったい、姉はアーケモスで何をしているの?」


「さあ、それは本人に訊いてみないとわからないわ。それに、いつまでもオーリア帝国に留まっている保証さえないわけだし」


「それって、どういう――」


「リサ、あなたの正義感の源はミクラさんでしょう? そうなら、正義感が溢れるままに行動するミクラさんが、ひとところに留まるとは思えないわ」


「そんな――」


 リサは何か言い返したかったが、まるでその通りだとしか思えなかった。自分の果たすべき使命を見つけたら、無条件でそこへ行く。それが逢川ミクラという人物だ。


「じゃあ、わたしはこれで。おやすみなさい、リサ。きょうも冷えるから、部屋を暖かくするのよ」


 そう言い残して、ラミザは去って行く。


 リサはもはや、夜のパトロールなどをするような気持ちにも慣れなかった。


 空を見上げて、本人の代わりに、月と星々に尋ねる。


 お姉ちゃん、あなたはいったい、大学を放り出してまで、アーケモスで何がしたいの?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る